- 目次
- 608ページ
登場人物紹介
ピッパ・スミス カルト教団の元信者
マルコム・ウェスト 元潜入捜査官
イサク・レオン カルト教団の教祖
アンガス・フォース マルコムの上司。国土防衛省のエージェント
トリクシー ピッパとともにカルト教団から逃げた元信者
クラレンス・ウルフ 元少佐
その男が隣家に引っ越してきた日は暗雲が空を覆い、激しい嵐が迫っているのはまちがいないように思えた。ピッパはキッチンのシンクの上にある窓から外を見ていた。色鮮やかな水玉模様のカーテンになかば身を隠すようにして。いかにも幸せな人が使っていそうな、真っ白な地に黄色い水玉のカーテン。
男はふたつに仕切られたガレージを抜けて、たったひとりで箱を次々と運び入れていた。腕の筋肉がくっきりと盛り上がっている。
顔は彫りが深く、影になっている部分が多かった。笑みを浮かべてはいない。顔をしかめているわけではないが、厳しい皺が刻まれた顔だ。
危険なほどハンサムなこんな男には手を貸してくれる友達がいてしかるべきなのに。
しかし、友人の姿はなかった。男が箱を下ろすあいだ、ほこりまみれだがよく手入れされているように見える黒いトラックがドライブウェイにぽつんと停まっていた。
ピッパは何度か唾を呑みこんだ。怒らせていい相手でないことが直感でわかる。かつて他人の不興を買ったことのある人間とはいえ、今の自分はちがう。
しばらくは運びこまれる箱の数を数えてたのしもうとした。それからその重さを推測しようとし、最後にはただじっと男を眺めていた。年は三十代前半に見える。わたしよりほんの何歳か年上に。
ふさふさとした黒髪が襟足で跳ねていて、世話をしてくれる人間がそばにいないかのような無造作な印象を与えた。肩はこわばっていたが、身のこなしは流れるようだった。目の色はわからない。
それがわからないせいで、いまいましくも憶測をめぐらしてしまい、夜も眠れなくなりそうだった。
とはいえ、外へ出ていって荒れ狂う好奇心をなだめてやるなどあり得なかった。絶対に。
新たな隣人はゆうに百八十センチを超える長身で、広い肩をしていた。長い脚を穿き古してぼろぼろになったジーンズに包んでいる。頭のてっぺんから爪先まで、動いているときですら硬い人間がいるとしたら、それはこの男だろう。
左目の上に半月型の傷痕があり、何かの紋章のようなタトゥーが筋肉の盛り上がった左の上腕を飾っていた。ピッパは首を傾げ、手を伸ばしてカーテンをもう少し押し開けた。
男は足を止め、大きすぎる箱を楽々と抱えたまま振り向いた。警戒している動物のように見える。緑の目。訝るように細めた目。警戒心をあらわにした危険な目がまっすぐピッパに向けられた。
ピッパは息を呑んだ。心臓が大きく鼓動する。カウンターの下の床に身を倒したが、横向きに倒れたのでも、しゃがみこんだのでもない。よく磨かれたタイルの上にあおむけに寝そべったのだ。心臓がどくどくと音を立てた。ピッパはすねを抱え、顎を膝に載せた。
唇を噛んで息を止め、目を閉じる。
何も起こらなかった。
音も聞こえなければ、人が近づいてくる気配もない。ドアをノックする音も。喉が締めつけられ、息ができなくなりそうだった。
十分ほども身動きひとつせずにいてから、ピッパは首をもたげた。さらに五分経ってから足を放す。それから膝立ちになり、曲げた指をカウンターに伸ばした。
深呼吸してピッパは立ち上がり、カウンターの横から外をのぞき見た。
窓のところに立っている男と顔を突き合わせることになった。男の胸は窓枠全体をふさぐように見えた。
ピッパの心臓が爆発した。悲鳴をあげて振り返り、駆け出す。三歩でキッチンを出て居間を通る際に、引っ越してきた日から変わらぬ場所に置いてあるアンティークのテーブルにぶつかった。
足に痛みが走り、思わず倒れこんだ。パニックに駆られてうなるような声を発しながら這ってソファーのそばを通り、寝室へ向かう。磨きこまれた木の床に両手をつき、すすり泣きながら寝室にたどりつくと、ドアをばたんと閉めた。
また足を胸に引き寄せ、背中をドアにつけると、上に手を伸ばして鍵をかけた。音を立てないように気をつけながら体を前後に揺らす。
ドアベルが鳴った。
胸が締めつけられ、目のまえがかすんだ。肩から腰へと震えが下ってまたのぼった。今はだめ。今はだめ。ああ、今はだめ。何度か大きく息を吸うと、ドクター・ヴァレンタインに教えられたとおりにパニックが襲ってくるのを受け入れた。パニックに襲われるままになることで逆にそれをやわらげることもできるのだ。
今はちがったが。
最大級のパニック発作のせいで全身に汗が浮かんだ。腕は震え、足は感覚がなくなっている。呼吸もあえぐようになり、視界はかすんだ。心臓は大きく鼓動しはじめた。
今度こそはほんとうに心臓発作を起こすのかもしれない。
いいえ。これはパニック発作にすぎない。
それでも、心臓発作の可能性もある。検査で医者が何かを見逃したのだ。もしくは脳卒中かもしれない。
助けを呼ぶために電話のところへ行くこともできなかった。
心臓が痛む。じっさいに胸は痛んだ。ピッパは金色の華奢な鍵を見上げると、ドアから少しずつ離れ、四つん這いでベッドサイドのテーブルへと向かった。引き出しを開け、震える手を向精神薬(ザナツクス)へと伸ばす。
吸収を速めようと舌の下に錠剤を入れる。粉っぽい苦さにむせたが、溶けるまで身動きせずに待った。
居間からドアを強く叩く音が聞こえてきた。
だめ、だめよ。ドアをノックしている。ドアには鍵がかかっている? もちろん、かかっている。必ず鍵はかけるようにしていた。それでも、たとえどれほど頑丈な鍵だったとしても、ああいう男を遠ざけておくことができるだろうか?
絶対に無理。