立ち読みコーナー
目次
312ページ
はじめに

序章 「フルベッキ群像写真」の謎
 歴史的価値とニセの価値が同居する一枚の古写真
 維新の英傑と明治天皇の〝替え玉〟
 謎の〝マント姿の男〟
 消された記録と西郷写真

第一章 化け物と西郷の写真無し
 「リンカーン暗殺事件」と「西郷暗殺計画」
 「西南戦争」で人柱となった西郷
 歪められた西郷の実像
 西南戦争の戦後史
 「フルベッキ群像写真」と「一三人撮り」
 維新の総仕上げ─廃藩置県という一大イノベーション
 西郷写真の存在を示唆する数々の状況証拠
 英国人が見た「明治」という時代

第二章 ニセの「西郷写真」の系譜
 「永山西郷」と西郷の影武者を務めた男
 東北と西郷の知られざる接点
 「この肖像画が西郷さんの表情を最も忠実に表現している」
 写真が持つ絶大な力
 「西郷を殺せとは言わなかった」

第三章 「スイカ西郷」をめぐる謎
 内田九一が撮影した謎の写真
 「スイカ西郷」はいつ登場したのか
 西郷隆盛と小田原瑞苛
 「この写真には西郷が写っている」

第四章 「西郷の貌」が提示した歴史ミステリーのトリック
 一級のミステリー〝小説〟
 西郷像をめぐる謎とミステリー
 禁断の写真「一三人撮り」の意外な真実
 『宮之城史』という資料は存在しない……
 写真はなぜ〝消された〟のか

第五章 天皇のカメラマン・内田九一が残した暗号
 大阪造幣寮前で撮影された「謎の一枚」
 あの人物は、はたして西郷なのか……
 オフィシャル写真に紛れこんだ奇妙な一枚
 軍服から検証したあの人物の素性
 フルベッキ群像写真との奇妙なリンク

第六章 西郷の実像と素顔
 西郷の「先進性」と「国際性」のルーツ
 藩主・島津斉彬と西郷
 前途を悲観して入水
 島妻・愛加那との出会い
 歴史の波に飲みこまれた薩摩が生んだ二人の元勲
 賊軍の将という汚名
 西郷の偉業と曲解された実像

第七章 西郷と明治天皇、そして禁断の写真の真実
 明治天皇と西郷の特別な関係
 〝パパラッチ〟された明治天皇
 歴史的瞬間はなぜ写真に記録されなかったのか
 西郷と「マント姿の男」、そして、明治天皇の「ニセ写真」
 明治天皇が〝変貌〟した謎
 写真を見た法人類学の権威は言った―明らかに土台が違う
 パパラッチ写真をめぐる数々の謎
 政府はなぜ必死に写真を封印しようとしたのか
 法人類学が提示した歴史の闇

第八章 「法人類学」が下した鑑定と新たな謎
 古写真鑑定の新たな武器──法人類学
 残された二枚の写真─「フルベッキ群像写真」と「スイカ西郷」
 鑑定結果がもたらした新事実
 お前はいったい、何者なのか……  

終章 「フルベッキ群像写真」の迷宮
 明西郷写真のミステリー
 安重根と孝明天皇・暗殺
 謀略の根拠とされた歴史的写真
 写真がとらえた〝皇位継承のブラックボックス〟
 パパラッチ写真という爆弾
 「フルベッキ群像写真」に眠る多くの謎

あとがき

文庫版あとがき

主要参考文献

巻末資料 鑑定書

西郷隆盛・簡略年表
はじめに ─ 西郷像が刷りこんだイメージ
 
 昨年(二〇一三年)春、上野中央商店街商業協同組合が買い物や食事、文化施設 などの見学で上野を訪れる人たちに向けたアンケートを実施していた。
 設問は「上野のイメージ」についてだった。アンケートの結果は次の通りとなった。
 
 一位「アメ横」(アメヤ横丁)  
 二位「パンダ」(上野動物園)  
 三位「西郷さんの銅像」

  関係者は、西郷さんの銅像を知らないという回答が集計の十五パーセントを占めていたことに驚いたそうだ。
 一昔前、上野の待ち合わせ場所と言えば、西郷さんの銅像の前であり、恩賜公 園散策のスタートであった。
 かくいう私も地理に不案内な相手と上野で会うときは、「西郷像の前」を指定 したものである。相手も迷うことなく時間通りにやってきて、お互い再会の笑みを浮かべたものである。「上野の西郷さん」といえば、公園だけでなく上野のシ ンボル的な存在であったはずなのに、今日では「アメ横」の知名度に後塵を拝し、 さらに銅像すら知らない者がいるという現状である。西郷どんもさぞかし無念であろう。
 
 私は本書の取材のスタートを西郷像の前と決めていた。
 三年前の初冬で当日は快晴であったが、木枯らしが吹き、日中でも気温が十度を下回る日であった。
 台座を含めて高さ七・二メートル(像の実寸三・七メートル)もある西郷像は彫刻 家・高村光雲の作で(犬は後藤貞行の作)明治三十一年(一八九八年)十二月に除幕式が行なわれた。
 その除幕式で西郷夫人・糸子は次のように言ったという。『英傑たちの肖像写 真』(渡辺出版)から引用する。

    その除幕式が挙行されたのは 12 月8日のことだった。この時、西郷夫人の糸子が「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」と洩らしたことが伝わり、顔が似ていないとの誤解が生じた。(中略)
   しかしながら西郷糸子は顔が似ていないと呟いたのではなく、このような 浴衣姿では散歩はしなかったという意味で言ったものらしい
 
 光雲はもちろん西郷隆盛の〝顔〟は知らない。銅像製作のモデルに使われた素 材は「弟の従道の写真」と「西郷の肖像画(キヨッソーネ画)」と言われているが、 浴衣姿で犬を連れ、特徴のある〝大きな目〟が印象深いこの銅像は西郷さんのイ メージを定着させた。
 だが、一説では、当初の西郷像のモチーフは「軍服姿の騎馬像」であったという。しかし、このプランは、朝敵になった西郷が名誉を回復したとはいえ、陸軍 大将の官位で騎馬像を建立すると西郷人気を復活させてしまうという理由から沙汰止みになったそうだ。
 西南戦争が終結してから二十年余がたった時代とはいえ、庶民の西郷人気は絶 大であった。そして、当時の高位高官の政治家や軍人は全国ブランドの西郷人気の絶大さを知っていた。同時に彼らにとって西郷は〝脅威〟でもあった。
 一方、鹿児島市の市立美術館近くに建立されている西郷像は、陸軍大将の正装 を着用しており、高さ五・二五七メートル(実寸)の立像で、郷土の彫刻家・安藤 照が昭和十二年(一九三七年)に完成させたものである。
 モデルは西郷の孫・隆治と言われており、上野の西郷像が建立されてから 三十九年後の作品であった。すでに完成当時は「陸軍大将の正装」にクレー ムがつく時代ではなくなっていた。
 この西郷像の表情は、生前の西郷に もっとも近似した顔つきであるという。 〝浴衣姿の上野の西郷さん〟と〝鹿児島 の軍服姿の立像〟、どちらに人気があるのかといえば、庶民感覚の親しみを覚える上野の西郷さんに軍配が上がる。
 建立から昨年で一一五年が経過した上野の西郷像の表情は見る者に、実像とは異なる〝西郷イメージ〟を刷りこ んでしまった。
 
 はたして、西郷隆盛は、どんな顔だったのか。
 上野の西郷像は、いわばモンタージュ像で、本人と似ていなくとも納得できるが、鹿児島の西郷像の顔はどうな のか。写真を一枚も残さなかったと言われる西郷隆盛……だが、それは真実 なのか。私の西郷写真探索の旅はこの 疑問を出発点にして三年前に始まった。 スタートは上野の西郷さんの銅像前で あった。
 三年後の二〇一三年十二月七日。西郷隆盛生誕一八六年祭が銅像の前で行なわれた。参加者は二百人を超えるほどの盛況であった。参加者の数人に〝西郷写真〟の存在を質してみたが、全員、真影の存在は否定した。「西郷さんは写真を撮らなかった」という理由が多く、写真に関心のある人は、写真が存在するとはいっても、それらは「偽物、別人」と説 いた。また〝西郷さん〟のイメージを聞いてみると全員が「西南戦争に殉じた悲 劇の英雄」と答えた。
 
 写真を残さなかった悲劇の英雄(ヒーロー)・西郷隆盛。西郷が歴史の表舞台に登場した時代の日本はいかなる時代だったのか。簡単におさらいしておく。幕末、ロシア、 イギリス、フランス、アメリカなどの西欧列強諸国は日本に開国と貿易を迫って押し寄せてきた。その結果、各地で日本人とトラブルが発生し、外国公館襲撃事 件や薩摩藩との間で文久二年(一八六二年)に生麦事件が起こり、下関では長州藩 とオランダ、フランス、イギリス、アメリカの四か国が衝突(文久三年五月)。同 年七月には薩英戦争が起きている。その後、国内は幕府派と天皇派にわかれた諸 大名が権力争いを始めたが、慶応三年(一八六七年)十月、朝廷は薩摩、長州に対して討幕の密勅を下知。将軍徳川慶喜は大政奉還を決意。慶喜は朝廷に「辞官・納地」を約束した。
 官軍となった「薩長土肥」の薩摩、長州、土佐の三藩は幕府と親幕連合軍との間で鳥羽・伏見の戦い(慶応四年一月)を始めた。さらに官軍は奥羽越列藩同盟 (仙台、庄内、会津、長岡各藩)との間で東北戦争(戊辰戦争)を戦い勝利を収めて、 最後の戦いであった箱館戦争(慶応四年十二月)で幕府軍は壊滅して、ここに新たに〝薩長土肥〟を主体とした明治藩閥政府が誕生した。
 西郷隆盛が大活躍するのは、そんな激動の時代であった。しかし、「維新三傑」 の中で一人、真影を残さなかったとされる西郷。
 
 なぜ英雄は写真を残さなかったのか。残したにもかかわらず、写真は〝消された〟のか……ミステリアスで謎に満ちた「西郷隆盛写真」探索の旅に読者の皆様をご案内したいと思う。しばし、私のフィールドワークにおつきあい願いたい。