立ち読みコーナー
目次
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〈登場人物紹介〉
ヘンリー・“モンティ”・モンタギュー
伯爵の息子
パーシー・ニュートン
モンティの親友
ヘンリー・モンタギュー
モンティの父親。伯爵
フェリシティ・モンタギュー
モンティの妹
ミスター・ロックウッド
モンティのお目付け役
ブルボン公爵
フランス国王の前宰相
マテウ・ロブレス
錬金術師
1

 ヨーロッパ大陸大周遊旅行(グランド・ツアー)に出かける日の朝、ぼくはパーシーの傍らで目覚めた。
 一瞬頭が混乱して、ぼくたちがいっしょに“寝た”のか、それともただいっしょに寝ただけなのか、はっきりしない。
 パーシーの服はしわだらけで位置もずれているとはいえ昨夜のままだし、寝具は少し乱れているけど、激しくかき回された様子はない。だから、ぼくが身に着けているのはベストと――何かの魔法で後ろ前にボタンが留めてあるのだが――片方の靴だけだとしても、ふたりとも節度を保ったと考えてよさそうだ。
 少し変だけど、ほっとした。ぼくたちの初めての時は、しらふでいたいから。初めての時が、この先あるとすればだけど。たぶん、ないんじゃないかという気がしている。
 横でパーシーが寝返りを打って、頭の上に片腕を放り出し、危うくぼくの鼻を殴りつけそうになる。顔をぼくの曲げた腕のあいだにうずめて、眠ったまま、上掛けをひとり占めする勢いでぐいと引く。髪は葉巻くさく、息はすえたにおいがしたが、自分の喉の奥で渦巻いている味――安いジンの強烈な後味と他人の香水――からすると、ぼくの息のほうがひどいはずだ。
 部屋の向こう側のカーテンが少しだけあいていて、太陽の光が目を射る。ぼくは両手で顔を覆う。パーシーがカラスみたいな声をあげ、ばたばたしながら目を覚ます。寝返りを打とうとして、その方向にぼくがいることに気づいたが、とにかく転がって、ぼくの上に着地する。膀胱が、これに強く抗議する。二日酔いがこんなにひどいということは、きっと昨夜はとんでもない量の酒を飲んだのだろう。そしてぼくは、ほぼ毎晩正体をなくすほど酔っ払いながら、翌日の午後には人間として動ける自分の能力を、むしろ自慢に思いはじめていた。午後というのは、かなり遅い午後のことではあるが。
 ふと、なぜこんなに頭がもうろうとして、まだ少し酔っ払っているのかに気づく。今は、ふだん起きている午後ではない。朝のかなり早い時間だ。パーシーとぼくは、きょう大陸へ出発するのだから。
「おはようございます、おふたかた」シンクレアが部屋の向こう側から言う。窓を背にした黒い影にしか見えない。いまいましい太陽の光で、しつこくぼくたちを苦しめようとしている。「若旦那さま」シンクレアが眉でぼくのほうを示して続ける。「お母さまに、起こすようにと仰せつかりました。馬車はあと一時間で出発する予定で、パウエルご夫妻は食堂でお茶を召し上がっておられます」
 叔父と叔母がいるという情報に反応して、パーシーがへそのあたりで生返事をする――人間が発したとは思えないような声。
「それから、昨夜お父さまがロンドンから到着されました、若旦那さま」シンクレアがぼくに向かって言い添える。「ご出発前に、お会いになりたいそうです」
 パーシーもぼくも動かない。片方の足にしがみついていた靴がついに根負けし、木製のかかとが東洋のじゅうたんに当たってドスンといううつろな音を立てる。
「眠気が覚めてくるまで、もう少しお待ちしましょうか?」シンクレアがきく。
「頼むよ」パーシーとぼくは声をそろえて言う。
 シンクレアが立ち去り――カチャリとドアが閉まる音がする。窓の外から、砂利の私道を走る馬車の車輪の音と、馬をつなぐ馬丁たちの呼び声が聞こえてくる。
 それから、パーシーが恐ろしいうめき声をあげ、ぼくはわけもなく笑い出す。
 パーシーがぼくをたたこうとしたが、空振りに終わる。「なんだよ?」「クマみたいな声だ」
「ふん、きみは酒場の床みたいなにおいがするよ」パーシーが頭を先にしてベッドから滑り下りたが、シーツにからめとられ、体をふたつ折りにして頰をじゅうたんに当て、逆立ちしているような姿勢になる。その拍子にパーシーの片足がぼくの下腹に当たり、笑いがうめき声に変わる。「そのまま動くな」パーシーが言う。
 用を足したいという欲求を無視できなくなり、ぼくは片手でベッドカーテンをつかんでどうにか起き上がる。留め具がいくつか弾け飛ぶ。かがんでベッドの下にあるしびんを探したりすると死に至るか、間に合わず漏らしてしまいそうなので、フレンチドアを押しあけて、生垣に排尿する。
 振り返ると、パーシーはまだ逆さになって両足をベッドにつき、床に寝そべっていた。編んでリボンで留めてあった髪は寝ているあいだにほどけて、奔放な黒い雲のように顔を縁取っている。ぼくはサイドボードにのったデカンターからシェリーをグラスに注ぎ、ふた口で飲み干す。酒を飲んでも、夜のあいだに口からもぐり込んで死んだ何かの味は消せそうにないが、心地よいしびれに包まれていれば、両親の見送りをどうにか乗り切れるだろう。そして、フェリシティといっしょに馬車に乗る数日間も。神よ、ぼくに力を与えたまえ。
「昨夜はどうやって帰ってきたんだ?」パーシーがたずねる。
「昨夜はどこにいたんだっけ? ピケットの三番めのあとは、何もかもがちょっとぼんやりしてる」
「あの勝負は、きみが勝ったと思うよ」
「勝負をしてたのかどうかもよく憶えてないな。正直言うと、少し飲んでた」
「本当に正直に言うなら、少しじゃなかったよ」
「そんなには酔っ払ってなかっただろ?」
「モンティ。きみは靴を脱がずにストッキングだけ脱ごうとしてたよ」
 ぼくは、シンクレアが置いていった洗面器の水を手ですくって顔にかけ、何度かピシャピシャとたたく――きょう一日の元気を呼び起こすためのはかない試みだ。パーシーがじゅうたんの上を転がってきて、後ろからドスンとぶつかる。
 ぼくはベストと格闘して頭の上から脱ぎ、床に放る。パーシーが寝そべったまま、ぼくの腹を指さす。「下のほうに変なものをつけてるよ」
「えっ?」ぼくは下を見る。へその下に、真っ赤な紅の染みがついている。「なんだこりゃ」
「どうしてそこについたんだろうね?」パーシーがにやにや笑いながらきき、ぼくは手につばを吐きかけてそれをこすり落とす。
「紳士は答えない」
「相手は紳士だったのかい?」
「勘弁してくれ、パーシー、憶えてたなら答えるよ」ぼくはデカンターからそのままもうひと口シェリーを飲み、サイドボードにそれを置こうとして、危うく落としかける。思ったより乱暴な置きかたになった。「まあ、重荷ではあるね」
「何が?」
「こんなに美男子だっていうのはさ。誰ひとりとしてぼくを放っておいちゃくれない」
 パーシーが口を閉じたまま笑う。「かわいそうなモンティ、なんという苦難」
「苦難? 何が苦難?」
「誰も彼もが、ひと目できみに熱烈な恋をする」
「彼らを責めることはできないよ。もしぼくがぼくに出会ったら、恋してしまうだろうからね」そう言って、悪党っぽくもあり少年のようでもある笑みをよぎらせ、お茶を注げそうなほど深いえくぼをつくってみせる。
「ハンサムなうえに謙虚なんだな」パーシーが背中を弓なりに反らす。じゅうたんに頭を押しつけ、両手の指を組んで思いきり伸びをしている。派手なことはめったにしないパーシーだが、朝にはこんなふうにあけっぴろげになる。「きょうの準備はできてるかい?」
「まあね。計画づくりにはあまり関わってなくて、父さまがぜんぶやったんだ。何もかもが整ってなけりゃ、ぼくたちを行かせはしないだろ」
「フェリシティは、学校のことで大騒ぎするのはやめたのかい?」
「フェリシティが何を考えてるのかなんて見当もつかないよ。いまだに、どうして連れていかなきゃならないのかわからない」
「マルセイユまでじゃないか」
「パリで二カ月も過ごしたあとにね」
「あとひと夏、妹と過ごすくらい耐えられるだろう」
 ぼくたちの真上で、いきなり赤ん坊が泣き出し――床板はその声を聞こえなくするほど厚くない――続いて、呼び声に急いで応じようとする子守の足音が、石畳を打つ馬のひづめのようにカタカタと響く。
 パーシーとぼくはそろって、天井にちらりと目を向ける。
「小鬼(ゴブリン)のお目覚めだ」ぼくは軽い調子で言う。音は遠いとはいえ、泣き叫ぶ声がうずくような痛みを頭に送り込む。
「かわいくてたまらないって口ぶりだね」
 三カ月前に弟が生まれて以来、まだ数えるほどしか顔を見たことはない。最初に、なんておかしなしわだらけの顔をしてるんだ、まるで夏じゅう日なたに放置されてたトマトじゃないか、と驚き、次に、こんなちっぽけな人間がぼくの全人生を破滅させる大きな力を秘めているとは、とおののいた程度だ。
 親指についたシェリーのしずくをなめる。「あいつはとんでもない脅威だよ」
「たいした脅威にはならないさ。ほんのこれくらいの大きさじゃないか」パーシーが両手を持ち上げて大きさを示す。
「あいつはどこからともなく現れて――」
「どこからともなくってことはないんじゃ――」
「――おまけにずうっと泣いてて、安眠を妨げ、場所を取るんだ」
「なんと厚かましい」
「あんまり同情してくれないんだな」
「同情するほどのことじゃないからさ」
 枕を投げつけると、パーシーはまだ寝ぼけていたのですばやくたたき返せず、まともに顔で受け止める。パーシーが気のない調子で枕を投げ返すと、ぼくはベッドの上にバタンと倒れ、腹ばいになって端から頭を垂らし、彼の顔をのぞき込む。
 パーシーが眉を吊り上げる。
「ずいぶん深刻な顔だな。ゴブリンを放浪の旅役者の一座に売り渡して、わが子として育ててもらう計画でも立ててるのかい? フェリシティとは仲よくなれなかったけど、二度めはうまくいくかもしれないよ」
 本当のことを言うと、ぼくは、このぼさぼさ頭のちょっと無防備な二日酔いのパーシーが、いちばんのお気に入りだな、と考えていた。パーシーといっしょに大陸への最後の観光旅行に出かけるのなら、できるだけ多くの朝をこんなふうに過ごそう。その先の年月になど目もくれず、次の一年を過ごそう――いつでも派手に酔っ払い、外国なまりのあるきれいな女の子たちと戯れ、パーシーの横で目覚め、そばにいればいつだって心地よく高鳴る胸の鼓動を味わうのだ。
 片手を下ろして、薬指でパーシーの唇に触れる。ウインクもしようかと考える。確かにそれはちょっとやりすぎだけど、回りくどい誘惑は時間のむだだというのが、昔からのぼくの考えだ。幸運は軽薄な者に味方する。
 だから、パーシーがいまだにぼくの気持ちに気づいていないとすれば、それは本人が鈍いせいに決まっている。
「きょう、ぼくたちはグランド・ツアーに出かけるんだって考えてた」ぼくは答える。
「思いきり楽しむつもりさ」

2

 ぼくたちが食堂に入っていくと、テーブルには朝食が並べられ、使用人たちはすでに姿を消していた。フレンチドアがあけ放たれていて、靄にかすむ朝の光がベランダをちらちらと照らし、カーテンが風をとらえて内向きにふくらんでいる。手すりの渦巻装飾に沿った金のはめ込み細工が、光のなかで露に濡れて温かく輝く。
 母は何時間も前から起きていたらしく、青いジェズイット(腰丈のジャケットとフルレングスのスカートから成るドレス)を着て、美しい褐色の髪を後ろに撫でつけてきちんとまとめている。ぼくは指で髪をくしゃくしゃにして、いつもどおりのわざと乱れた格好、“目が覚めたらこうなってたのさ”風のハンサムな見た目になるように努める。母の向かいの席に着いたパーシーの叔母と叔父は、まじめな顔で黙ったままだ。三人の前には市民軍でも満足させられるほどの料理が並んでいるが、母はデルフト陶器のカップに入ったゆで卵一個だけをつついていて――ゴブリンに体の線をだいなしにされて以来、どうにか元に戻そうと雄々しい努力を続けている――パーシーの保護者はどちらもコーヒーしか口にしていない。パーシーもぼくも、料理を平らげるのは無理だ。ぼくの胃はまだむかむかしているし、パーシーは食べ物の好みがうるさい。一年前から、四旬節の延長のような感じで肉を食べるのをやめてしまった。健康のためだと言っているけど、今もぼくよりずっと頻繁に病気で寝込んでいる。その食餌療法はばかげていると何度も忠告してきたのだから、あまり同情はできない。
 ぼくたちが入っていくと、パーシーの叔母が手を差し出し、パーシーがその手を取る。ふたりは、肖像画で見たパーシーの父と同じ柔らかな顔立ち――細い鼻と整った骨格――をしているが、パーシーの髪は濃い黒で、伸びると硬く縮れて、かつらも三つ編みも、どんなおしゃれな髪型も受けつけない。パーシーは生まれてからほぼずっと、叔父夫婦のもとで暮らしてきた。父親がバルバドスの領地でジャングル熱にかかって、フランス製のバイオリンと、白檀色の肌をした幼い息子を抱えて戻り、ほどなく亡くなって以来ずっと。パーシーにとって幸運だったのは、叔父夫婦が引き取って育ててくれたことだ。ぼくにとっても幸運だった。そうでなければぼくたちは出会っていなかっただろうし、だとしたらぼくの人生になんの意味があっただろう。
 母が顔を上げ、目尻のしわをテーブルクロスのしわを伸ばすように撫でつける。
「紳士たちのお目覚めね」
「おはよう、母さま」
 パーシーが、正式な招待客のように、席に着く前に小さくお辞儀する。ばかげたポーズを取っているこの青年のことを、ぼくは本物のきょうだいのどちらよりもよく知っている。そしてどちらよりもずっと好きだ。
 その場にいる本物のきょうだいは、現れたぼくたちを無視する。妹は手持ちの恋愛小説の一冊をクリスタルのジャムポットに立てかけ、取り分け用のフォークをページのあいだに挟んで押さえている。「そんなものを読むと、脳が溶けちゃうよ、フェリシティ」ぼくは言って、妹のとなりに腰かける。
「ジンほどすぐには効かないでしょ」フェリシティが目も上げずに答える。
 父は――ありがたいことに――いなかった。
「フェリシティ」母が抑えた声で言う。「食卓では眼鏡を外すべきじゃないかしら」
「本を読むのに必要なの」フェリシティがわいせつな本に目を据えたまま答える。
「本なんて読むべきじゃないわね。お客さまがいらっしゃるのよ」
 フェリシティが指をなめてページをめくる。母が怖い顔でカトラリーを見下ろす。ぼくは銀のラックからトーストを一枚取り、座ってふたりの攻防を眺める。ぼくではなくフェリシティが嫌味を言われるのは、いつだって楽しいものだ。
 母がテーブルの向こうのパーシーをちらりと見てから――叔母に、上着の組ひもカフスについたかなり目立つ葉巻の焦げ跡をつままれている――内緒話をするような声でぼくに言う。「今朝、メイドがハープシコードのなかからあなたのズボンを見つけたのよ。昨夜あなたが家を出るときはいていったものじゃないかしら」
「それは……変だな」ぼくは答える。家に着くずっと前になくしたのかと思っていた。不意に、パーシーとふたりで明け方に応接室を千鳥足で抜けていくとき、服を脱いで次々と後ろに捨てていったことを思い出す。「メイドは、片方の靴も見つけたんじゃない?」
「荷物に入れてほしかった?」
「たくさんあるからだいじょうぶだよ」
「せめて、何を送ったのか、ざっと見ておいてほしかったわ」
「なんのために? 忘れ物をしたってあとから送ってもらえるし、パリで新しい服を買うつもりなんだから」
「あなたの上等な品々を、知らない使用人たちのいる知らないフランスのアパートに送ることを考えると不安になるのよ」
「アパートと使用人を手配したのは父さまだ。気になるなら、父さまに相談してよ」
「気になるのは、あなたたちふたりが大陸で一年も、親元を離れて暮らすことよ」
「その心配は、出発の日よりもうちょっと早くすべきだったんじゃないかな」
 母が唇をぎゅっと結んで、卵をつつく作業に戻る。
 召喚された悪魔のように、父が突然、食堂の入口に現れた。動悸が激しくなる。父がテーブルを見回すあいだ、食べ物が自分を隠してくれることを願うかのように、ぼくはトーストを頰ばる。父の金髪は後ろに撫でつけられ、きちんと編まれていた。
 ぼくの髪だって、関わりになった人たちに指でしょっちゅうかき乱されていなければ、あんなふうに見えるかもしれない。
父はもちろんぼくに会いにきたのだが、まずは母に注意を向けて、頭のてっぺんにキスだけすると、今度は妹に目を留める。「フェリシティ、そのろくでもない眼鏡を外しなさい」
「本を読むのに必要なの」フェリシティが目も上げずに答える。
「朝食の席で本を読むんじゃない」
「父さま――」
「すぐに外さないと、まっぷたつに折ってやるぞ。ヘンリー、話がある」
 父の口から自分のクリスチャンネームを聞いてぼくはひどく動揺し、実際に身をすくめる。父とぼくはそのおぞましい“ヘンリー”という名前を共有していて、父はぼくを呼ぶたびに、そう名づけたことを深く後悔しているかのように、少し歯を食いしばって顔をしかめる。ひょっとすると、父と母はゴブリンのことも“ヘンリー”と呼びはじめるかもしれない。その名前にふさわしいことを証明できそうな子に継がせようとして。
「あなたも座って、いっしょに朝食を召し上がったら?」母が言う。両肩に置かれた父の手の片方に手を重ねて、となりの席に着かせようとしたが、父は身を引く。
「ヘンリーとふたりきりで話さなければならん」パーシーの叔母と叔父にはほとんど視線も向けずに軽くうなずく。下位の人間には、礼儀正しい挨拶はいらないというわけだ。
「この子たちは、きょう出発するんですよ」母がもう一度説得を試みる。
「わかっている。でなければなぜ、わたしがヘンリーと話したがるというのだ?」父がしかめっ面をぼくに向ける。「さあ、ちょっと来なさい」
 ぼくはナプキンをテーブルに放り、父のあとに続いて食堂を出る。パーシーが、横を抜けるぼくを見上げて、同情に満ちた笑みを口元に浮かべる。目の下にあるかすかなそばかすが、少し上向く。ぼくは愛情を込めてパーシーの後頭部を指で軽く弾いてから、通り過ぎる。
 自室に入っていく父のあとを追う。窓はあけ放たれ、レースのカーテンが格子模様の影を床に落とし、蔓に絡まって枯れていく春の花のむっとする香りが、庭から吹き込んでくる。父は机に着き、積み上げられた書類をぱらぱらとめくる。一瞬、父は仕事に戻って、座ったままばかみたいにその姿を眺めるぼくを放っておくつもりではないかと思う。ぼくは考えたあげくに賭けに出て、サイドボードのブランデーに手を伸ばすが、「ヘンリー」と父に呼ばれて動きを止める。
「はい、父さま」
「ロックウッド先生を憶えているか?」
 ぼくは顔を上げ、暖炉のそばに学者風の気取った男がすでに立っていることに気づく。赤毛で、頰は血色がよく、顎にはまばらなひげが生えている。父に意識を集中しすぎていて、気づかなかったのだ。
 ロックウッドがぼくに向かって軽くお辞儀をすると、眼鏡が鼻から滑り落ちる。
「ディズリー卿。これからの数カ月、旅をごいっしょするあいだ、どうぞよろしくお願いしますよ」
 こいつのバックル付きの靴に吐いてやろうかと思ったが、やめておく。付添い家庭教師(ベアリーダー)などいらなかった。そもそも、家庭教師が教えようとする学問的なことにはまったく興味がないからだ。しかし、両親が選んだ後見人をつけることがツアーの条件のひとつであり、うまく逃れる手はなさそうだったので、同意したのだった。
 父が、いじくっていた書類をなめし革で包んでひもを結び、ロックウッドに差し出す。「手続き用の書類だ。パスポート、信用状、健康証明書、フランスの知り合いへの紹介状」
 ロックウッドが書類を上着のポケットにしまうと、父は振り返ってぼくと向き合い、机に片肘をつく。ぼくはソファーの上で両手を両脚の下に滑らせる。
「きちんと座れ」父がぴしゃりと言う。「ただでさえ背が低いのだから、背中を丸めるな」
 ぼくは不自然なほど必死に胸を張り、父の目を見る。父が眉をひそめると、ぼくはもう少しでへたり込みそうになった。
「わたしが、おまえと何を話したがっていると思う、ヘンリー?」父がきく。
「わかりません」
「それなら当ててみろ」父に言われ、思わず目を伏せる。間違いだとわかっていても、どうしようもない。「わたしが話しかけているときは、こっちを見るんだ」
 ぼくは目を上げて父の頭上の一点を見つめ、まっすぐ顔を見なくてすむようにする。
「ぼくのツアーについてですか?」
 父がぐるりと目を回して一瞬だけ天を仰ぐ。ぼくは自分がとんでもないまぬけであるかのように思わされてかっとした――答えればばかにするだけなのに、なぜそんなわかりきった質問をするんだ?――が、黙ったままでいる。嵐の気配が近づくなか、お説教が始まる。