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〈登場人物紹介〉
アントン・トラスク
DJ、クラブ経営者。トラスク兄弟の長男
フィオナ・ギャレット
アントンの幼なじみ
エリック・トラスク
アプリ開発会社のCEO。トラスク兄弟の次男
デミ・ヴォーン
カフェレストランのオーナー
メース・トラスク
トラスク兄弟の三男。アフリカで傭兵部隊を指揮
ネイト・マーフィー
アントンの会社の警備責任者
ウェイド・ブリストル
ショウズ・クロッシングの警察署長
パティ
フィオナのいとこ
ブリジット・ギャレット
フィオナの母
オーティス・トラスク
トラスク兄弟の養父。前警察署長
エリサ・リナルディ
デミの店で働く従業員
ジェレマイア・ペイリー
トラスク兄弟が育ったコミュニティーのリーダー
レッド・キンボール
コミュニティーにいた科学者
5ページ~
ワシントン州シアトル
〈ヘルバウンド・ナイトクラブ〉
一階のナイトクラブで、この日最初のセットに組み込まれている光のショーが始まっていた。その光が、アントンの痛む頭に剃刀のように切り込んできた。だが、アントンはあえて目を閉じず、背中も向けなかった。“ひるむな。痛みにひるむのは弱い女どもだけだ”。鬼軍曹のように厳しいジェレマイアの声が頭のなかでこだまする。
おれの頭から出て行ってくれ。あんたはもう死んだんだ。
過去にはとらわれる必要はない。そう自分に言い聞かせることがよくある。たいていはそれは真実だ。
だが今日は違った。養父のオーティスの葬儀でショウズ・クロッシングに帰ったあとだったから。先週のショウズ・クロッシング行きは、つらい記憶を次から次へと掘り返した。
オフィスの壁一面の窓から、階下で踊っている客を見下ろした。ステージ上でオープニングセットを担当している若いDJに目を向けた。彼には才能がある。経験は浅いが、人の操り方を本能的に知っている。まだ早い時間だが、すでにダンスフロアは満員だった。
ふだんと違い、その眺めもアントンの神経をなだめてはくれなかった。背中の鞭の傷がずきずきと痛み、手はスズメバチに刺されたかのように熱い。太いチェーンで首から下げている大きなペンダントを見下ろすと、いつのまにか強く握りしめていたらしく、円筒形のホワイトゴールドについた鋲や宝石が、手のひらに赤紫の跡を残していた。
アントンは熱い額を窓のガラスにつけて、踊る人々を見下ろした。その昔、ラスヴェガスのダンスクラブで用心棒をしていたころ、クラブシーンが好きだということに気づいた。あの、なんでもありという空気のなかにいると落ち着くのだ。アントンや弟たちが育った終末思想のコミュニティー〈ゴッドエーカー〉は、人里離れた山のなかにあり、すべてが厳しく管理されていた。アントンらはリーダーであるジェレマイアの極端で異常なほど厳格なモラルと宗教的規範に従うことを、日々強制されていた。
それに反発するようにアントンはDJになった。ファンができ、どんどん有名になった。ツアーで世界をまわり、みずから音楽をプロデュースした。そして自分のナイトクラブを開いた。それがうまくいき、事業を拡大した。いまでは、西海岸一帯に店を持つ人気ナイトクラブチェーンのオーナーだ。子どものころに繰り返し聞かされ業火だのなんだのを忘れるための完璧な解毒剤だ。
その過程で富も築いた。けっこうなことだ。
ダンスフロアでは、人々が抑圧から解放されてうごめいている。ジェレマイアなら、地獄行きの列車にすし詰めになっていると言うだろう。おまえは地獄行きの特急券を売っているのだ――そう言うだろう。
それならそれでいい。誰だって自分のやり方で地獄へ行けばいい。自由よ、万歳。
ポケットで携帯が鳴り、アントンの神経をよけいいらだたせた。見ると、エリックからのメッセージだった。
“いつこっちに戻ってくるんだ? ブリストルがFBIと 疾病予防管理センター(CDC)とマスコミに死のペンのことを話したがっている。あまり時間がない。生物武器の最新情報について調べているところだ。まだ何もわかっていないが、いやな予感がする。電話をくれ”
生物武器だと? 本気か?
オーティスの葬儀が終わると、アントンは一目散にショウズ・クロッシングから逃げ出した。下の弟のメースも同様だ。だが上の弟のエリックは違った。彼はその後もショウズ・クロッシングに残った。あと始末をするのだと言って。
だが、それが単なる言い訳なのはアントンもメースも充分わかっていた。ショウズ・クロッシングには、エリックにとって忘れられない女性が住んでいるのだ。七年まえの熱愛の相手だが、当時は悲惨な終わり方をした。悲惨なんてものではない。エリックはもう少しで命を落とすところだった。
だがそれで学んだかと言えば、答えはノーだ。頑固で愚かな弟は、結局デミ・ヴォーンに引き寄せられた。まさに飛んで火に入る夏の虫だ。
ふたたび愛しあうようになったふたりは、何年もまえに火事で焼け落ちた〈ゴッドエーカー〉の廃墟で襲われ、命からがら逃げ出した。彼らの話を聞くかぎり、助かったのは奇跡としかいいようがない。
まったくわけのわからない話だったが、エリックは、これ以上死人が出るまえにあの忌まわしい場所に戻り、何があったのかを突き止めなければならないと言う。〈ゴッドエーカー〉を掘り起こしていた連中が何を探していたのかを突き止め、阻止しなければならない。〈ゴッドエーカー〉はおれたち兄弟の所有地だから、おれたちが責任を負わなけれならない――それがエリックの言い分だった。
エリックは昔から英雄願望に取りつかれている。だがアントンはそうでもない。なぜおれたちがショウズ・クロッシングを救わなければならないのだ? あの町の連中は、おれたちを忌み嫌って惨めな思いをさせただけじゃないか。滅びるのが連中の運命なら勝手に滅びればいいのだ。
おれたちトラスク兄弟は、あの町の連中になんの義理もない。
だが、オーティスの葬儀でデミ・ヴォーンをひと目見た瞬間、エリックの運命は決まった。
そしていま、エリックは〈ゴッドエーカー〉で自分たちを襲った男たちが使っていた“死のペン”が大量殺人を可能にする武器だと確信している。
ほんとうか? エリックとデミがさまざまな地獄を味わったのはたしかだが、それにしてもばかげている。
もちろん、弟を見捨てるわけではない。ショウズ・クロッシングに行き、できるかぎりのことをするつもりだ。いまもエリックには警備がついている。自分とセキュリティ責任者のネイト・マーフィーが行くまでのつなぎとして、セキュリティチームのなかでもとりわけ優秀なふたりをエリックのもとに配置してある。この妙な話はネイトにしか打ち明けておらず、これまでのところ、ありがたいことに彼はうまくやってくれている。
それでもアントンは緊張が解けず、集中できなかった。
オフィスのドアが開き、近くの光源からの光が目を刺した。ネイトが顔を出して言った。「アントン。例のホットな赤毛がまた来た。彼女は――」
「追い返せと言ったはずだ」アントンはかみつくように言った。
凍りつくような沈黙が流れた。振り返ると、ネイトは戸口に寄りかかっていた。落ち着いた様子だが、その目は鋭かった。
「今日だけは許す」しばらく間をおいてから彼は言った。「今日だけだ。養父を亡くし、弟が襲われ、さんざんな一週間だったからな。だが今後のために言っておくが、おれはきみの執事じゃないからな」
アントンは鋭く息を吐いた。「ああ」と短く答えた。「言いたいことは伝わったよ」
ふたりは見つめ合った。アントンは両手を上げた。「それで?」おおげさなほど穏やかに言った。「赤毛がどうしたって?」
「ああ、きみに個人的なメッセージがあるって」
「みんなそう言う」
ネイトは無表情のままだった。「名前はフィオナ・ギャレット。トラブルに巻き込まれているという。心当たりあるか?」
頭が真っ白になった。何も考えられなかった。
フィオナ。
階下から響く力強いビートに、建物全体がずきずきと振動する。まるで、痛みどめの効果が切れて傷がうずきだしたかのようだ。息ができなくなった。