立ち読みコーナー
目次
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〈登場人物紹介〉
オーガスト・ランドリー
大学生
ジェーン・スー               
パンケーキ店店員
マイラ                    
オーガストのルームメイト
ニコ                     
オーガストのルームメイト
ウェス                   
オーガストのルームメイト
シュゼット・ランドリー          
オーガストの母親
オーギー                 
オーガストのおじ。シュゼットの兄
パークサイド・アヴェニューとフラットブッシュ・アヴェニューの交差点にある
〈ポパイズ・ルイジアナ・キッチン〉のゴミ箱にテープで留めてあったチラシ。

当ビル六階にある三寝室のアパートで若いルームメイトを募集。七百ドル/月。クィアとトランスに偏見がなく、火と犬を怖がらない人。すでにひとりいるので天秤座は不可。問い合わせはニコまで。

「さわっていい?」
 タトゥーの男がいきなり尋ねる。オーガストは三人掛けの茶色い革張りのソファに腰かけたばかりだ。腰をおろした真ん中のクッションは表がぼろぼろ。四年におよぶ大学生活を通じて、こんなふうに表面が剝離したお古のソファをいくつも見てきた。ベッド代わりにしたり、教科書を積みあげたり、パーティのときぽつねんと座って気の抜けたコーラを飲んだり。二十代前半の典型的なおんぼろソファだ。
 ほかの家具もだいたいはソファ並みにくたびれている。リサイクルショップや道端からかき集められてきたちぐはぐな家具。でも、向かいに座るタトゥーの男――チラシにはニコとあった――は、イームズのなかでも特別に高級な椅子に座っている。
 この部屋には見慣れたものとまったく見慣れないものが混在している。せまくてごちゃごちゃしていて、壁は緑と黄色という猛々しい色合い。そこらじゅう植物だらけで、ひょろりとした枝が棚へと伸び、うっすらと土のにおいが漂っている。窓枠がペンキで塗り固められて開けられないのはニューオーリンズの古いアパートと同じだけれど、ここの窓はスケッチが描かれた紙で半分おおわれているために、午後の陽射しが白っぽくやわらげられている。
 部屋の片隅には、自転車の部品と鳥やウサギの形をしたカラーマシュマロでできた身長百五十センチのジュディ・ガーランド像が置いてある。いや、見ただけでジュディとわかる像というわけではない。“ハーイ、わたしはジュディ・ガーランドよ”と書いてあるのだ。
 ニコがオーガストを見て手を差し伸べ、その手にはお茶の湯気がまとわりついている。黒に黒を重ねた服装に、下を刈りあげてグリースで固めた黒い髪、淡い褐色の肌、自信ありげな顎の線、片方の耳からぶらさがるひと粒のクリスタル。タトゥーは両腕全体をおおい、ボタンで留めた襟の下の喉にまで広がっている。風邪の治りかけみたいな、しゃがれ声。口の片側から爪楊枝が突きでている。
 わかったから、ダニー・ズーコ(1970年代末の映画『グリース』の主人公。ジョン・トラボルタが演じ、リーゼントがトレードマーク)、落ち着いて。
「あの、悪いけど」オーガストは彼のお願いにとまどって、彼を見つめる。「どういうことですか?」
「おかしな意味じゃないよ」彼は言う。手の甲に彫り込まれているのは、占い用のウイジャ盤、指関節には“フルムーン”とある。あれれ。「きみの波動を感じたいだけなんだ。直接触れたほうが、わかることもあるからね」
「つまりあなたは――?」
「そう、サイキックだ」あたりまえだろうと言わんばかりの口ぶり。彼がにかっと屈託のない笑みを浮かべると、爪楊枝が白い歯の上で転げる。「ほかにも言い方はあるけどね。透視能力者とか、異能者とか、心霊術師とか」
 そう、そういうことね。ブルックリンで家賃七百ドルの部屋を借りられるとしたら、訳ありに決まっている。そして今回の“訳”は、マシュマロ製のジュディ・ガーランドとこの磨きあげたスプリングスティーンにあり、自分はこれからその男に、きみは〈ダラー・ツリー〉のパンティストッキングみたいなオーラを前後と表裏を反対にしてまとっている、と言われようとしている。
 でも、オーガストには行き場がなく、この建物の一階には〈ポパイズ〉がある。他人を信じないオーガスト・ランドリーも、フライドチキンは信じている。
 そこでニコに手をさわらせた。
「クールだね」彼は淡々と言う。窓から頭を突きだして天気を確認するみたいな調子だ。指二本を彼女の手の甲にあてて、椅子の背にもたれる。「おお。へえ、そう。興味深いな」
 オーガストは目をぱちくりした。「なんなの?」
 彼は口の爪楊枝をつまんで、ふたりのあいだにある旅行用の大型トランクの上、丸いチューインガムを盛ったボウルの横に置く。ふん詰まりを起こした人みたいな顔だ。
「ユリは好き?」彼が尋ねる。「そうだね、きみが引っ越してくる日にはユリを買っておくよ。木曜日でどう? マイラも荷物を出すのに時間がかかるだろうから。大量の骨があってね」
「あの――それは彼女の体のなかにってこと?」
「いいや、カエルの骨だよ。すごく小さくて、つまみあげるのも大変な骨。つまむにはピンセットがいる」彼はオーガストの表情に目を留める。「ああ、彼女は彫刻家で、骨はその材料だ。きみが入るのは彼女の部屋だけど、安心して、セージを焚くから」
「あの、べつに心配なんかしてないけど……カエルの幽霊?」いや、カエルの幽霊の心配をすべき? マイラという人は儀式の名のもとにカエル殺しを行っているの?
「ねえニコ、カエルの幽霊のことは話さないで」廊下の奥から声がする。人なつっこい丸顔に驚くほど長いまつげをしたきれいな黒人の女の子が、出入り口から身を乗りだす。黒い巻き毛に押しあげたゴーグル。オーガストを見てにっこりする。「ハーイ、あたしマイラよ」
「オーガストです」
「見つかったよ」ニコが言う。「彼女、ユリが好きなんだ」
 オーガストは彼みたいなタイプの人間がこういうことをするのが大嫌いだ。まぐれ当たりに決まってる。実際、ユリは好きで、ウィキペディアの記述を丸暗記している。“学名リリウム・カンディドゥム。高さ六十センチから百八十センチ”母と住んでいたころ、二寝室のアパートの窓から熱心に観察したものだ。
 ニコには知るよしもないこと――知るわけがない。ジャクソン・スクエアに置かれたビーチ用のアンブレラのもとで手相を見られたときと同じように、オーガストは息を詰めてやり過ごす。
「あの、それで、いいんですか?」オーガストは尋ねる。「部屋を貸してもらえるの? ほとんどなにも尋ねられてないんですけど」
 彼は手で頭を支える。「生まれたのは何時?」
「え……知りません」貼り紙を思いだして、つけ加える。「たぶん乙女座です、答えになってるかどうかわからないけど」
「ああ、そうだね、まさに乙女座だ」
 オーガストは表情を変えないようにする。「あの……プロのサイキックなの? お金をもらって人の相談にのるってこと?」
「彼はパートタイムよ」マイラが言う。溶接用のブローランプを持っているとは思えないなめらかな足取りでするっと入ってきて、彼の隣に腰かける。そしてピンク色のチューインガムを嚙んでいるから、ボウルにチューインガムが盛ってある理由がわかる。「恐ろしく不出来なパートタイムのバーテンダーでもある」
「言うほどひどくないよ」
「そうよね」マイラは彼の頰にキスし、わざとらしいひそひそ声でオーガストに話しかける。「パルマってカクテルあるでしょ? ニコはそれを腫瘍の一種かなんかだと思ってたの」
 バーテンダーとしてのニコの技能をめぐってふたりが言い争っているあいだに、オーガストはボウルのチューインガムをひとつつまみ、床に落として傾き具合を調べる。やっぱり。チューインガムがキッチンを通り抜けて廊下まで転がる。
 オーガストは咳払いをする。「じゃあ、あなたたちふたりは――?」
「ええ、カップルよ」マイラが答える。「四年になる。各自部屋があって快適だったんだけど、あたしたち全員あんまり金回りがよくないから、あたしが彼の部屋に移ることにしたの」
「もうひとりのルームメイトは?」
「ウェスよ。廊下の突きあたりが彼の部屋。彼はおおむね夜行性ね」
「あれは彼が描いたんだ」ニコが窓のスケッチ画を指さす。「タトゥー・アーティストでね」
「わかりました」オーガストは言った。「各自七百ドルずつで合計二千八百ドルね?」
「そう」
「貼り紙にはほかにも……火がどうのって?」
 マイラはいとおしげにブローランプを握りしめる。「制御された火よ」
「犬は?」
「ウェスが一匹飼ってる」ニコが横から言う。「ヌードルズという名の小さなプードルを」
「プードルのヌードルズ?」
「ただし、ウェスの睡眠時間に合わせて、夜中に歩きまわる」
「ほかに知っておくべきことは?」
 マイラとニコが目を見交わす。
「一日に三回ぐらいかな、冷蔵庫から幽霊が二十五セント硬貨をばりばり食べてるみたいな音がするけど、たぶん問題ない」ニコが言う。
「キッチンの床のタイルが一枚はがれてて、みんなして蹴りまわしてる」マイラが追加する。
「通路のお向かいにドラァグクイーンが住んでて、真夜中に歌の練習をすることがある。パティ・ラベル(アメリカの歌手、女優)の歌が聞こえたら、そういうことだから」
「お湯が出るまでに二十分かかる。うまくしたら十分のこともあるけど」
「幽霊は出没しないが、いないとは言えない」
 マイラがガムをふくらませて割る。「そういうこと」
 オーガストは唾を吞み込む。「そう」
 そして選択肢を秤にかけつつ、ニコが絵の具まみれのマイラのオーバーオールのポケットに手を突っ込むのを眺め、物思いに耽る。わたしの手の甲に触れたとき、ニコはなにを見たの? ううん、ニコが見た気になってるだけ、あるいは見たふりをしてるだけ。
 それに、このカップルと同居したい? 片方はうさんくさいサイキック、アークティック・モンキーズ(二〇〇二年結成のイギリスのバンド)のコピーバンドでフロントを張ってる人みたいな外見で、もう片方は、カエルの死骸だらけの部屋で火遊びをしているような人だ。となれば、答えはノー。
 でも、あと一週間でブルックリン・カレッジの春学期がはじまり、講義に突入したら、住まいも仕事も探せなくなる。
 いまさらだけれど、万が一の用心のためにナイフを携帯しているわりには、ニューヨークへの引っ越し準備が足りていなかった。
「そうって?」マイラが言う。「なにがそう?」
「そう」オーガストはもう一度言う。「ここに住むわ」

 詰まるところ、オーガストにはこのアパートを受け入れる素地があった。育ったのが、ここよりもっとせまくて汚くて、妙なものでいっぱいの場所だったからだ。
「いいじゃない!」フェイスタイムの向こうで、窓枠にもたれた母さんが言う。
「ここが木の床で、アイドルワイルドで使ってた悪夢みたいなカーペットがないから、そんなこと言うんだよね?」
「あなたが言うほどひどいところじゃなかったわよ!」母さんはファイルボックスのなかに埋もれている。ずり落ちた大きなメガネを蛍光ペンのペン先のほうで押しあげ、顔に黄色の線が引かれる。「あそこに九年もいたのよ。それにカーペットはあまたの悪事を隠してくれる」
 オーガストは天を仰いで、床に置いてある箱を押しやる。オーガストたちがアイドルワイルドで住んでいたアパートは、ニューオーリンズから一時間半の郊外にある不潔な二寝室の賃貸物件で、都会ならではの特徴も魅力もない七〇年代築の凡庸な建物だった。
 そびえ立つ古雑誌の山とぐらつくファイルボックスという、障害物のあいだのせまい隙間にのぞいていたカーペットのことは、いまも目に焼きついている。『ダブル・デア二〇〇〇』(出演者が現金と賞品をめぐってクイズや障害物レースで競いあうアメリカのテレビ番組)のシングルママ版。色は目をおおうばかりに醜いベージュ。壁もちょうど同じような色合いで、地図が貼ってなくて、掲示板も電話帳から破いたページもない部分――
 そうしてみると、ほんとだ、ここは悪くない。
「今日、プリモー刑事には話をしたの?」オーガストは尋ねる。今日は今月最初の金曜日、答えもわかっている。
「ええ、変化なし」母さんは言う。「あの刑事、いまじゃ再捜査するつもりがあるふりすらしないのよ。腹が立つ」
 オーガストはもうひとつの箱を別の一隅に押しやる。ここには一月の冷気にぬくもりを吐きだしてくれるラジエーターがある。窓台に近づくと、さっきより母さんがよく見えて、自分と同じ灰色がかった茶色の髪が縮れて顔にかかっているのがわかる。その下にあるのは自分と同じ丸顔に、やはり同じブッシュベイビー(アフリカ大陸に生息する小型霊長類。まん丸の目をしている)みたいに丸い緑色の大きな瞳、同じく角張った両手の親指でページを繰っている。母さんは疲れたようす。いつもそう。
「そっか」オーガストは言う。「くそ野郎だね」
「くそ野郎よ」母さんが重々しくうなずく。「新しいルームメイトはどんな感じ?」
「悪くないよ。奇妙ではあるけど。ひとりはサイキックだって。でも、みんな連続殺人鬼ではないみたい」
 母さんは話半分でふーんと相づちを打つ。「ルールを忘れないで。ひとつ――」
「わたしたち対その他」
「ふたつ――」
「その他の連中に殺されそうになったら、ひっかいて爪の下にDNAを確保すること」
「さすがわが娘」母さんは言う。「じゃあ、そろそろ切りあげるわ。この公的記録を送ってもらったばかりなんだけど、週末いっぱいかかりそうなの。くれぐれも気をつけるのよ。また明日、電話して」
 電話を切ると、室内がたちまち耐えがたいほどの静けさに包まれる。
 オーガストの暮らしが映画だとしたら、そのサウンドトラックの音源は母親だ。彼女がキーボードを叩たたくかちゃかちゃという音や、探し物をしながら文書を読むときの小さな独りごと。そんな母の手伝いをやめて家を出て、電話を介してそういう音を聞くようになったいまも、その音はついてまわっている。何千キロも離れたのに、その距離を詰められたような感じだ。
 ふたりには共通点がたくさんある。使いきった図書館のカード、いつまでも終わりそうにないシングル状態、クリスタル社のホットソース好き、ニューオーリンズ市警察の行方不明捜査に関する百科事典的な知識。そんなオーガストと母親のあいだにも、大きなちがいがある。母シュゼット・ランドリーは大規模な核戦争による核の冬に備えるがごとく物を溜め込み、オーガストはきわめて自覚的にほとんど物を持たない生活を選んでいる。
 持っている箱は五つ。二十三歳にして、人生を表す持ち物が全部で五つの段ボール箱におさまる。くそ連邦捜査局(F B I)から追われているような暮らしぶり。それがあたりまえになっている。
 オーガストは最後のひと箱をまだなにも置いていない一隅に押しやる。これでごちゃごちゃしないですむ。
 ハンドバッグを開ける。財布とノートと予備のバッテリーの下に、ポケットナイフが忍ばせてある。魚の形をした持ち手を飾る色褪せたピンク色のハートのステッカーを貼ったのは、七歳のころ。使い方を覚えたのも同じころだ。段ボール箱の封をナイフで切れば、それだけで小さな私物の山ができる。
 ラジエーターの傍らにはブーツ二足、ソックス三足。シャツ六枚、セーター二枚、ジーンズ三本、スカート二枚。ヴァンズの白いスニーカー一足――これは去年自分へのご褒美として買った特別な一足だ。あのときはファミレス〈アップルビーズ〉で母さんにカミングアウトした直後で、モッツァレラスティックとアドレナリンの余韻を感じていた。
 中央に亀裂の入った壁際には、一冊きりの紙の本である、もはや古典となった犯罪小説。それとは別に数百という本がタブレットに入っている。ひょっとすると数千かもしれないけれど、本人にもよくわかっていない。どんなものでも、たくさん持っていると思うとストレスを感じる。
 セージが香る――そして、自然死したと聞かされたカエル百匹のにおいも残っているような――一角には、シャルトルの古いコインランドリーの写真が入ったフレーム、ビックのライターひとつ、それとセットのキャンドル。刃をしまってナイフを置き、頭のなかで〈所持品〉という表示板を掲げる。
 エアマットレスを広げていると、表のドアからなにかが飛びおりたような音がして、誰かが廊下に毛むくじゃらの巨大な蜘蛛もを投げたような荒々しい音が続く。それは壁に激突するや、オーガストの部屋に飛び込んでくる。『千と千尋の神隠し』に出てくるススワタリとしか言いようのない物体だ。
「ヌードルズ!」声に続いて、ニコが出入り口に現れる。引き綱を持って、角張った顔に面目なさそうな表情を浮かべている。
「夜になると幽霊みたいに動きまわると聞いてたけど」オーガストは言う。しっぽをぶんぶん振りながら靴下のにおいを嗅いでいたヌードルズは、新顔に気づくや、オーガストに飛びかかってくる。
「そうなんだ」ニコが顔を曇らせる。「だいたいは。たまにかわいそうになって、日中店に連れてく。言ってなかったと思うんだけど、こいつの――」ヌードルズはその隙に両方の前肢をオーガストの肩にかけ、舌を口にねじ込もうとする。「性格を」
 スケートボードを小脇に抱えたマイラが、ニコの背後に現れる。「あら、ヌードルズに会えたのね!」
「ええ、そう」オーガストは言う。「熱烈に歓迎されてる」
「荷物を運び込むの、手伝おうか?」
 オーガストは目をぱちくりする。「これでおしまいだけど」
「これって……これだけ?」マイラが言う。「これで全部?」
「ええ」
「あなたって、その」マイラが怪訝な顔をする。オーガストから冷蔵庫の野菜室に野菜を入れさせてと頼まれるまで、彼女のことをなにも知らなかったのにいまさらながら気がついたらしい。オーガストも鏡を見て、よく自分に対してそんな顔をする。
「家具を持ってないんだね」
「いわゆるミニマリストってやつ」オーガストは答える。その気になれば、段ボール五箱を四箱に減らすこともできる。この週末のうちにでも。
「そっか、そういうのちょっとうらやましいかも。あたしなんか、寝てるあいだにニコに編み物の糸を捨てられそう」マイラがにっこりする。オーガストが証人保護プログラムの適用者ではないことが確認できたからだ。「それはそうと、夕食にパンケーキを食べにいくんだけど、いっしょに行かない?」
 なんならニコにはこの女を窓から投げ捨ててもらいたい、とオーガストは思う。不足気味の持ち金をほとんど知らない人と過ごすために使うなんてごめんだ。
「外食する余裕がなくて」オーガストは言う。「まだ仕事が決まってないから」
「おごる。歓迎会ってことで」マイラは言う。
「そう」オーガストは言う。なんて……気前がいい。オーガストの頭の片隅に警告灯がともる。頭のなかにある友だち作りに関する携帯用ガイドは二ページからなるパンフレットで、ただひとこと“だめ”と書いてある。
「〈パンケーキ・ビリーのパンケーキ店〉」マイラが言う。「フラットブッシュの名物店なのよ」
「一九七六年創業」ニコが横から補足する。
 オーガストは眉を吊りあげた。「それから四十五年もたつのに、誰も店名を変えようとしなかったの?」
「それも魅力のうちだってば」マイラが言う。「わが家の延長みたいな場所でね。南部の出身のあなたなら、絶対気に入るって。ほんと、気取りのない店だから」
 ふたりはその場から動かず、互いの目を見交わしている。パンケーキの返事待ち。
 どちらかというと、薄汚れた自分の部屋でいじましくポップタルト(ケロッグ社が販売しているロングセラーの菓子。薄いタルト生地に甘いフィリングがはさんである)で夕食をすませ、頭を休ませたい。けれどオーガストはニコを見て、思いだす。さっき自分に触れたとき、彼はなにげないふりをしながら、オーガストのなかになにかを見たのだろう。そして人からそんなふうに見られるのは、ずいぶん久しぶりのことだ。
 さて。
「いいよ」オーガストがよいしょと立ちあがると、マイラの顔に星明かりのような笑みが浮かぶ。
 それから十分後、オーガストは〈パンケーキ・ビリーのパンケーキ店〉で隅のブースに押し込まれている。どのウェイターもニコとマイラの名前を知っているようだ。給仕を担当しているのは顎ひげを生やしたにこにこ顔の男性で、店の名前の入った赤いTシャツに“ウィンフィールド”という文字の薄れた名札をつけている。彼は注文されるより先にニコやマイラのまえにコーヒーのマグカップとピンク・レモネードを置く。
 オーガストにも〈パンケーキ・ビリー〉が伝説的な地位を得ている理由がわかる。この店には、エドワード・ホッパーの絵とか『となりのサインフェルド』(おもに1900年代にNBCで放送された、コメディドラマ。ニューヨークが舞台で、国民の四人にひとりが観たとされる)に出てくる食堂のような雰囲気があって、そこに活気が加味されている。いまいる隅の席の両側には、通りに面した大きな窓がある。テーブルは表面に傷やへこみのあるフォーマイカ、赤いビニール張りの椅子はひび割れがひどくなるにつれて目立つ場所から移されてきたものだ。ある壁には、壁の幅いっぱいにソーダ・ショップのカウンターが取りつけられ、床から天井までむかしの写真と〈ニューヨーク・メッツ〉が一面を飾ったときの新聞記事が貼ってある。
 それに、においの効能もあり、嗅覚に訴える混ぜ物なしの純然たる堕落行為が全員に染み込んでいくのを感じる。
「それはそうと、あれはウェスが父親からもらったんだよ」マイラが言う。イームズの革製チェアのセットがアパートにある理由を説明する。「ウェスがプラット・インスティテュートで建築学の勉強をはじめたとき、“家族の期待に応えたがんばり”に対するご褒美だって」
「彼はタトゥー・アーティストじゃないの?」
「そうとも」ニコが応える。「学校は一学期で中退した。なんて言うか……精神的にまいってしまって」
「下着姿のまま十四時間も避難ばしごに座ってて、消防隊を呼んだの」マイラが補足する。
「放火のせいなんだけどね」ニコが続ける。
「大変だったんだね」オーガストは言う。「あなたたちはどうやって彼と出会ったの?」
マイラがニコの両袖を肘の上まで押しあげる。やけになまめかしい聖母マリア像が前腕全体に彫り込まれている。「彼が彫ったんだ。当時はまだ見習いだったから、半額でね」
「すごい」べたつくメニューの上でオーガストの指が疼く。いまの話を全部書きとめたい。新しい人に出会ったときの困った癖、観察メモを取りたくなるのだ。「建築からタトゥーなんて、大転身」
「信じられないと思うけど、そのあいだにケーキのデコレーションをしてた時期もあって」マイラは言う。「いまでもたまに、彼にいいことがあると、帰ったときうちじゅうバニラのにおいがして、そのうちカウンターにカップケーキ一ダースとそれにかけるチョコレートなんかが登場するわけ」
「あの小柄な変わり者にはあらゆるものが詰まってる」ニコが感想を述べる。
 マイラは笑ってから、オーガストを見る。「で、あなたはなんでニューヨークに?」
 オーガストの嫌いな質問のひとつだ。ひとことでは答えられない。オーガストみたいに返済しなければならない学生ローンがスイミングプールほど多額にあって、プリングルスほどの社交性しかない地方出身の女子が友だちも計画もなしにニューヨークに出てくるのに、どんな理由がありうるだろう?
 生まれてからずっとひとりきりだったオーガストには、正直に言って、まぎれ込める都会に引っ越すことが恐ろしく魅力的に思える。都会ならばひとりでいることをみずから選んだように見える。
「むかしから住んでみたくて」オーガストは別の答えをする。「ニューヨークは……よくわからないけど、街にはふたつ住んだの。最初はニューオーリンズのニューオーリンズ大、そのあとメンフィスのメンフィス大に通ったんだけど、どちらも……せせこましい感じがした。それでもっと大きいところに行きたくなって、ブルックリン・カレッジに移ってきたってわけ」
 ニコは真顔でこちらを見ながら、マグのコーヒーを回転させている。害はなさそうだが、オーガストには自分を見る彼のわかったような目つきが気に入らない。
「いままでの冒険じゃ足りなかったんだね」彼はまたもや穏やかに感想を述べる。
「きみはもっと手応えのあるパズルに挑戦したかったんだ」
 オーガストは腕組みをする。「そうだね……そんな感じかも」
 ウィンフィールドが料理を運んできて、マイラが尋ねる。「ねえ、マーティは? いつもならこの時間帯に働いてるよね」
「辞めたよ」ウィンフィールドはシロップの容器をテーブルに置く。
「噓」
「ネブラスカに帰ったんだ」
「つまんない」
「まったくだ」
「てことはつまり」マイラは皿の上に身を乗りだす。「つぎを募集中ってことよね」
「ああ、そうだけど。誰かあてがあるのかい?」
「オーガストに会ったことある?」芝居がかった大げさな身振りでオーガストを示す。言葉当てのクイズ番組『ホイール・オブ・フォーチュン』でヒントとなる母音を紹介するような調子だ。
 ウィンフィールドから視線を向けられて、オーガストは身じろぎできなくなる。手にした容器からハッシュブラウンに辛いソースが垂れつづけている。
「給仕の仕事をしたことは?」
「あの――」
「それはもう」マイラが割って入る。「エプロンをつけて生まれてきたようなもんよ」
 オーガストを見るウィンフィールドの目がいぶかしげになる。
「応募してもらおうか。決めるのはルーシーだ」
 彼はカウンターのほうを顎でしゃくる。そこにいるのは、不自然な赤い髪に濃いアイラインを入れた若い白人女性で、レジをにらみつけている。オーガストが噓をつくべき相手が彼女だとしたら、アクリル製の人工爪を頸部に突き立てられそうだ。
「ルーシーはあたしを愛してる」マイラが言う。
「それはないね」
「ほかの人を愛するぐらいには、あたしを愛してる」
「その一線は死守したほうがいい」
「オーガストの人柄はあたしが保証すると言っといて」
「でもわたし――」話そうとしたオーガストは、マイラから足を踏まれる。マイラはコンバットブーツをはいているので、いやでも気がつく。
 それにオーガストにも、ここがただの食堂でないことがなんとなくわかる。明るく煌めいたなにかがあって、くたびれたブースの周囲とテーブルからテーブルへと移動する給仕の人たちは、人を引き寄せるようなぬくもりに包まれている。そのとき給仕の補助作業をするバスボーイが皿の入った洗い桶を持って通りかかり、マグカップがひとつ転げ落ちそうになる。するとウィンフィールドがこちらを見たまますかさず背後に手を伸ばし、空中でマグカップをつかむ。
 魔法みたい。
 オーガストは魔法を使えない。
「いいよね、ウィン」マイラは言い、ウィンフィールドは自然な手つきでマグカップを洗い桶に戻す。「あたしたちが木曜日の夜の常連になって、何年? 三年? 期待に応えられないような人を紹介すると思う?」
 ウィンフィールドは天を仰ぎつつも、にやにやしている。「応募を受けつけよう」

「給仕の仕事はしたことないんだけど」アパートへの帰り道、オーガストは言う。
「あなたならやれるって」マイラが言う。「ニコ、だいじょうぶだと言ったげて」
「給料がもらえるだけの仕事ができるかどうかは、サイキックにもわからない」
「でも、先週あたしがタイ料理を食べたがったとき、あたしたちにはバジルのエネルギーが合わないって……」
 オーガストはふたりがやりあう声と、歩道を進む三組の足音に耳を傾ける。都会にも夕闇が迫っている。茶色がかった平板なオレンジ色はニューオーリンズの夕暮れにも似て、その懐かしさゆえか、万にひとつのチャンスをつかんだかもしれないという思いが湧いてくる。
 階段の一番上でマイラがドアの錠を開け、三人が脱ぎ散らした靴がひと山になる。
 ニコはキッチンの流しを手振りで示す。「ようこそ、わが家へ」
 オーガストはそのときはじめて、蛇口の隣に置かれたものに気づく。生き生きとしたユリが瓶に活けてある。
 わが家。
 だとしても、彼らのわが家であって、オーガストのではない。冷蔵庫の上にあるのはふたりの幼少時の写真、パッチワーク柄のラグの織り目から立ちのぼるのは絵の具と煤とラベンダーという、彼らのにおい。パンケーキ・ディナーは彼らの習慣、どれもオーガストがニューヨークにたどり着く何年もまえにできあがっている。でも、それを見るのは楽しい。同じ部屋の少し離れたところから、穏やかで快適な暮らしを見て楽しむことはできる。
 これまで一ダース以上の部屋に住みながら、どうしたらそこを自分の家にできるのか、わからずにきた。ニコやマイラは自分をその空間に広げるすべを知っているし、ウェスだってスケッチを窓に貼ったりしている。いまのオーガストにはその行為にどんな意味があるのか、ちっともわからない。この二十三年、つぎつぎに煉瓦がに触れてきているのに、一度として確たるなにかを感じたことがないのだ。
 こんなの馬鹿みたいかもしれないけれど、ひょっとして、と思う。今回はいけるかも、と。新しい専攻科目。新しい仕事。自分を受け入れてくれる場所ができるかもしれない。
 ひょっとしたら、人かもしれない。いまはまだ想像もつかないけれど。

 オーガストにはパンケーキ臭が染みついている。
 どんなにシャワーを浴びても、二十四時間営業のコインランドリーでどんなに小銭を使っても、消えないにおい。〈パンケーキ・ビリー〉で働いて一週間、脂っぽいハッシュブラウンが分子レベルで結びついている。
 とくに今日のような日はにおいが強い。泥棒シフトと呼ばれる深夜勤のあと、限られた時間を使って六階まで階段をのぼり、清潔なシャツに袖を通して裾をスカートにしまったら、こんどはのぼってきたばかりの階段を駆けおりる。コートまでベーコンくさい。彼女は午前三時の酔っぱらいと長距離トラックのドライバーからいやらしい目を向けられながら、風に乗るようにしてパンケーキとソーセージの盛り合わせを運んだ。なんとかコーヒーの巨大カップをせしめられたのがせめてもの救いだ。
 講義の初日。新しい学校の初日。今日から新しい専攻科目がはじまる。
 英語(最初の専攻科目)でも、歴史(ふたつめの専攻科目)でもなかった。心理学(三つめの副専攻科目)は悪くなかったものの、代わり映えのしない四年半だった。こんどこそ、と思う。必要な単位とローンを苦労してかき集めたのだから。死ぬまで試験の連続なんてことになったら、目もあてられない。
 新しい専攻科目――それは社会科学だ。
 月曜午前の講義は八時三十分にはじまり、通学経路は頭に叩き込んである。歩いてパークサイド・アヴェニュー駅まで行き、地下鉄のQ系統でコニーアイランド方面へ。アヴェニューH駅で降りて二ブロック歩く。頭のなかに文字が連なって浮かんでいる。人づきあいはからきし苦手だが、なにがなんでもこの街とは友だちになりたい。
 地下鉄の路線のことばかり考えていたので、路面の凍結を見落とす。
 ブーツのかかとがすべり、地面で両膝を打って、タイツに穴が開く。片方の手はコンクリートにつき、もう一方はコーヒーを持ったまま胸に押しつけられる。蓋が外れ、こぼれたコーヒーがシャツの胸に広がる。
「なんでこうなるわけ?」バックパックの中身が舗道にこぼれる。パーカーを着た女がオーガストのスマホを側溝に蹴り入れるのを呆然と見ている。
 そう、そうだった。オーガストは泣かない。ベルチャスを出たときも、ニューオーリンズやメンフィスを離れたときも、泣かなかった。母とケンカしても泣かず、母が恋しくなっても泣かず、ぜんぜん恋しくないときも泣かない。ニューヨークに着いてからも、一度も泣いていない。でも、いまは血に汚れ、温かいコーヒーをかぶり、二日間寝ていなくて、あたり一帯、自分のことを気に懸けてくれる人はひとりもいない。喉の奥がかっと熱くなり、こんなやつらが見ているところで泣かせないでください、と神さまに祈るほど追い詰められている。
 さぼることもできる。階段を六階までのぼって、ツインサイズのエアマットレスで丸くなり、明日仕切りなおす。それも選択肢のひとつだ。でも、はるばる遠くまで引っ越してきたのはすりむけた膝とコーヒーを吸ったブラジャーにへこまされるためじゃない。母さんなら言うだろう。それしきのことでめそめそするな、と。
 だからオーガストは涙を吞み、荷物を拾いあげる。新しいひび割れができていないかどうかスマホを調べ、バックパックを背負い、コートのまえをかきあわせる。
 さあ、予定していた地下鉄に乗ろう。
 パークサイド・アヴェニュー駅は地上にある。赤くて太い角柱、モザイクタイル、線路に影を落とすアパートの背面をおおうツタ。回転式の改札口を四つ通り抜けると、目当てのプラットフォームが右手にある。Q系統の電車がすべり込んできたので、肩と肘で人をかき分けて乗車する。うれしいことに空席がいくつかあり、そのひとつに座る。
 これでいい。
 それから十分、オーガストには現在地と目的地がわかっている。あとはこのまま座って、たどり着くのを待つだけだ。
 口から息を吐く。鼻からゆっくり吸い込む。
 なに、この列車、いやなにおいがする。
 でも、泣かない。泣きはしないけれど、人影が蛍光灯の明かりをさえぎり、静電気を誘うようなぬくもりを持った人がまえに立ち、その肉体と意識でオーガストをおおう。
 よりによってこんなときに、変態からいやがらせを受けるのだけはかんべん。いま泣きだしたら、ウェスがプラットを中退したときと同レベルで崩壊し、ひとり放置されるはめになる。オーガストはコートの上からポケットナイフを握りしめる。
 そして顔を上げる。目のまえにあるのが長い脚と破れたジーンズなので、てっきり毛深い男だと思っていたら――
 ちがう。
 長い脚のその人……女の子だ。
 年齢はオーガストと同じか少し上くらい、頰骨から顎のラインといい、黄褐色の肌といい、すべて申し分ない。ショートカットの黒髪をうしろに流して、額を見せている。彼女はオーガストに向かって眉を動かす。破れたジーンズに、裾をしまった白のTシャツ、愛用しているにちがいない黒い革ジャンがおさまりよく肩に載っている。気取った感じのまなざしが、長い長い物語、友だちがいたらお酒片手に話して聞かせたくなるような長い物語のはじまりを予感させる。
「うわっ」彼女は言いながら、オーガストのシャツを手で示す。コーヒーのシミが広がっていて、それこそがこの女の子に胸を見られたくない理由になっている。
 これまで出会った誰よりもいけてる女の子が、オーガストを見るなり、「うわっ」と言った。
 返事をできずにいると、その子がバックパックをまえにまわす。オーガストは黙って見つめ、彼女は赤いスカーフをふわっと取りだして、ガムのパックと古めかしいヘッドホンをバッグに押し戻す。
 この黒いライダーズジャケットのモデルのようなブッチ(男性的なレズビアン)が変質者とは思えない。長身でかっこいい地下鉄の天使がコーヒーまみれの胸に顔をうずめる図など、誰に想像できる?
「ほら」彼女がスカーフを差しだす。「これから大事な場所に行くんでしょ?」オーガストの首元あたりを示す。「使って」オーガストは、そこに立っている女の子を、“オーガストに動脈瘤を与えよう”と呼びかけているガールズ・パンクロックバンドのギタリストでも見るような目つきで見て、目をぱちくりさせる。
「あの――だめです、あなたのスカーフだもの」
 女の子が肩をすくめる。「また別のを手に入れるよ」
「でも、寒いし」
「そうだね」彼女のちょっと気取った笑みに読み取れないなにかが混じって、口の片側にえくぼができる。オーガストはそのえくぼのなかで死にたくなる。「でも、わたしはあんまり外に出ないんだよね」
 オーガストは黙って見ている。
「ほら」地下鉄の天使は言う。「持ってて。このままだと隣の席に置かれて、地下鉄の生態系のなかに吸収されちゃうよ」
 彼女の瞳は明るく、茶目っ気とぬくもりがあって、深い深いぬくもりのある茶色をしているので、彼女から言われたら、四の五の言わずに従いたくなる。
 ふわりと織ったスカーフはやわらかく、指先で触れると、静電気が起こる。オーガストは跳びあがり、女の子は小声で笑う。
「パンケーキのにおいがするって、言われたことある?」
 地下鉄がトンネルに入り、車体が揺れると、彼女が小声で「おっと」と言い、オーガストの頭上の横棒をつかむ。オーガストの目が彼女の顎の少し曲がった傷口とシャツの襟元にのぞいた皮膚をとらえるや、蛍光灯がチカチカと明滅して消える。
 暗かったのはほんの一、二秒なのに、明かりが戻ると、彼女はいない。