立ち読みコーナー
目次
536ページ
〈登場人物紹介〉
マリオン
教師
トム・バージェス
警察官。マリオンの夫
パトリック・ヘイズルウッド
美術館員。トムの恋人
シルヴィ
トムの妹。マリオンの親友
ジュリア
マリオンの同僚
 こういう書きだしで始めようかとも思った――“もうあなたに殺意を抱いていません”。それが本心だから。でも、あまりにメロドラマじみていると思われそうなので考え直した。あなたは昔からメロドラマを嫌っていたし、今の病状――人生の終わりが近づいているかもしれないときに、あなたを動揺させたくない。
 わたしがしたいのはこういうこと――すべてを書き記し、きちんと決着をつける。これはいわば罪の告白で、細部まで正確に語る必要がある。パトリック、これを書き終えたら、あなたに読んで聞かせるつもりよ、あなたはもう言葉を返すことはできないから。それに、あなたに話しかけ続けるよう指示されているの。医師の話では、回復のためには会話が重要だそうよ。
 あなたはほとんど話すことができないから、わたしたちは同じ家にいても、紙で意思の疎通をしている。紙というのは、フラッシュカードを指さすという意味だ。あなたは言葉を発することはできないけれど、“飲み物”“トイレ”“サンドイッチ”など、自分が望んでいるものを身ぶりで示すことはできる。あなたの指がそれらの絵に触れる前に、何を望んでいるのか察しがついても、指さしてもらうことにしている。なるべく人に頼らないほうがいいから。
 それにしても不思議よね、わたしがペンと紙でこんなものを書いているなんて――
 これをなんて呼べばいい? 日記とは言えない。あなたが以前につけていたような日記とは違う。これがなんであれ、わたしが書いているあいだ、あなたはベッドに横たわり、わたしの一挙一動を見守っている。

 あなたは昔から、海岸沿いのこの地域が好きではなかったわね。“海岸べりの郊外”と呼び、年老いた人たちが夕日を眺めながら死を待つ場所だと思っていた。たしか、大きな寒波に襲われた一九六三年の冬には、イギリスの海辺のほかの集落と同じように、風の吹きすさぶ人里離れたこの地域もシベリアと呼ばれたのではなかった? でも今は、それほど荒涼としてはいない。代わり映えがしないのは昔のままだけど、予想がつく毎日を送ることに、わたしは心地よささえ感じている。ここピースヘイブンでは、どの通りもそっくり同じに見えるの。質素なバンガロー、実用的な庭、斜めに望む海の景色。
 トムがここへ引っ越すつもりだと言いだしたとき、わたしはかなり抵抗した。不動産業者がスイスのシャレー風の家だと謳っていたとしても、ブライトンで生まれ育ったわたしが、なぜ平屋建ての家に住みたがると思う? 通路がやけに狭い地元の〈生活共同組合〉(コープ)、古い油の匂いが鼻をつく〈ジョーズ・ピザ〉と〈ケバブ・ハウス〉、四つの葬儀場、〈アニマル・マジック〉という名のペットショップ、ロンドン仕込みのスタッフがいるとかいうドライクリーニング店。どこをどうしたら満足できる? ブライトンのカフェはいつも満席だったし、店には想像以上の――あり余るほどの――商品が並んでいた。桟橋はいつも明るく輝き、ちょっと圧倒されるほど開放的だった。それなのに、なぜこういうものに満足できる?
 無理な相談だった。あなたも感じたように、わたしもひどい考えだと思った。でもトムは、より静かでひっそりした場所、おそらくより安全な場所へ引っこむことを決断した。当時の巡回区域や忙しさを思い出すことにうんざりしていたのもあったのかもしれない。少なくともピースヘイブンのバンガローには、世間の忙しさを思い出させるものはない。午前九時半以前と午後九時半以降は、ピザ屋の前でたばこを吸っている数人のティーンエイジャーのほかは、通りにひとけはない。バス停と〈コープ〉からほど近いこのバンガロー(スイスのシャレー風ではないわ、ちっとも似ていない)には寝室がふたつあり、母家の前の長く延びた芝生には回転式の物干しが置かれ、ほかには三つの建物(物置とガレージと温室)がある。せめてもの救いは海が見えることだけど、まさしく斜めに望む景色で、寝室の側面の窓から見えるの。この寝室をあなたに使ってもらうことにして、好きなだけ海を眺められるようにベッドの位置を変えておいたわ。トムとわたしは景色を眺めたことは一度もないけど、パトリック、あなたに独り占めさせてあげるわね。摂政時代の装飾が施されたチチェスター・テラスのフラットで、あなたは毎日、海の景色を堪能していたでしょう。わたしはめったに訪ねなかったけれど、あなたのフラットから眺めた景色は今でも覚えている――ヴォルクの電気鉄道、緑の生い茂るデュークス・マウンド、風の強い日に白い波頭が打ちつける防波堤、そしてもちろん海――いつも同じで、いつも違っているようにも見えた。トムとわたしが住んでいたアイリングワード・ストリートのテラスハウスでは、隣の家の窓に映る自分たちの姿しか見えなかった。それでも、わたしはあの場所を離れたくなかった。
 だから一週間前、病院からここに到着したあなたをトムが車からおろして車椅子に座らせたとき、わたしがしたことをあなたははっきり理解したのではないかしら。小石埋めこみ仕上げの単調な茶色い外壁、ありえないほどつるつるしたアクリルの二重ガラスのドア、家のまわりを囲む針葉樹の生け垣。それらすべてがあなたに恐怖心を抱かせたことでしょう。さらに、ここの地名――“松林”(ザ・パインズ)だなんて、なんのひねりもない、実に陳腐な名前だわ。首に冷や汗がにじんで、シャツが急に窮屈に感じられたかもしれないわね。トムが車椅子を押して玄関へ向かったとき、ピンクがかった灰色のコンクリートの敷き板一枚一枚の継ぎ目がまったくなく、バリアフリー仕様になっていたことに、あなたは気づいたはず。わたしが鍵穴に鍵を差しこんで「ようこそ」と言うと、あなたは小さくしぼんだ両手をもみ合わせ、顔に笑みらしきものを浮かべた。
 壁紙がベージュ色の廊下に入ると、あなたを迎え入れる準備をするために使った漂白剤の匂いのなかに、わたしたちが飼っているコリーの雑種のウォルターの匂いをあなたは感じ取ったかもしれない。そして、額に入ったわたしたちの結婚式の写真を見て、あなたはかすかにうなずいた。トムはあなたが〈コブリーズ〉で買ってくれた立派なスーツを着ていて、わたしはごわごわしたベールをかぶっていた。リビングに入ると、トムとわたしは彼の退職金で買ったばかりの茶色のベルベットのソファセットに腰をおろし、セントラル・ヒーティングのカチカチという音を聞いた。トムの足元でウォルターが荒い息を吐くと、彼は口を開いた。「あとはマリオンがうまく取りはからってくれるだろう」トムが立ち去ろうとするのを見て、あなたが顔をゆがめたのにわたしは気づいた。彼がドアへ向かいながら「ぼくは用事がある」と言ったとき、あなたはレースのカーテンをじっと見つめていた。