立ち読みコーナー
目次
600ページ
登場人物紹介
レーシー・シャーロック              FBI捜査官
ディロン・サビッチ                FBI捜査官。レーシーの夫
カム・ウィッティア                FBI捜査官
ジャック・キャボット               FBI捜査官
カーラ・ムーディ                 アーティスト
アレックス・ムーディ               カーラの息子
コンスタンス(コニー)・バトラー         FBI捜査官
シルビー・ボーン                 カーラの親友。ファッション・ブロガー兼ユーチューバー
ハンナ・フォックス                シルビーの母。B・B・マドックスの元恋人で看護師
リアム・ヘネシー                 銀行強盗犯。別名マンタ・レイ
ドゥーチェ・ボウラー               リアムの弁護士
セルゲイ・ペトロフ                ロシアの投資会社の幹部
エレーナ・オルロワ                ペトロフのボディガード兼恋人
リスター・マドックス               ジェン=コア・テクノロジーズのCEO
B・B・マドックス                リスターの父。ジェン=コア・テクノロジーズの創業者
エリック・ヘイニー                ギルバート大統領首席補佐官
サクソン・ヘイニー                エリックの息子
18ページ~

 サビッチはゆっくりとドアを押し開け、積まれている段ボール箱を横にずらして通り道を作った。クローゼットの扉を内側からそっと開けて、壁がライトブルーに塗られた部屋をのぞきこむ。ベビーベッドの上に〝アレックス〞という名前の入った色鮮やかなモビールが吊され、かたわらにはブルーの上掛けがかかったロッキングチェアと、ディズニーキャラクターが描かれたチェストが置かれている。赤ん坊を迎える準備は万端らしい。
 足音を忍ばせて廊下に出た。男がまた警察官に向かって叫ぶ声が聞こえ、リビングルームまで十メートルと離れていないと見当をつける。「ろくでなしどもめ! やつらに送りこまれたんだろう? だが今はまだ、やつらは僕が死ぬのを望んでない。だから殺すなと言われてるはずだ」
 カーラの穏やかな低い声が聞こえたが、なんと言っているのか聞き取れなかった。抑えた口調で、男を落ち着かせようとしている様子だ。カーラがあと少しだけ耐えてくれるよう祈った。そうすれば彼女が撃たれるのを│もしかすると犯人が自殺を図るのも│阻止できるかもしれない。
 サビッチはグロックを脇に構え、なるべく音をたてずに最新式のキッチンを抜け、ダイニングルームに続くアーチ型の入口へ向かった。その先にL字形のリビングルームがあった。最初に目に入ってきたのは、椅子に拘束されたカーラだ。手首と足首をダクトテープで縛られていて、長いストレートの黒髪が顔にまとわりついている。大きな腹部を覆っているのは〈ワシントン・フットボールチーム〉のバーガンディ色のTシャツで、その下にゆったりした白のコットンのパンツをはいている。華奢な足は素足のままだ。二十代半ばくらいの美しい女性だった。カーラは自分の足元を見つめ、男の視線と注意を避けようとしていた。サビッチがさらに前に進むと、窓際に立っている男の横顔が見えた。アサルトライフルを片手にさげている。あんな殺傷力の高い武器をいったいどこで手に入れたのだろう。男の体が前後に揺れているのは緊張のせいか? それとも薬のせい? おそらく両方だろう。若い男だと聞いてはいたが、驚いたことに二十五歳以上には見えなかった。細身で体重は六十五キロくらい、身長は百七十五センチといったところ。ほっそりした顔に無精ひげが生えている。怒りと不安で顔をゆがめていなかったら、ハンサムと言えるのかもしれない。男はだぶだぶのチノパンツに皺くちゃのシャツを着ていた。おそらくどこかの施設に収容されていて、看病をしていた人たちから逃げだして以来、ずっと同じ服を着ているのだろう。あるいは神から逃げているのだろうか? 自分が信じている神にあっという間に見つかり、連れ戻すために警察が送りこまれたと思っているのか?
 サビッチはアーチ型の入口の脇のダイニングルームの壁にぴたりと身を寄せ、呼吸を整えた。メイヤーが拡声器で呼びかける声が聞こえる。ミズ・ムーディに危害を加えなければ要求はなんでものむと、理性を失った相手に説得を試みている。
 男が叫んだ。「噓つけ! そんな話は信じない! 僕と彼女をどこかへ連れていくつもりかもしれないが、そうはさせないぞ。聞いてるのか?」甲高い笑い声をあげた。「おまえたちを勝たせる気はないからな!」男はその言葉をもう一度叫び、声をあげて泣いた。やがて口をつぐみ、カーラに向き直ってささやいた。「どうしたらいいかわからないんだ。なんとかしないと。僕は君にとって一番いい状態を望んでる。ただし、君が考えてるようなやり方じゃない。でももう、どうでもいいのかもな」首を振り、空いているほうの手で自分の髪を引っ張る。そして今にも壊れそうになったのか、声を張りあげた。「どうしたらいいんだ?」
 カーラが視線をあげた。サビッチと同様に事態が切羽詰まってきたことを察し、説得を試みなければならないと感じたらしい。「お願いだから話を聞いて。あなたが誰で、なぜ一緒に来てほしいのか教えてもらえない? それに、どこへ行くつもり? 誰に追われているの? 私たちふたりが追われているの? 見てわからない? 私は妊娠しているのよ」
 男が走り寄って身をかがめ、カーラの顎を両手で持って乱暴に顔をあげさせた。「君が妊娠してるのはわかりきったことじゃないか。どうして僕がここに来たと思ってるんだ? 君が通報したのか? 僕がここにいるとやつらに知らせたのか?」また口をつぐみ、考えを整理しようとするように首を振った。「いや、君は知らせていない。僕がそうさせなかったんだからな。君を拘束する必要があったことはわかってくれるだろう? 一緒に来るよう説得する前に逃げられてしまうからだよ。待てよ、じゃあ、誰がやつらを呼んだ? わからない。さっぱりわからない!」
 男がカーラに近づきすぎているせいで、サビッチは行動を起こせなかった。今にも彼女にキスをしそうなほど顔を寄せている。カーラは驚くほど落ち着いた声で、男に向かってささやきかけた。「ええ、私はあの人たちを呼んでいないわ。私も好きじゃないから、彼らには近づいてほしくない。あなたは誰? 前に会ったことはある? ボルティモアにいたことは?」
「ボルティモア」男がおうむ返しに言った。言葉の意味を理解しようとしているようだ。男はすばやく体を引き、カーラに向かって口から唾を飛ばして叫んだ。「僕はエニグマだ。やつらにいつもそう呼ばれてる。それが僕らだと。絶対に連れ去られてたまるか。君も連れてはいかせない! 邪悪な、とてつもなく邪悪なやつらに!」男ははじかれたようにカーラから離れた。
「今すぐ銃を捨てろ!」
 サビッチの声に男が振り返ってわめく。「だめだ!」ライフルを持ちあげて大声で言う。「どうやってここに入った!」
 サビッチは発砲した。弾はライフルに命中し、男の手から飛びだしたライフルがオーク材の床を滑り、椅子の脚にぶつかって止まった。
 若い男はうなり声をあげ、両腕を広げてカーラに向かって突進した。サビッチは男の肩を狙ってもう一発撃った。男はびくっとしたが、止まらずにカーラの大きな腹部に向かって両手を伸ばした。サビッチが慎重に狙いを定めて撃った次の瞬間、カーラが後ろによろめき、椅子ごとひっくり返った。男の頭から血が流れ、撃たれた衝撃で男がのけぞる。しかし弾は頭をかすめただけだったので、男はサビッチのほうを振り向いた。男は狐きつねにつままれたような顔をしている。まったく身に覚えのないことでお仕置きされた子どものようだ。乾いた唇をなめ、かすれた声で言った。「どういうことだよ。あんたは神じゃないだろう。やつらは僕の死を望んでないんだぞ。あんたは誰だ?」脳がようやく痛みを認識したらしく、自分の肩をつかみ、涙を流しながらよろめいた。もう一方の手を頭にやり、ふたたび手をおろして指についた血を見つめた。次の瞬間、かぼそい泣き声を漏らすと、男は白目をむいて横ざまに倒れた。どうやら気を失ったようだ。