立ち読みコーナー
目次
264ページ
第一章 サンリンボー    5
第二章 五月の節句に    44
第三章 幸福な王子     114
第四章 スーサイドホーム  177
14ページ~
 寄生虫というのは、実家でぬくぬくと暮らしている僕にはぴったりの言葉だ。それに僕は実物の寄生虫だって尊敬できる。アイツらの中には宿主と上手く共生するものだっている。そうでない方は宿主を内側から食い潰してから外へ出るんだけど。
 たとえば、ジガバチという寄生バチがいる。
 これは面白いハチで、その辺のアオムシを捕まえると自分の卵を産み付けてから、地中に掘った巣へ閉じ込めるらしい。その上で蜂はジガジガと羽音を鳴らして飛ぶ。その音を漢字にすると「似我」で、つまり地中のアオムシに「我に似よ」と呪文をかけている様子だという。昔の人にとっては、愚鈍なアオムシが美しいハチになって出てくるのは神秘的だったのかもしれない。もちろん、哀れなアオムシは幼虫の餌として食い破られているだけだが。
「じゃあ、ソウスケ君に呪文かけてやらないとな」
 僕は残念ながら綺麗なハチではない。でも寄生虫としての役目を果たしてやろう。そんな薄暗い欲望が沸き起こってくる。
「僕は、ハチっていうよりハエだな」
 そう自嘲しつつ、手で湯を掬ってみる。どれだけ綺麗にしても、壁に染み付いた手形は消えない。


 その日は父親の怒鳴り声で目を覚ました。
 あの父親が、誰からも隠れて生きているような人間が、声を荒らげて誰かを罵っている。その相手が自分でないことにまず安心する。
「なにやってんだ、アンタ! 常識はないのか!」
 声は玄関の方から聞こえる。怒り慣れてないから声が震えている。父親の声そのものだ。
「いいから持ってかえれよ! なぁ!」
 その言葉から、何か訪問販売でもやってきたのかと思った。でも答えは違ったらしい。
 トイレに行くついでに階段から様子を窺ってみた。玄関までは見通せないから一歩ずつ下りていく。
「怒鳴らなくてもいいじゃないですか」
 すると、今度は別の男性の声が聞こえた。父親よりは若いだろう。
「ちょっと煩くするかもしれないから、先に謝りに来たんですよ」
 階段の途中、いつもの手形のところまで来て、ようやく声の主が判明した。水色のポロシャツに短く刈った髪。上背のあるスラッとしたシルエットには見覚えがある。隣家の主人である、ソウスケ君のお父さんだ。
 そんな彼の前に、ずんぐりとしたイノシシがいる。
 もう頭髪を整えることもなくなったから、チリチリ髪が左右に散って頭頂部のハゲが目立っている。汚れたタンクトップと半ズボンは目の前の爽やかな男性と対照的だ。恥ずかしいけれど、あれが僕の父親だ。
「煩くするとか別にいい。ただこんなモン、受け取れないって言ってるんだ」
 そう言って父は、手にした紙袋をソウスケ君のお父さんに押し付ける。
「こんなモンって何ですか。別にアレルギーとか……」
「アンタな、今日が何の日か知ってるのか!」
 玄関先で父親が声を張り上げている。聞きたくない声だけど、成り行きが気になってしまう。
「何の日って、こどもの日でしょう」
 ソウスケ君のお父さんはキョトンとした感じで答えた。まさか「こどもの日」だから怒っているのか、とでも言いたげだ。ただ僕もさすがに思いたくないけど、「こども」というものが父の癇に障った可能性はある。
 ただ、父の答えは少し異様なものだった。
「サンリンボーの日だ!」
 きいん、と大きな声が広い家に反響していた。
 それから無言の時間が続いた。薄暗い玄関に父親が立っていて、対するソウスケ君のお父さんは外からの光を背に受けている。次第に色がぼけて、全部が白と黒に分かれていく。
「よく、わかりませんけど」
 先に口を開いたのはソウスケ君のお父さんだ。
「日が悪かったなら、出直します」
「そうしてくれ」
 結局、ここはソウスケ君のお父さんが引くことにしたらしい。正しい判断だ。僕だって、あんな父親を見るのは初めてだ。できるなら関わりたくない。
「でも、夜は少し煩くなるかも」
「いい、別に。そんなのは。怒鳴って、悪かった」
 荷物を持ち帰ることが決まったら、それだけで父親は大人しくなった。ソウスケ君のお父さんも、それまでの口論のことは水に流してくれたようだ。
 これで終わりか。
 僕は満足して自室へ戻る。つくづく性格が悪いと思うが、誰かが口論している姿は見ていて楽しい。特に自分に関係ないところで争っているなら、不安に思うものもないから一番だ。
 それに、あの父親が誰かを怒鳴っているのは痛快だった。それだけで、悪い人間は僕だけじゃないって思えるからさ。
 でも、どうして父親は怒っていたんだろう。“サンリンボー”というのは、何か意味のある言葉なのか。
 調べても良かったけど、なんとなく眠かったから後回しにした。このまま夕方まで二度寝してしまおう。

 次に目を覚ました時、窓から煙が入り込んできていた。
 炭火のにおい、肉が焼ける音、それから子供の笑い声。きっと庭でバーベキューをやってるんだ、って、すぐに思いついた。自分にも覚えがあったから。
「肉ばかり食べないの」
 ソウスケ君のお母さんの声だ。叱っているようだが、この間みたいな不機嫌さはない。時折聞こえる愉快な音楽はゲーム機からのもので、きっと買い直してもらったんだろう。庭先で遊びながら、夕飯はバーベキュー。なんとも贅沢なことだ。
「パパも対戦やってよ!」
 でも、きっと今日だけは怒られない。
 こどもの日だから、今日はソウスケ君のことを一番にしようって、隣家のお父さんとお母さんで決めたのかもしれない。
 少し様子が見たくなったので、ベッドから身を起こして窓辺へ近づく。風に揺れるカーテンをめくれば、まず向かいの家の子供部屋が目に入った。
 そこに何かがあった。
 少し距離があるからわからない。最初はソウスケ君が飾っているヒーローの人形かと思った。しっかりしたケースに入っていて、凝った衣装を着た人形が剣を持っている。赤い顔をして、ヒゲをぼうぼうに生やした武人の姿。
 これまでソウスケ君の部屋にはなかったものだ。それが何だかイヤなもののように見えた。
 ああ、五月人形だ。
 こどもの日は端午の節句で、それは男児のお祭りだ。僕にも覚えがある。似たようなものを持っていた気がする。この頃になると、父親がリビングにケース入りの五月人形を飾っていた。
 羨ましいな、って。
 つい、そんな視線で隣家の庭を見てしまった。バーベキューセットを囲んで笑っている三人。お父さんは肉を焼いていてさ、お母さんはソウスケ君からゲーム機を見せられている。幸せってヤツがさ、灰色の煙になって僕の方へ漂ってくる。
 子供に嫉妬するなんてどうかしてるけど、そこは今さらだよ。ソウスケ君は恵まれていて、僕はそうじゃない。
 ソウスケ君はお母さんに「しね」って言っても仲直りできたね。でも僕の母親は、仲直りすることもなく死んでしまったよ。お父さんに怒られても、やろうと思えば一緒にゲームをできるね。でも僕と父親は話をすることもなくなったよ。五月人形を飾ってもらえて良かったね。でも僕はもう子供じゃないし、あの鎧兜は捨てられてしまったよ。
 我に似よ。
 我に似よ。 
 我に似よ。
 僕は楽しそうに笑うソウスケ君に呪文をかける。綺麗な蝶になんてならないでくれ。せめてハチ、できるなら僕と同じハエになってくれ。
「蚕には、ハエがつくんだ」
 唐突にそんな言葉を思い出した。祖父の声だ。白い繭を持って、それを左右に振りながら教えてくれた。繭からはカラカラと乾いた音がする。
「ハエにつかれると、蚕はサナギのまま死ぬんだ」
 祖父がハサミで繭を切り裂いていた。中を開けば、縮んだ蚕のサナギと黒豆みたいなものが入っていた。それがハエのサナギだという。蛆虫がサナギになった蚕を食い尽くして、あの綺麗な白い繭を乗っ取ったんだ。
「これはイヤなもんだ」
 そう言って、祖父は黒豆を忌々しく踏み潰した。
 そこでようやく、僕がなんでハエだったのか思い出せた。僕は真っ白な繭の中で育つ蛆だった。きっと両親が期待していたのは役に立つ蚕で、でも僕という寄生虫が可能性を食い潰してしまったんだ。
「あは」
 それに気づいたら、つい声を出して笑ってしまった。
 だって面白かったからさ。
 でも参ったな。風に消える程度の声だったのに、ソウスケ君は動きをピタリと止めて、僕の部屋の方を見上げている。聞こえてしまったのかな。しっかりと目が合う。
 生意気そうな顔。しっかり切り揃えられた黒い髪。健康的な肌。くりくりと大きな目がどんどん見開いていって。
 悲鳴が一つ。
 子供っていうヤツは、急に訳もなく叫ぶ。周囲のことを考えない時分だから、とにかく大きな声になる。この辺の全ての家にまで響き渡るような。
「おばけがいる!」
 でも、その言葉はイヤだな。
 僕はスッと身を引いて窓辺から離れる。外から聞こえてくるのはソウスケ君の泣き喚く声と、それを必死になだめようとする両親の声。肉も焼きっぱなしで、きっと焦げてる。
「我に似よ、我に似よ」
 ソウスケ君の真っ白な幸福が、いくらか黒ずんだように思えてきて、なんというか、とても気分が良かった。

 隣の家が火事になったのは、それから一週間後のことだった。