立ち読みコーナー
目次
504ページ
夜と音楽と                         …5                        

 マシュウ・スカダーとともに育って ブライアン・コッペルマン…7

 窓から外へ                        …13
 バッグ・レディの死                    …67
 夜明けの光の中に                     …121
 バットマンを救え                     …155
 慈悲深い死の天使                     …183
 夜と音楽と                        …209
 ダヴィデを探して                     …217
 レッツ・ゲット・ロスト                  …245
 おかしな考えを抱くとき                  …271
 ミック・バルー、何も映っていない画面を見る        …301
 グローガンの店、最後の夜                 …307

 著者あとがき                       …331


石を放つとき                        …337

 訳者あとがき                       …486
 解 説                          …495
(石を放つとき)

 私たち四人——クリスティンとミック、エレインと私——はクリスティンとミックが住むブラウンストーン造りの建物の玄関まえの階段に立って、お決まりの抱擁の挨拶をひととおり交わした。ミックと私は男らしく握手だけにしておいた。
「気をつけて」と彼は言った。
 九月下旬の日曜日の夜、空気はひんやりとして、空には雲ひとつなく、ここが田舎なら、きっと星が見えていただろう。しかし、都会ではあまりに多くの光が常にあたりを照らしている。だから星を見ることはできず、このことは何かを暗示しているような気がしないでもない。身のまわりを照らす光は闇の暗さを和らげもすれば、星を見ることを妨げもする。
 ミックとクリスティンの家は、コロンバス・アヴェニューとアムステルダム・アヴェニューのあいだの西七十四丁目通りに面している。通りの南側にある彼らの家から歩道に出て右に曲がり、半ブロック歩くとコロンバス・アヴェニューにぶつかるのだが、なんとも不思議なことに、コロンバス・アヴェニューは六十丁目通りと交差するところで九番街と名前を変える。どちらの名前で呼ぶにしろ、この大通りは南方面のバスの経路で、私たちのアパートメントのちょうど真向かいにその系統のバスの停留所があり、私たちはそこで降りればいい。
 西七十四丁目通りの角に差しかかると、そのバスがちょうど停留所から発車するのが見えた。
 エレインが言った。「どうする? タクシーを捕まえる?  〈ヴィア〉を呼ぶ?」
 〈ヴィア〉は〈ウーバー〉と同じような配車サーヴィスだが、相乗りなのでその分料金が安い。
「きみの好きなようにしていいよ」と私は言った。
「膝の具合は?」
 この日、私たちは家から歩いてきていた。バルー夫妻の家は私たちのアパートメントから一マイル弱のところにあり、天気のいいときにはふたりとも歩くようにしているのだが、この日は途中で私の右膝に痛みが出たのだった。
「もう治った」と私は言った。「来る途中、七十二丁目通りを渡ったあたりで痛みは治まった。歩きたい?」
「どっちでもいいけど、でも、七十二丁目通りを渡ったあたりでまた痛くなったりしない?」
 私はそうなったらそのときに考える(クロツシング・ザツト・ブリツジ)といったような意味のことを言った。すると、彼女はこの場合は“ブリッジ”じゃなくて“ストリート”だけど、と軽口を叩き、まるで老夫婦のように——実際、いつのまにか私たちも老夫婦になったわけだが——そんなおしゃべりをしながら歩きつづけた。
 三ブロックほど歩いても私の膝から不満の声はあがらず、気がつくと、心地よい沈黙に包まれていた。私はふと思い出して言った。「ラズベリータルトがデザートに出たとき、きみは例のグループの話をするんじゃないかと思った」
「気づいてた? ほとんど口から出かかったんだけど、やっぱりやめておいた」
「どうして?」
「あのときちょうど会話の流れが変わったから」彼女はそのあと少し黙ってから続けた。「いえ、そうじゃないわね。その話を持ち出したら、そのせいで会話の流れが変わるんじゃないかと思ったからよ。でも、変えたくなかった」
 私は黙ってうなずいた。彼女は、いい夜ね、と言い、歩くことにしてよかったわと言い添えた。私は彼女に同意した。が、ふたりで次の通りを渡ったところで、私の膝が異を唱えはじめた。歳を取るとどうしてもこうなる。体のどこかが痛くなり、しばらくすると治まるものの、そのあとまたぶり返す。
 彼女は言った。「やっぱりこのことは黙っていようと思って」
「それも悪くない」
「わたし以外、誰の名前も明かさずに話すこともできたけど。わたしの若かりし頃の不品行はミックもクリスティンも知ってるわけだし。それでも、〈タルト(“タルト”には売春婦の意もある)〉のことは、なんて言うか——」
「別に深く考えることはないよ」と私は言った。「ただ、きみとしては話題にしたくなかった」
「膝が痛くなってきたんじゃないの? タクシーを捕まえましょう」
 私は首を振って言った。「そこまでひどくない。それにもうここまで来てる——」
「わたしは頑固な男と結婚した。つくづくそう思う」
「それは最初からわかってたことだと思うけど。それに“頑固”より“根気強い”のほうがいいことばだと思うがね。批判的でないぶん」
「“頑固”でも少しはひかえめなつもりなんだけど」と彼女は言った。「最初に頭に浮かんだことばは“偏屈爺”なんだから。でも、それだとあまりに批判的でしょ?」
「もうすぐ家だ」と私は言った。「どうってことなかっただろ?」
「批判的であれなんであれ、不正確とは言えないわ」
「批判的なきみは実にキュートだ」
「言われなくてもわかってる。家までもうすぐということは家に着いたらすぐに脚を高くして坐ることね。アイスパックを取ってくるから。わかった?」
「わかった」と私は言った。