立ち読みコーナー
目次
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〈登場人物紹介〉
プリーチャー(ジョン・ミドルトン)
レストランバーの料理人
ペイジ
元美容師
クリス
ペイジの3歳の息子
メリンダ(メル)
助産師の資格を持つ看護師
ジャック・シェリダン
町で唯一のレストランバーを営む。元海兵隊員
(ドック)マリンズ
ヴァージンリバー診療所の医師
リック(リッキー)
ジャックの店を手伝う高校生
リズ(リジー)
リックの恋人
ジョン・ストーン
グレースヴァレーの病院の産科医
ブリー
ジャックの妹。郡の地方検事
マイク・バレンズエラ
ロサンゼルスの警官。ジャックたちの戦友
バド
ペイジの兄
ダン
大麻栽培者
ウェス・ラシター
ペイジの夫。株式トレーダー
 九月にしては季節はずれの冷たく激しい風が、凍るような雨を窓に打ちつけていた。プリーチャーはバーカウンターを拭いていた。まだ七時半だというのに、すでにあたりは暗くなっている。ヴァージンリバーの人間がこんな晩に出歩くことはない。雨の降る寒い晩には、夕食の時間が過ぎると、町の人は家から出ようとしなかった。このあたりでキャンプや釣りをしている連中も嵐に備えてどこかに避難しているはずだ。熊と鹿のハンティング・シーズンだったが、こんな天気のこんな時間にハンターたちがロッジや隠れ場所へ向かったり、そこから出てきたりするはずはなかった。プリーチャーの相棒でこのグリル&バーのオーナーのジャックは、客が来たとしても少ないと踏んで、結婚したばかりの妻と森のなかのロッジへ引き上げていた。店の手伝いをしている十七歳のリックのことも家に帰していた。もう少し暖炉の火がおちついたら、プリーチャー自身、オープンのネオンサインを消してドアに鍵をかけるつもりでいた。
 プリーチャーはウィスキーをショットグラスに注ぎ、暖炉のそばのテーブルに持っていくと、椅子を暖炉のほうに向けてすわり、別の椅子に足を載せた。こんな静かな晩も悪くない。彼は孤独を好む人間だった。
 しかし、そんな平和も長くは続かなかった。誰かがドアを引き、プリーチャーは眉根を寄せた。ドアはほんの少し開いた。風に吹きつけられたドアが勢いよく開いて大きな音を立て、彼は即座に立ち上がった。なかにはいってきて、ドアを閉めようともがいているのは子供を抱いた若い女だった。女は野球帽をかぶり、肩に重そうなキルトのバッグを下げている。プリーチャーはドアを閉めに行った。女が振り向いて彼を見上げた。どちらも驚いて飛びすさった。女はプリーチャーの怖そうな見かけに驚いたようだった――身長百九十センチ、剃り上げた頭、太く濃い眉、ダイヤモンドのピアス、斧の柄の長さほども広い肩幅。
 野球帽のつばの下に若い女のきれいな顔が見えたが、その頰には青あざがあり、下唇には切り傷があった。
「ご……ごめんなさい。ネオンサインが見えたので……」
「ああ、どうぞ。今夜外に出ている人がいるとは思わなかったから」
「閉めるところでした?」女は抱えている三つか四つほどの小さな男の子を抱き上げ直して訊いた。子供は女の肩にもたれ、力の抜けた長い足をぶらつかせて眠っている。
「わたし……。閉めます?」
「どうぞ」プリーチャーは女が通れるように脇に寄って言った。「大丈夫。ここ以外に行く場所があるわけじゃないから」そう言って腕をテーブルのほうへ伸ばした。「あそこの暖炉のそばにすわって、温まって体を乾かすといい」
「ありがとう」女はすなおにそう言って暖炉のそばのテーブルのところへ行ったが、飲み物に気がついて訊いた。「ここはあなたの席?」
「かまわない。すわってくれ」プリーチャーは言った。「店を閉めるまえに一杯やっていただけだ。でも、急ぐ必要はない。ふつうはこれほど早く閉めることはないんだが、この雨で……」
「家に帰りたいのでは?」と女は訊いた。
 プリーチャーはほほ笑んでみせた。「ここが家さ。だから、時間に融通が利く」
「ほんとうにいいなら……」
「ほんとうさ」プリーチャーは言った。「天気が悪くなかったら、たいてい少なくとも九時までは開けている」
 女は暖炉のまえの椅子に腰をかけた。男の子の長い足が女の膝をまたぐように投げ出された。女はキルトのショルダーバッグを床に下ろし、子供をきつく引き寄せて背中を撫でた。
 プリーチャーはしばらく女がひとりで温まれるよう裏へ引っこんだ。戻ってきたときにはベッドから枕を、ソファーから膝かけを持ってきた。彼は枕を女のまえのテーブルに置いて言った。「さあ。子供を下ろすといい。重いだろうから」
 女は泣きたいとでも言いたげな目をプリーチャーに向けた。ああ、頼むから泣かないでくれと彼は胸の内でつぶやいた。女が泣くのは嫌でたまらなかった。どうしていいかわからなくなるからだ。ジャックならどうにかできるだろうが。女にやさしい男で、どんな状況にあっても、女をどうしたらいいかよくわかっている。プリーチャーはよく知り合うまで、女のそばにいると居心地悪い思いをするのだった。そういう意味では、経験が不足していた。外見のせいで、意図せず女子供を怖がらせてしまいがちでもあった。しかし、怖がる連中にはわからなかったが、彼のときにいかめしい顔の下には内気な性格が隠れていた。
「ありがとう」女はまた言い、子供をテーブルの上の枕に移した。子供はすぐさま丸くなって親指を口に突っこんだ。プリーチャーは膝かけを渡すに渡せないまま立っていた。女が受けとろうとしなかったため、自分で男の子にかけてくるんでやった。子供の頰は赤く、唇は明るいピンク色になっていた。
 女は椅子に腰を戻して店のなかを見まわした。入口のドアの上に牡鹿の頭が飾ってあるのを見て身を縮めた。ぐるりと全体を見て、壁にかけられた熊の毛皮とバーカウンターの上のほうにあるチョウザメの剝製に気がついた。「ここは狩猟小屋か何かなの?」と女は訊いた。
「正確にはちがうが、ハンティングや釣りをする連中が大勢立ち寄るのはたしかだ」プリーチャーは言った。「熊はおれのパートナーが自分の身を守るために撃ったものだが、魚は趣味で釣ったものだ。あの川で獲れたなかで最大のチョウザメだ。鹿はおれが撃ったが、おれはハンティングよりは釣りのほうがいい。静かなのが気に入っている」プリーチャーは肩をすくめた。「おれはここのコックだ。動物を殺したら、必ずそれを食べる」
「鹿なら食べられる」と女は言った。
「だから、食べたさ。鹿肉が豊富な冬になった。きみも飲み物を飲んだほうがいいな」プリーチャーはなるべく怖がらせないようなやさしい声を出そうとした。
「泊まる場所を見つけなきゃ。それにしても、ここはどこなの?」
「ヴァージンリバーだ。辺鄙な町さ。どうやってここへ?」
「その……」女は首を振った。小さな笑い声がもれた。「高速を降りたの。ホテルのある町を見つけようと思って……」
「高速を降りたのはだいぶまえのはずだ」
「Uターンできるだけ広い場所があまりなくて」女は言った。「そうしたら、ここのネオンサインが見えた。息子は……たぶん、熱があって。これ以上先へ行かないほうがいいと思う」
 プリーチャーにはこの近辺に宿となる場所などないことがわかっていた。この女が問題を抱えているのはたしかだ。それはさして頭がよくなくてもわかる。「何か手を考えよう」と彼は言った。「でも、まずは――何か飲むかい? 食べ物は? 今夜はいいスープがある。豆とハムの。それとパンも。パンは今日作ったものだ。寒い雨の日にはパンを焼きたくなるんでね。まずは体を温めるためにブランデーはどうだい?」
「ブランデー?」
「それとも、何か飲みたいものがあれば……」
「ブランデーがいいわ。スープも。何時間も何も食べてないから。ありがとう」
「すわっていてくれ」
 プリーチャーはバーカウンターに行ってレミーマルタンをブランデーグラスに注いだ。このバーには高級すぎるグラスで、常連客に出すことはめったになかったが、この若い女には何か特別なことをしてやりたかった。どう見ても運に見放された女のようだったからだ。彼はブランデーを女のところへ運んでからキッチンに戻った。
 スープは明日のためにしまってあったが、それを冷蔵庫から出してひとすくい皿に入れ、電子レンジにかけた。スープが温まるまでのあいだ、プリーチャーは女のところへナプキンとスプーンを持っていった。キッチンへ戻ったときにはスープが温まっていたので、パンを――やわらかくて甘くて栄養価の高い自信作を――とり出して何秒か電子レンジにかけた。そのパンとバターを皿に載せる。キッチンから店へ戻ってみると、女は上着を脱ぐのに苦労していた。体がこわばって痛むようだった。その光景を見てプリーチャーは一瞬足を止めて顔をしかめた。女は肩越しに目をくれた。何か悪さをしているところをつかまったかのように。
 プリーチャーは食べ物を女のまえに置いた。頭のなかでは考えがめぐっていた。身長は百六十センチそこそこでやせている。ジーンズを穿き、茶色の巻き毛をポニーテールにして野球帽の後ろの穴から垂らしている。少女のように見えるが、少なくとも二十代にはなっているだろう。もしかしたら、車の事故にあったのかもしれないが、誰かにこっぴどくなぐられたというほうがあたっていそうだ。そう考えただけで頭に血がのぼった。
「おいしそう」女はスープを見て言った。
 女が食べているあいだ、プリーチャーはバーカウンターの奥に戻った。女はスープにスプーンを突っこみ、パンにバターを塗ってむさぼるように食べていた。食べながら、途中で謝るようなおどおどとした笑みをプリーチャーに向けた。それを見て彼は心が引き裂かれるような気がした。あざのある顔と切れた唇。飢えた様子。