- 目次
- 488ページ
主要登場紹介
サラ・ハント 米海軍第21駆逐艦隊司令官。大佐
クリス・ミッチェル 米海軍パイロット。少佐
ジェイン・モリス 駆逐艦ジョン・ポール・ジョーンズ艦長。中佐
サンディープ・チョードリ 米国家安全保障担当大統領補佐官
ジョン・T・ヘンドリクソン 米インド太平洋軍少将
トレント・ワイズカーヴァー 米国家安全保障問題担当大統領補佐官
林保 在米中国大使館国防武官
馬前 〈鄭和〉空母打撃群司令官
蔣 中華人民共和国国防部長
趙楽際 中国共産党中央規律検査委員会書記
ガーセム・ファルシャッド イラン革命防衛隊准将
モハンマド・バゲリ イラン軍参謀長
ヴァシリ・コルチャーク ロシア海軍少佐
アナンド・パテル インド退役海軍中将。サンディープのおじ
二〇三四年三月一二日 14:47( G グリニツジ標準時M T06:47)
南シナ海
どこを向いても、まるでテーブルにぴんと張ったクロスのように、水平線までずっと海面がぴたりと静まっている光景は、二四年も経たいまでも息を飲む。一本の針を落としたら、海流にも流されずするすると海中に沈み、底に突き刺さるのではないかと思った。これまでのキャリアで、何回いまと同じように艦のブリッジに立ち、こんな奇跡の凪を見つめただろう? 千回? 二千回? 最近、夜眠れなくなったとき、航海日誌を読み返し、陸地の見えないはるか洋上を航海してきた年月を数えた。九年近くになる。彼女の記憶はその長い年月を矢のようにめぐっている。少尉のとき、ディーゼル・エンジンがごほごほ咳き込んでばかりの掃海艇の板張りデッキで操艦当直に立っていた日々、キャリアなかばで世界各地の沿岸や河川域で特殊戦に身を投じていたときのこと、そして、容赦なく照りつける太陽のもと、すっきりとスマートな艦容のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦三隻を指揮して、航跡をたなびかせて一八ノットで南南西に向かっているいま。
彼女の小艦隊は、〝航行の自由〞という遠回しな名前のついた作戦の一環として、領有をめぐって係争が続くスプラトリー諸島(中国語名「南沙諸島」)に含まれるミスチーフ環礁の沖一二海里にいる。その作戦名は気に入らなかった。軍事の多分に漏れず、この作戦名も実際の任務を偽るためにつけられたのだ。作戦の真の目的は挑発にほかならない。南シナ海が公海なのは自明の理だ。確立した海洋法の定めるところで公海であるのはまちがいないが、中華人民共和国は自国の領海だと主張している。紛争の絶えないスプラトリー諸島近海を小艦隊で航行するということは、隣に住む人が塀を少しこちらの敷地のほうへ動かした仕返しに、きれいに手入れされた隣の前庭に車で乗り入れてタイヤ跡をつけるようなものだ。もっとも、中国は何十年も前からずっと塀を少し、また少し、さらにまた少しと動かし続けており、そのうち南太平洋全域の領有を主張するだろうが。
だからこそ……さすがにそろそろタイヤ跡をつけてやらないと。
はっきりそういう作戦名にすればいいのに、と彼女は思った。努めて真顔を保っていた表情がほんの少し崩れた。〝航行の自由作戦〞じゃなくて〝タイヤ跡作戦〞にすればいいのよ。そうすれば、乗組員も自分たちが何をしようとしているのかわかるというものだ。
肩越しに、旗艦〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉の流線形にしぼり込まれた艦尾側に目を向けた。航跡の向こうに、真っ平らな水平線に戦列を組んでいる二隻の僚艦、〈カール・レヴィン〉と〈チャン゠フー〉の両駆逐艦が見える。彼女は駆逐隊司令として三隻の指揮をとっている。母港サンディエゴの基地に停泊中の四隻も麾下にある。
いま、彼女は艦乗りとしてのキャリアのいちばん高いところにいる。二隻のいるうしろに目を凝らし、旗艦に続く両艦を目で追っていると、そこに自分の姿が見えるような気がしてならなかった。波ひとつない鏡のような海面に立っているかのように、くっきり浮き出たり、きらめく光に包まれて見えなくなったり。かつての自分の姿。
若きサラ・ハント少尉。そして、いまの姿も。年を重ねて物事の道理がわかるようになった、第二一駆逐隊司令サラ・ハント大佐――〝ソロモン諸島超えて〞が第二次世界大戦以来のこの部隊のモットーだ。そして、自分たちがつけたニックネームは〝怒れるライオン〞。麾下の七隻の乗組員のあいだでは、彼女は敬愛を込めて〝ライオン・クイーン〞で通っている。
ハントはしばしたたずみ、じっと航跡を見つめ、海上に見え隠れする自分の姿を追った。きのう、係留索をすべてはずし、いざ横須賀海軍基地を出港しようというときに、医事部から通知を受けていた。通知が入った封筒はポケットに入っている。そのことを考えるだけで、骨がうまく接がれていない左足に痛みを感じる。その後、いつものとおり、背骨のいちばん下のあたりに針を何本も突き刺されたかのような激痛が走る。とうとう古傷のツケが回ってきたのだ。医事部ははっきり所見を記していた。
ライオン・クイーンの航海は今回が最後になる。ハントはまだ信じられずにいた。
不意に光の差し具合が、ほんの少し変わった。皺ひとつない幕を敷いたような海の上を動く細長い影を、ハントは目で追った。そのときかすかな風が海面をなで、さざ波が立った。目を上に向けると、細い雲がひとつ、大空を渡っていた。雲は晩冬の仮借ない陽光に絶えきれず、空を渡りきる前に霧になって消えた。海がまたぴたりと静まった。
背後の階段を上ってくる小刻みな乾いた足音で、ハントの感傷は途切れた。ハントは時計を見た。この艦の艦長、ジェイン・モリス中佐は、例によって遅れてやってきた。
二〇三四年三月一二日 10:51(GMT06:21)
ホルムズ海峡
クリス・〝ウェッジ〞・ミッチェル少佐は〝それ〞をほとんど感じなかった……。
父親は〝それ〞をもっと感じていた。たとえば、F / A ‐18ホーネットの前方監視赤外線暗視装置(FLIR)が故障し、イラクのラマディーの近くで作戦中の一個小隊の近接支援として、携帯GPSと地図だけを頼りにGBU‐38〝デンジャー・クロース〞爆弾(敵味方入り乱れた戦闘地域で味方ギリギリの敵に落とす爆弾)を二発、敵に撃ち込んだときとか……。
ウェッジが〝ポップ〞と呼んでいた祖父は、孫よりも子よりも強く〝それ〞を感じた。ベトコンのテト攻勢のときには疲れ切った体に鞭打ち、五日間にわたって、木々すれすれに飛びながら照準器だけでスネークンネイプ(Mk‐81スネークアイ誘導弾とM‐47ナパーム焼夷弾)を投下し続けた。A‐4スカイホーク軽攻撃機の胴体のペンキが焦げるほどの超低空飛行だった……。
いちばん〝それ〞を感じたのは、ウェッジが〝ポップポップ〞と呼んでいた曽祖父だ。海兵隊撃墜王(エース)になった大酒飲みで勇猛果敢なグレゴリー・〝パッピー〞・ボイントン少佐率いる、かの有名なVMF‐214(第二一四海兵戦闘飛行隊)ブラックシープの一員として、曽祖父は南太平洋で日本軍のゼロ戦の来襲に備えて哨戒していた……。
ミッチェル家の男たちを四世代にわたって虜にしてきた、なかなかつかみ取れない〝それ〞とは、計器に頼らずに、本能だけにしたがって飛ぶ快感だ。(「パッピーと一緒にやっていたころには、哨戒するにしても、いまとちがってたいそうなハイテク装備などついていなかった。コンピュータ化された照準装置もない。オートパイロットもない。頼りは才能、技量、それからツキだけだ。操縦席の前についている機銃照準器に油性鉛筆で印をつけただけで出撃していた。パッピーと一緒にやっていると、格闘戦中の機体の姿勢をチェックするためにすぐに水平線に気をつけるようになる。水平線にも気をつけるが、パッピーからも目を離しちゃいけない。パッピーがコックピットから煙草をぽいと捨てて、風防(キャノピー)を閉めたら、いよいよ本番だという合図で、これからゼロ戦とやり合うという意味だ」)
そのちょっとした演説をウェッジが曽祖父から最後に聞いたのは、六歳のときだった。眼光鋭い飛行機乗りの曽祖父は、そのとき九〇過ぎだったが、かすかに声の震えが感じられるだけだった。いま、まばゆい陽光をキャノピーに受けて、まるで曽祖父が後席に乗っているかのように、ウェッジには曽祖父の言葉がはっきり聞こえていた。もっとも、ウェッジが操縦する最近型のF‐35Eライトニングは単座機だが。
自分が操縦しているこの戦闘機にはいくつも不満はあり、余計な〝雑音〞が聞こえてくるのもそのひとつでしかない。ウェッジはまさに右翼で国境をなでるくらいイラン領空ぎりぎりを飛んでいる。操縦がむずかしいわけではない。逆に、技量などなくても、これくらい正確な操縦はできる。F‐35の機上航法用コンピュータに、フライト・プランがインプットされているのだ。ウェッジはなにもしなくていい。この飛行機は勝手に飛ぶ。デジタル計器を注意して、キャノピーから外の景色をめで、ありもしない後席に鎮座する曽祖父のお小言を傾聴しているだけでいい。
ヘッドレストのうしろの狭いスペースに補助バッテリー・ユニットが詰め込まれていて、モーター音がとんでもなくやかましく感じる。F‐ 35 のターボファン・エンジンをもしのぐやかましさだ。靴箱ほどの大きさのこのバッテリーは、アップグレードされたF‐35のステルス・システムの電源だ。追加された機能の詳細は教えられていない。敵レーダーの電磁式攪乱機能のようなものだとだけ聞いていた。この任務に関する要旨説明を受ける前、契約業者のロッキード社員ふたりが主甲板下の格納庫でウェッジの機をいじっているのに気づいた。警備担当兵に通報したところ、その警備担当兵も空母〈ジョージ・H・W・ブッシュ〉の乗艦者名簿に民間人の名前はいっさい載っていないということだった。ついに艦長にも報告が行って、やっと行きちがいが解消された。搭載される新テクノロジーの機密性からして、そうした民間契約業者の人間が乗艦していること自体が機密扱いだったのだ。結局、そんなごたごたのなかで、ウェッジは自分の任務を知ったのだが、出だしでつまずいた以外はフライト・プランどおり順調に進んでいる。
順調すぎるくらいだ。それが問題だった。どうしようもなく退屈なのだ。下のホルムズ海峡に目を向けた。アラビア半島とペルシャを隔てる、各国軍が集まるターコイズ色の細長い海域。時計を見た。コンパスと高度計が内蔵されたブライトリングのクロノメーターで、二五年前、父親がアフガニスタンのマルジャーで対地攻撃任務に出るときに腕に巻いていたものだ。ウェッジは機内コンピュータよりこの時計を信頼していた。そして、その両方がウェッジに告げていた。あと四三秒で六度東に針路を変えてイラン領空に突入する。そのとき│頭のうしろでうなっている小さな箱がしっかり役目を果たしてくれるなら――ウェッジの戦闘機は完全に姿を消すことになる。
鮮やかなものだ。
こんなハイテク任務を仰せつかるとは、たちの悪い冗談にも思える。生まれる時代をまちがえたな、と飛行隊の仲間にはよくいじられる。それで〝楔〞(ウェッジ)なんてコールサインをつけられた。世界最古のいちばん原始的な道具だから。
そろそろ六度の針路変更だ。
ウェッジはオートパイロットを切った。スロットルと操縦桿(スティック)を操作してマニュアルで飛ばしたりすれば、あとでこってり絞られるだろうが、そんなのは〈ブッシュ〉に帰艦してから考えればいい。
〝それ〞を感じたかった。
ほんの一秒でもいいから。一生に一度でもいいから。
大目玉を食らっても、やる価値はある。そして、背後から響き渡るやかましいモーター音に包まれて、ウェッジはイラン領空に向けてバンクした。
二〇三四年三月一二日 14:58(GMT06:58)
南シナ海
「お呼びですか、司令?」
〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉艦長のジェイン・モリス中佐は、疲れている様子だった。一五分近くも遅れてハントのところにやってきても悪びれることがないほど疲れ切っているようだが、ハントはモリスの重圧をよくわかっていた。ハントも似たような重圧を数えきれないほど感じてきたからだ。艦を沈めないでおく重圧だ。四〇〇人近い水兵たちの命を預かる責務。つねに漁船団を縫って進まなければならない南シナ海で、何度となくブリッジに呼び出されることによる睡眠不足。指揮範囲からすると、ハントはその三倍の重圧を受けているともいえるが、小艦隊の指揮は各艦長への権限の委任による指揮であるのに対して、艦の指揮は純然たる艦長の直接指揮だということは、ハントもモリスもわかっている。〝つまるところ、艦長が指揮する艦がどう動くか、あるいは動かないかは、すべて艦長だけの責任だ〞ふたりとも、その単純な教訓をアナポリスの海軍兵学校でたたき込まれてきた。
ハントはカーゴポケットから葉巻を二本とり出した。
「それは何です?」モリスが訊いた。
「おわびのつもり」ハントはいった。「キューバ産よ。父はむかしグアンタナモの海兵隊から買っていた。いまはキューバのものを買うのは合法だからむかしほどスリルもないけど……味がいいことに変わりはない」モリスは敬虔なクリスチャンで、実は福音派だから、一緒に一服するかどうか自信がなかった。だから、モリスが葉巻を受け取り、ブリッジ・ウィングについてきたときはほっとした。
「おわびですか?」モリスが訊いた。「なんのおわびです?」そういうと、ハントのジッポーから出ている炎に葉巻の先をつけた。ジッポーには、葉巻をくわえてサブマシンガンを振り回すウシガエルが彫り込まれている。よくネイビーSEALsが胸や肩に刺青を彫らせるときの図柄だが、ハントの父親はひとり娘に遺したライターに彫らせていた。
「〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉を旗艦に選んだとわかって、そんなにうれしくはなかったでしょうね」ハントも葉巻に火をつけた。艦の進行方向とは逆向きに、煙がたなびいている。」罰としてそうしたとは思わないでほしい「ハントは続けた。」この小艦隊で、わたしのほかにただひとりの女性でもまったく関係ない。あなたの子守をするために、この艦に指揮官の所在を示す司令旗を揚げることにしたとは思わないでほしい」ハントは思わずマストを、司令旗をちらりと見上げた。
「自由に話す許可をいただけますか?」
「やめてよ、ジェイン。ふざけないで。兵学校の新入生でもあるまいし。ここはバンクロフト・ホール(アナポリス海軍兵学校の寮)じゃないのよ」
「了解」モリスがいった。「さっきの話だけど、そんなことは思っていないわ。これっぽちも。あなたは三隻の優秀な軍艦と優秀な乗組員を率いてる。あなた自身もどこかに乗らないといけない。実のところ、わたしの乗組員はライオン・クイーンが乗艦すると聞いて沸き立っていた」
「これでよかったのかもね」ハントはいった。「わたしが男なら、ライオン・キングだもの」
モリスは笑った。
「それに、わたしがライオン・キングなら」ハントは真顔で続けた。「あなたはザズーだし」そういうと、ハントは笑みを見せた。その満面の笑みのおかげで、ハントはどんな部下にも慕われていた。
モリスもその笑みに、もう少し言葉を続ける気になったようだ。いつもならいわないことまで。「わたしたちが男で、〈レヴィン〉と〈フー〉の艦長がどちらも女だったとしたら、わたしたちはこんな話をしていると思う?」モリスは答え合わせの代わりに、一瞬の間を置いた。
「まったくね」ハントはいい、甲板の手すりに寄りかかってまたキューバ産葉巻を吸い、信じられないくらいべた凪の海のはるか向こうの水平線を見つめた。
「脚の具合はどうなの?」モリスが訊いた。
ハントは太ももに手を伸ばした。「相変わらず」彼女はいった。大腿骨が折れたあたりには触れなかった。一〇年前、パラシュート降下訓練中の事故で負ったけがだ。
パラシュート故障のせいで、女性初のSEALs隊員の地位を失い、命まで危うく失うところだった。ハントは太ももではなく、ポケットに入れておいた医事部からの通知書に触れた。
ショート・シガーを吸えるところまで吸うと、モリスが右舷側の水平線に何かを見つけた。「あれは煙よね?」モリスがいった。ふたりは葉巻を舷側から海に投げ捨て、右舷に目を凝らした。小型の船だ。のろのろ進んでいるのか、あるいは漂流しているのか。モリスは素早くブリッジに入り、自分用とハント用に双眼鏡をふたつ持って展望デッキに戻った。
いまははっきり見える。全長二〇メートルほどのトロール船だ。漁網を引き上げやすいように中央部の舷側が低くなっていて、荒波を乗り切るために舳先は高い。漁網を張った腕架の背後に航海船橋が配置された船の尾部から煙が勢いよく出ている――もうもうとした黒い煙の隙間からオレンジ色の炎が見える。甲板は大騒ぎで、一〇人ほどの乗組員が火を消そうと奮闘している。
小艦隊は危機的状況にある船舶に遭遇した場合の対処法を詳細に決めていた。まず、ほかの船が支援に来るかどうかを確認する。来なければ、その船の代わりに遭難信号を発して支援を探してやる。航行の自由作戦をいったん中止し、自分たちで支援することはしない――あるいは、ほかに手段がない場合にのみする。
「船籍は?」ハントは訊いた。頭のなかで、意思決定のための枝分かれ図をたどりはじめる。
モリスがわからないと答えた。船首にも船尾にも旗は見当たりません。モリスはそういうとブリッジに戻り、当直士官である牛肉ばかり食べていそうな茶色みの強いブロンド髪の中尉に向かって、この一時間のあいだに遭難信号が入っているかと訊いた。
当直士官はブリッジの航海日誌を確認し、戦闘情報センター――目標の捜索探知機能と通信機能が集約されている、数層下にある艦の〝中枢神経系〞にも照会し、遭難信号はいっさい出ていないと判断した。モリスがトロール船の代わりに遭難信号を出す前に、ハントはブリッジに入り、モリスを制止した。
「作戦を中止し、支援に向かう」ハントは命じた。
「中止?」思いがけず、モリスの口からそんな疑問が漏れた。ブリッジにいた全員がモリス中佐に顔を向けたことからすれば、口が滑ったともいえるが、この海域にとどまっていれば人民解放軍の軍艦とにらみ合いになる確率がぐんと上がることは、モリスもほかの全乗組員と同じくよくわかっていた。乗組員は練度も意識も高く、すでにほぼ総員配置の対応をしており、不吉な空気が漂っている。
「危機的状況にある船舶が旗も揚げず、遭難信号も出さずに航行している」ハントはいった。「もっとよく見てみましょう、ジェイン。完全な総員戦闘配置につかせましょう。どうも怪しい」
何年も練習してきたのに、これまで一度も発表する機会がなかったコーラスをここぞとばかり披露するかのように、モリスは乗組員に対しててきぱきと指示を出した。すぐさま、艦内のあらゆるデッキで水兵たちが動きはじめた。ガスマスクや膨張式救命胴衣など、大掛かりな装備を身に着け、艦内の数多くのハッチを閉め、艦載レーダーや赤外線信号を隠すステルス装置を作動させたりと、戦闘準備の歌を奏でていた。〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉は針路を変え、自力航行できないトロール船に接近した。僚艦〈カール・レヴィン〉と〈チャン゠フー〉は針路と速度を変えず、航行の自由作戦を続けた。僚艦と旗艦との距離がひらきはじめた。ハントは横須賀の第七艦隊司令部宛に暗号電報を打とうと、自室に戻った。計画変更だ。
二〇三四年三月一二日 04:47(GMT08:47)
ワシントンDC
米国家安全保障担当大統領補佐官ドクター・サンディープ・〝サンディ〞・チョードリは毎月第二と第四月曜日が大嫌いだった。子供の養育に関する合意によると、その両日は彼の六歳の娘、アシュニが母親の元に戻る日になっているのだ。しばしば厄介なことになるのは、厳密には学校が終わったあとでしか引き渡しが成立しないからだ。その間に突発的な養育上の問題が発生したりすれば、彼が対処することになる。たとえば、雪が降ったりしても。そして、たまたまこの月曜の朝はやはり雪だったが、ホワイトハウスのシチュエーション・ルームでホルムズ海峡上空でのデリケートなテスト・フライトの進展を見守ることになっていたので、手ごわい実の母親、ラクシュミ・チョードリに電話して、ローガン・サークルのアパートメントに来てほしいと頼んでいた。ラクシュミはアシュニに会いたい一心で、日が昇る前にやってきていた。
「あの条件を忘れてもらっては困るよ」首の細いチョードリがぶかぶかの襟をネクタイで絞めていると、母親が釘を刺した。雪解けの夜明け前に出て行くとき、チョードリはドアの前で足を止めた。「忘れないよ」彼はいった。「アシュニの迎えの時間までには戻るから﹂戻らないわけにはいかない。母親がつけた唯一の条件は、彼の前妻サマンサの姿なんか見たくないというものだった。母親はテキサス州ガルフ・コースト出身のサマンサを、あんな田舎者といって見下していた。ブロンドの髪をページボーイにしたやせぎすのサマンサをはじめて見たときから、母親はサマンサを毛嫌いしていた。エレン・デジェネレスを貧相にしたみたいだ、とラクシュミは、どこが魅力的なのかさっぱりわからないという昔のテレビ番組の司会者を引き合いに出し、いらだたしげにいったことがある。
四四歳にもなって独り身で、母親を頼っているのもちょっと情けないが、傷ついたエゴも、ブリーフケースからホワイトハウスの通行バッジを取り出したときにはすっかり治っていた。ペンシルバニア・アベニューを走っていた数人の早朝ジョガーの視線を浴びて、この人たちは私が何者かわかっているんだろうかと思いながら、チョードリは北西ゲートの制服姿のシークレット・サービス・エージェントにバッジを見せた。ウエスト・ウィングで働くようになってまだ一八カ月だが、母親のラクシュミにとっては、これでやっと、息子さんのドクター・チョードリはお医者さんよねといわれたときに、訂正できるようになった。
母親は何度か彼の職場にやってきたが、チョードリはなかに入れなかった。ウエスト・ウィングの職場と聞くと、現実よりはるかにきらびやかに感じられるものだ。実際にはデスクと椅子が地下室の壁際にびっしり並び、スタッフが押し込められているようなところだ。
チョードリは自分のデスクにつき、珍しくだれもいない職場の静けさに浸った。六センチあまり積もった雪が首都を麻痺させているから、ほかに出勤してきたものはいない。チョードリは引き出しのなかをがさごそと引っかき回し、ひどくひしゃげているものの、まだ食べられるエナジー・バーを見つけると、一杯のコーヒーとブリーフィング・バインダーを持って、重厚な防音ドアからシチュエーション・ルームに入った。
会議用テーブルの上座につくり付けられているターミナル席が、チョードリのために空けてある。彼はログインした。部屋の向こう端のLEDスクリーンに、海外展開している米軍の位置を示すマップが映し出された。南方軍、中央軍、北方軍、その他の主要戦闘司令部のそれぞれと暗号化されたビデオ電話会議リンクもつながっている。
チョードリはインド太平洋軍――大半は海とはいえ、地表の四〇パーセントを管轄する最大かつ最重要な司令部――に注目した。
ブリーフィングをおこなっているのはジョン・T・ヘンドリクソン少将だった。直接かかわったことはないものの、チョードリにはかすかに見覚えのある原子力潜水艦乗りだ。男女ふたりの士官が両脇に控えていた。いずれもヘンドリクソン少将よりだいぶ長身だった。少将とチョードリは一五年前、ともにタフツ大学フレッチャー法律外交大学院で学んでいた。とはいえ、友だちというわけではなかった。実際には重なっていたのは一年だけだったが、ヘンドリクソンの噂はチョードリの耳にも届いていた。身長一七〇センチ足らずのヘンドリクソンは、ひときわ小さかったのだ。その小柄な上背は潜水艦に乗るために生まれてきたかのようで、癖が強く、ものごとを突きつめて考える性格も、その一風変わった海軍任務にうってつけのようだった。ヘンドリクソンは三年間という記録破りの短期間で博士号を取得した(チョードリは七年かかった)。在学中にはフレッチャー大学院ソフトボール・チームをボストン地区の大学選手権で三連覇に導き、〝バント〞のニックネームがついた。
チョードリはそのニックネームでヘンドリクソンを呼びそうになったが、思いとどまった。いまは公職に敬意を払うときだ。彼らの前のスクリーンに前方展開部隊が映っている――エーゲ海で行動中の両用戦即応群、西太平洋の空母打撃群、北極海にわずかに残る氷山の下に潜む二隻の原子力潜水艦、中央ヨーロッパの西から東へ同心円状に展開する機甲部隊。ロシアの侵攻を防ぐために百年近く敷いている防衛体制だ。
ヘンドリクソンがすぐさま、進行中の二件の重大事案に注目を促した。ひとつは長きにわたって計画されてきたもので、もうひとつはヘンドリクソンの言葉を借りれば、〝進行中〞のものだ。
計画されていた事案というのは、F‐ 35 のステルス・テクノロジー・システムに組み込まれた最新の電磁波攪乱装置の試験だった。この試験が進められており、あと数時間後には結果が判明する。テスト中のF‐ 35 はアラビア海沖合いの〈ジョージ・H・W・ブッシュ〉から発進した。ヘンドリクソンが時計に目を落とした。「パイロットはイラン領空で、この四分間、察知されずにいる」ヘンドリクソンが長いトップ・シークレット文書を読みはじめ、めまいがするほどちんぷんかんぷんな電磁波攪乱装置の特性に関する段落に入った。イランの防空体制もまさにこのときはチョードリと同じような状況になっていて、眠らされているらしい。
ヘンドリクソンが何行も読まないうちに、チョードリはついていけなくなっていた。細かいことにこだわるたちではない。科学技術に関する細かいことならなおさらだ。だからチョードリは大学院を出てから政治の道に進んだ。だからヘンドリクソンは――これほど頭脳明晰だというのに――厳密にいうと、チョードリの部下という位置づけになっているのだ。国家安全保障会議スタッフに政治任用されたチョードリは、ヘンドリクソンの上官にあたる。もっとも、ホワイトハウス勤務の将校で、文民の上官に対してはっきりそう認めるものはほとんどいない。チョードリの才能は科学技術ではなく、どんな苦境にあっても最善の結果を出すすべが直感的にわかる力なのだ。政治の世界に足を踏み入れたのは、一期で終わったペンス政権時代だ。しぶとく生き残ってきたのはだれもが認めるところだろう。
「次の事態は進行中だ」ヘンドリクソンは続けた。「〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉
小艦隊――三隻からなる水上戦闘群だが――の旗艦が、スプラトリー諸島付近での航行の自由作戦を中断し、危機的状況にある船舶の調査に向かっている」
「どんな船舶だ?」チョードリは訊いた。会議用テーブル上座の革張りのエグゼクティブ・チェアに深くもたれて座っていた。大統領がこの部屋にいるときに座る椅子だ。大統領とは似ても似つかない振る舞いだが、チョードリはエナジー・バーにかじりついていた。
「わからない」ヘンドリクソンは答えた。「第七艦隊からの連絡を待っているところだ」
F‐35のステルス攪乱性能の解説にはついていけないが、中国が自国領海だと主張する海域で、一隻二〇億ドルもするアーレイ・バーク級誘導ミサイル駆逐艦が救難船のまねをして、謎の船舶にかかずらうとなると、せっかくの静かな朝が台なしにならないともかぎらない。それに、水上行動群が二手に分かれるのもあまりいい手だとは思えない。「あまり気に入らんな、バント。現場の指揮官はだれだ?」
ヘンドリクソンが一瞬だけチョードリに目を向けた。むかしのニックネームで呼ぶというチョードリの微妙な挑発に気づいたらしい。ふたりの部下も不安げに目を見合わせた。ヘンドリクソンは取り合わないことにしたようだった。「その指揮官はよく知っている」彼がいった。「サラ・ハント司令。非常に有能だ。昇進グループ同期でトップだ」
「それで?」チョードリは訊いた。
「つまり、ある程度好きにさせておいてもいいのではないか」
二〇三四年三月一二日 15:28(GMT07:28)
南シナ海
救助命令が出されると、〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉の乗組員は素早く動いた。二艘の搭載複合艇(R H I B)が舷側から発進し、炎上中のトロール船に横付けした。ブロンドの髪のずんぐりした中尉がこのゴムボート隊の指揮を任されていたが、ハントとモリス
はブリッジからゴムボート隊を見守りつつ、中尉が野太い声(バリトン)でヒステリックにわめき散らす様子を聞いていた。スクリメージ・ライン(アメリカン・フットボールで攻守双方がニュートラル・ゾーンをはさんで対峙する仮想の線)で攻撃チームのクォーターバックが指示(プレイ)をコールしているかのようだ。冷静さを忘れてしまった新米指揮官を、ふたりの上官は大目に見た。二台のポンプと二本のホースだけを使って敵海域で消火活動をしているのだ。
敵が縄張りと主張する海域だが、鏡のように波ひとつないべた凪のなか、ブリッジの数百メートル先で、火災とトロール船のドラマが繰り広げられている。こんな海を見るのはこれが最後になるかもしれない、いずれにしても軍艦のブリッジから見ることはもうないと思いながら、ハントはそんな海をしみじみと見つめていた。しばらく考えたあと当直士官に指示を出し、別行動をとっていた二隻の駆逐艦に航行の自由作戦を中断して火災現場に向かわせた。なるべく多くの戦闘力を手元に置いておくほうがいい。
〈カール・レヴィン〉と〈チャン゠フー〉が針路を変え、速度を上げた。やがて〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉をはさむような位置につき、最微速でトロール船に接近し続ける旗艦を防御するように、旗艦を中心として円を描くように航行しはじめた。まもなく、火災の炎が完全に消え、若い中尉が無線で勝ち誇ったような報告を上げてくると、ハントもモリスもまず手短にねぎらいの言葉をかけたあと、乗船して損傷程度を確認するよう指示し、中尉はそれにしたがった。したがう努力はしたというべきか。
トロール船の乗組員は、舷側から乗り込んだ第一団の乗船チームを怒号で出迎えた。乗船チームの甲板作業を取り仕切る掌帆長の頭をめがけて四ツ目錨(細い爪が四本の小型錨)を振り回したものさえいた。〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉のブリッジからこの騒ぎを見て、ハントは火災船の乗組員たちがどうしてこんなに激しく救助を拒むのだろうかと思った。事態の沈静化に向けて無線のやり取りをするなかで、トロール船乗組員の声が聞こえてきた。中国語(マンダリン)のような言葉を話している。
「司令、手を引いたほうがいいのでは」モリスがついに進言した。「もう助けは求めていないように見えます」
「それはわたしにもわかるわ、ジェイン」ハントは答えた。「しかし、なぜこれ以上の救助を求めていないのかがわからない」
乗船チームとトロール船の乗組員たちが激しい身振り手振りで互いに訴えかけている様子は、ハントにもよくわかる。なぜこんなに拒む? モリスのいいたいこともわかる│時間をかける分だけ、人民解放軍の監視艦艇の干渉や妨害を受けて、任務が遂行できなくなる可能性が高まる。しかし、これも任務の一環ではないのか? この海域の安全と航行の自由を確保することも? 一〇年、いや五年前までは、脅威の度合いはもっと低かった。当時、冷戦時に米ソで結ばれた条約や合意事項の大半は冷戦後もそのまま適用されていた。だが、いまではそうした古い行動規範は崩れ去った。そしていま、敵対心もあらわな乗組員を乗せたトロール船をつぶさに見ていたサラ・ハントは、この小さな漁船に脅威を感じ取っていた。
「モリス中佐」ハントは重々しい口調でいった。「本艦をあのトロール船に横付けせよ。複合艇で乗船できないなら、本艦から乗り移る」
モリスはすぐさまその命令に反対し、予測される懸念事項を列挙した。ひとつ、時間をかければ、まもなくやってくるであろう敵の監視艦艇とにらみ合いになる可能性がさらに高まる。ふたつ、本艦をトロール船に横付けすれば、本艦が余計なリスクを負う。「何が乗っているかわかりません」モリスはいった。
ハントはじっと聞いていた。意見の食いちがいをめぐる部隊のトップ2のやり取りを努めて聞かないようにしながら、ブリッジの乗組員が各自の任務にあたっているのがわかる。その後、ハントは再度同じ命令を伝えた。モリスはしたがった。
〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉がトロール船の横に来ると、〝文瑞〞という船名と母港と思われる〝泉州〞が見えた。泉州は台湾海峡に面した海岸地域の地級市(省レベルの行政単位と県レベルの行政単位のあいだにあたる行政単位)だ。〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉の乗組員がトロール船の舷縁に四ツ目錨を投げ、トロール船の舷側とのあいだに曳航用ワイヤー・ケーブルを張った。ワイヤーでつながった両者は、制御できないサイドカーのついたオートバイのように横抱きで波を切って走った。難しい操舵になるのは、ブリッジにいるだれの目にも明らかだ。乗組員は水兵特有の無言の不満を漂わせながら淡々と自分の任務を続けている。ハント司命が興奮した中国人漁民の一団などにかかずらって、自分たちの駆逐艦にいらぬリスクを負わせようとしていると思っているのだろう。司命が虫の知らせなど気にせず、早く安全な海域に戻してくれないものか。そんな全乗組員の秘めたる思いを口にするものはいなかった。
ハントは不満の空気を感じ取り、これから艦内に行くと乗組員に伝えた。
乗組員が一斉にハントに顔を向けた。
「どこに行かれますか、司令?」モリスが抗議の声を上げた。こんな微妙なときにほっかむりして、自分だけ持ち場を放棄するつもりなのかと憤っているような声色だった。
「〈文瑞〉へ」ハントは答えた。「自分の目で現場を確かめておきたい」
ハントはいったとおりのことをしようとした。当直警衛兵曹が驚いた様子でホルスター入りの拳銃を手渡し、ハントはそれを身に着けると、片足の鈍い痛みもかまわず舷側をまたいだ。ハントがトロール船の甲板に下りたときには、乗船チームがすでに〈文瑞〉の乗組員六人を拘束していた。武装した見張りがうしろで行き来するなか、乗組員たちは甲板の真ん中あたりであぐらをかいて座っていた。うしろに回された両手首を結束バンドで固定され、庇のある帽子を目深にかぶり、油や汗のしみがついた服を着ている。ハントが甲板を歩いていくと、拘束されていた乗組員のひとりが立ち上がった。ひとりだけ髭らしい髭もなく、帽子も目深にかぶらず、誇らしげに顔をはっきり見せている。反抗的な態度はない。実際にはその反対で、知性を感じるまなざしだった。すぐにこの男が〈文瑞〉の船長だと判断した。
乗船チームを率いていた上等兵曹の説明によると、トロール船内の捜索はほぼ終えたものの、スチールの水密ハッチから入る船尾の船室がまだ残っていて、乗組員がそこの解錠を拒んでいるという。乗船チームのリーダーが、トロール船の船倉から溶接トーチを持ってくるよう命じていた。一五分ほどで船倉内をすべて探し終えた。
トロール船の船長と思われる髭のない男が、訛りが強くて聞き取りにくい英語で話しはじめた。「あなたが指揮官か?」
「英語を話せるのですか?」ハントは答えた。
「あなた、部隊か?」男がまたハントに訊いた。自分のいっていることがどんな意味なのかもよくわからず、ずいぶん前にたまたま覚えた単語を口に出してみただけのようでもあった。
「わたしはアメリカ合衆国海軍のサラ・ハント大佐です」ハントは胸に手のひらを置いて答えた。「そのとおり、これはわたしが指揮する部隊です」
男がうなずいた。そのとき、背負っていた重たい荷物を下ろすかのように、両肩をだらりと下げた。「私、船を明け渡す」そういうと、男がハントに背を向けた。はじめは無礼な態度だと思ったが、すぐにそうではないと気づいた。うしろで両手首を縛られていたから、手のひらをひらいて鍵を差し出したのだ。男はその鍵をずっと握っていて、いまこうして、できるかぎり丁重な態度で、それをハントに引き渡している。
ハントは男の手のひらから鍵を取った。男の手のひらは意外なほど柔らかく、ごつごつした漁師の手ではない。ハントは〈文瑞〉船尾の船室に近寄ると、解錠してハッチをあけた。
「何があるんですか、司令?」当直警衛兵曹がすぐうしろにやってきて訊いた。
「何なの」ずらりと並ぶ小型ハード・ドライブとプラズマ・スクリーンを見つめながら、ハントはいった。「まったくわからない」
二〇三四年三月一二日 13:47(GMT09: 17 )
ホルムズ海峡
ウェッジがマニュアル・コントロールに切り替えたとき、〈ジョージ・H・W・ブッシュ〉に乗艦しているロッキードの派遣職員からすぐさま無線連絡が入り、問題はないかと訊かれた。ウェッジは答えなかった。少なくともはじめのうちは。先方はこっちの位置をまだ追跡できているから、フライト・プランどおりに飛んでいることもつかんでいるはずだ。現在位置はイラン地方部の主要海軍基地バンダルアッバスの約五〇海里西。これだけ正確なフライトなのだから――とにかくウェッジにしてみれば│自分のフライト技術はどんなコンピュータにも負けていない。
そのとき、F‐35が大気乱流――かなりの大気乱流だ――に入った。方向舵(ラダー・ペダル)に置いた足から操縦桿(スティック)、両肩、そして操縦席全体に振動が伝わった。針路からそれて、イラン防空圏でも先進技術で守られている空域に入るかもしれない。テヘランから延びるその防空の〝手〞からは、F‐35のステルス性能では逃げ切れないかもしれない。
これが〝それ〞か、と思った。
とにかく、いままででいちばん〝それ〞に近い状況にはちがいない。スロットル、操縦桿、方向舵(ラダー・ペダル)の操作は素早かった。ずっとコックピットで積み上げてきたキャリアと、四代にわたるミッチェル家の血筋のたまものだ。
ウェッジは大気乱流を抜け、境目に沿って飛んだ。飛行方向に対して風力修正角度二八度に機首を保ち、七三六ノットの速度で計三・六海里、飛行した。時間にして四秒にも満たないハプニングだったが、隠れた恩寵の瞬間だった。その瞬間を迎えても、それが恩寵だとわかるのは、ウェッジとあの世で見守っている曽祖父だけかもしれない。
すると、大気乱流は発生したときと同じようにたちまち消え去り、機体が安定した。また〈ジョージ・H・W・ブッシュ〉のロッキード派遣職員から無線連絡が入り、航法コンピュータを切ったのはなぜかと訊かれた。またオンにするよう強くいわれた。
「了解」ウェッジはようやく暗号化通信リンクで応答した。「航法コンピュータ・オーバーライド起動」ウェッジは体を前に倒し、何の変哲もないひとつのボタンを押した。
F‐35がオートパイロットに切り替わると、列車が線路上でスイッチバックするときのようなかすかな機体の揺れを感じた。
パッピー・ボイントンのように、コックピットで煙草をふかしたい衝動に負けそうになったが、今日一日分の運はもう使い切った。禁煙のコックピット内にお祝いのマルボロのにおいを漂わせて〈ジョージ・H・W・ブッシュ〉に帰艦したりすれば、ロッキード派遣職員も、それに上官も、大目に見てくれはしない。フライト・スーツの左の胸ポケットに一箱入っているが、飛行後任務概要報告を済ませてから艦尾で一服しよう。ウェッジは時計を見て、夕食までには空母艦首側のパイロット用食ダーテイー・シヤツ・ワードルーム堂にたどり着けるだろうと思った。大好物の〝心臓発作誘発スライダー〞――トリプル・パティーに目玉焼きを載せたチーズバーガー――がメニューに入っていればいいのだが。
その夕食のこと――そして、煙草のこと――を考えていたとき、F‐35が針路を変え、北のイラン内陸側へ向かいはじめた。あまりに滑らかな動きだったので、ウェッジは針路変更に気づきもせず、また〈ジョージ・H・W・ブッシュ〉から立て続けに連絡が入った。どれもその針路変更に関する警告だった。
「航法コンピュータを起動してください」
ウェッジはスクリーンをタップした。「航法コンピュータはもう起動している……待て、再起動する」長たらしい再起動の手順を踏みはじめようとしたとき、ウェッジコンピュータが反応していないことに気づいた。「 電子機器(アビオニクス)が動かない。マニュアルに切り替える」
ウェッジは操縦桿を引いた。
方向舵を踏みつけた。
いくらスロットルを操作しても、エンジンがコントロールできない。F‐35は高度を失い、しだいに降下していく。業を煮やし、腸さえ煮えくり返りそうになりつつ、操縦桿を引いた。まるで自分が乗っている飛行機を絞め殺すかのように、操縦桿を握りしめた。ヘルメットからせわしない話し声が聞こえる。〈ジョージ・H・W・ブッシュ〉からの無駄な指示だが、実のところは指示ですらなく、頼み込んでいる。どうにかしてこの問題を解決してくれと必死で訴えかけている。
だが、無理だった。
だれが、あるいはなにがこの機体を操縦しているのか、ウェッジにはわからなかった。
二〇三四年三月一二日 07:23(GMT11:23)
ワシントンDC
サンディ・チョードリはエナジー・バーを食べ終え、二杯目のコーヒーをだいぶ飲んでいたが、新しい報告は止めどなく入ってきた。ひとつ目は、〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉が、横付けして乗船したトロール船内で先進テクノロジー・システムのようなものを発見したという知らせだった。ヘンドリクソンが判断力を大いに買っているサラ・ハントとかいう司令は、さらなる詳細な調査をおこなうべく、一時間以内に漁船搭載のシステムのコンピュータを自身の小艦隊の一隻に積み込むと強硬に主張していた。チョードリがヘンドリクソンとその主張の是非を話し合っていたとき、ふたつ目の報告が入った。こちらはインド太平洋軍の第七艦隊司令部からだった。人民解放軍の原子力空母〈鄭和〉をはじめとする軍艦、少なくとも六隻からなる強力な対応派出部隊が針路を変え、まっすぐ〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉に向かっているという。
三つ目の報告はなかでもいちばんわけがわからなかった。チョードリはF‐35のフライトのために、雪の降る月曜の早朝にシチュエーション・ルームにやってきたわけだが、そのF‐35が制御不能になったというのだ。パイロットができるかぎりの対処を試みているが、現時点ではまだF‐ 35 を制御できていないらしい。
「パイロットも操縦しておらず、空母から遠隔でコントロールしてもいないというなら、いったいだれが操縦している?」チョードリはヘンドリクソンに嚙みついた。
下級のホワイトハウス職員が話をさえぎった。「ドクター・チョードリ」彼女がいった。「中国の国防武官がお話しをしたいそうです」
チョードリはけげんそうにヘンドリクソンに目をくれた。実は大掛かりでひねくれた悪ふざけです、とでもいってほしいかのようなまなざしだった。だが、そんな慰めの言葉は出てこなかった。「わかった、つないでくれ」チョードリがいい、電話機に手を伸ばした。
「ちがうんです、ドクター・チョードリ」若い職員がいった。「ここに来ているんです。林保提督という方が来ています」
「ここに?」ヘンドリクソンがいった。「ホワイトハウスにか? 冗談だよな」
職員が首を振った。「いいえ、冗談ではありません。北西ゲートにいます」チョードリとヘンドリクソンはシチュエーション・ルームのドアをあけ、通路を足早に歩いていちばん近くの窓際に行き、ブラインドの隙間から外を見た。林保提督がいる。黄金色の肩章と武官飾緒をつけた青い平常軍服という華やかないでたちで、軍人の護衛三人と民間人ひとりとともに、しだいに増えつつある観光客に混じり、じっと待っている。ミニ代表団だ。チョードリは彼らの意図を量りかねていた。中国人はこんな風にいきなり訪ねてきたりしないはずだが、と思った。
「まいったな」チョードリは小声でいった。
「なかに入れるわけにはいかんぞ」ヘンドリクソンがいった。シークレット・サービスの当直責任者たちががやがやと彼らのまわりに集まってきて、説明していた。中国の公人をホワイトハウスに入れるには綿密な審査が必要で、少なくとも四時間はかかる。ただし、大統領(P O T U S)、大統領補佐官、あるいは国家安全保障問題担当大統領補佐官レベルの承認をもらっているならそのかぎりではない。だが、その三人とも海外にいる。
テレビはミュンヘン開催のG7サミットの最新情報に合わされている。ホワイトハウスには、大統領も、国家安全保障を司るチームの大半もいない。現在、ホワイトハウスの国家安全担当上級職員はチョードリだった。
「くそ」チョードリはいった。「こっちから行くしかないな」
「それはまずい」ヘンドリクソンがいった。
「向こうを入れるわけにはいかないんだろう」
ヘンドリクソンには反論のしようがなかった。チョードリはドアに向かった。外は氷点下だが、コートはもたなかった。中国の国防武官がどんなメッセージを持ってきたのかは知らないが、あまり長くかからないよう願った。外に出ると、個人用の電話に電波が入り、バイブレーションとともに六通ばかりメールが届いた。すべて母親からだった。母親に娘の子守を頼むと、こっちに借りがあることを忘れさせないために、必ず家のなかのことをあれこれ訊いてくるのだ。まいったな、とチョードリは思った。また子供用ウェットティッシュが見当たらないといってくるんだろう。しかし、もう南サウス・ローン側の庭園を横切っているのだから、そんなメールの文面をいちいちチェックしている暇はない。
寒かったが、林保もコートを着ていなかった。身に着けているのは軍服と、じゃらじゃらした勲章と、黄金色の派手な刺繡を施した肩章と、小脇に抱えた庇付きの帽子だけだ。林保はM&Mの袋から小さなチョコレートをひとつずつつまみ、平然と食べていた。チョードリは黒い鉄のゲートを通り、林保のいるところへ歩いていった。
「貴国のM&Mに目がなくてね」林保が気のない声でいった。「もともと軍事用の発明品だった。知ってましたか? 事実ですよ│当初この菓子は第二次大戦時のGIのために大量生産されたのです。とくに南太平洋戦線向けです。溶けないチョコレートが必要だったから。たしか、こんな宣伝文句でしたよね?〝手のなかではなく、口のなかで溶ける〞。林保はM&Mのコーティングの色が取れて、まだら模様のパステル
色がついている指先をなめた。
「どういったご用件でお出でくださったのですか、提督?」チョードリは訊いた。
次にどの色のものを食べようか決まっているのに、なかなか見つからないかのように、林保はM&Mの袋のなかをのぞいた。そして、袋の中に向かって、いった。「貴国は我が国のものを押さえています。小さい船、とても小さい――〈文瑞〉という船です。返していただきたい﹂そういうと、青いM&Mをひとつ取り出し、まるで探していた色ではなかったかのように顔をしかめ、不満げに口に入れた。
「その話はここではしないほうがよろしいでしょう」チョードリはいった。
「なかに招き入れていただけるのですか?」提督は聞き入れられるはずはないとわかっていながら訊き、ウエスト・ウィングに向かって顎をしゃくった。そして、付け加えた。「それが無理なら、外で話をするしかないと思いますが」
チョードリは凍えていた。両手を脇の下に挟んだ。
「信じてほしい」林保がいった。「〈文瑞〉を返したほうが、そちらのためになります」
チョードリはアメリカ現代史上はじめて政党に属していない大統領に仕えているとはいえ、航行の自由と南シナ海に関する政権の立ち位置は、それ以前の多くの共和党政権や民主党政権から変わっていない。チョードリはじれてきている林保にもその揺るぎない方針を伝えた。
「そちらには時間がありませんね」林保がチョードリにいった。しだいにしぼみゆく袋からM&Mをつまみ続けている。
「それは脅迫ですか?」
「とんでもない」林保がいい、そんなことをいわれたのは残念だといわんばかりに悲しそうに首を振った。「お母さまからメールが入っているのではないかと思っただけです。返事をしなくていいのかなと。電話をチェックしてみてください。お嬢さんのアシュニを外に連れていって雪遊びをさせたいのに、アシュニのコートが見当たらないそうですよ」
チョードリはズボンのポケットから電話を取り出した。
メールの文面に目を落とした。
林保がいったとおりの内容だった。
「我が方の艦が〈ジョン・ポール・ジョーンズ〉、〈カール・レヴィン〉、〈チャン゠フー〉のお出迎えに向かっています」林保が続けた。彼らがこの情報を知っていることを示すために、すべての駆逐艦名を口にした。チョードリの電話に送られてきたメールもよく知っていた。「そちらがエスカレートするのはまちがいです」
「〈文瑞〉を返す対価は?」
「そちらのF‐35を返しましょう」
「F‐35?」チョードリはいった。「そちらにはF‐35などないはずですが」
「シチュエーション・ルームに戻って確認してきたほうがいいかもしれませんね」林保が穏やかな口調でいった。袋に残っていた最後のM&Mを手のひらに出した。黄色だった。「中国にもM&Mはあります。ただ、こっちのM&Mのほうがおいしい。チョコレートのコーティングのちがいです。中国では製法がまちがっていて……」そういうと、林保はチョコレートを口に入れ、しばらく目を閉じて味わった。目をあけると、またチョードリをじっと見た。「〈文瑞〉を戻してもらう必要があります」
「私は何かをする必要などありません」チョードリはいった。
林保ががっかりした様子でうなずいた。「そうですか」彼はいった。「わかりました」M&Mの袋をくしゃくしゃに丸め、歩道に投げ捨てた。
「それを拾ってください、提督」チョードリはいった。
林保は自分の捨てたゴミをちらりと見た。「拾わないと、どうかすると?」
チョードリが返答に苦心していると、提督はきびすを返し、昼前に行き交う車をよけながら通りを横切った。