立ち読みコーナー
目次
872ページ
登場人物紹介
アンジー・パロリーノ                ヴィクトリア市警の刑事
ジェームズ・マドックス               ヴィクトリア市警殺人課の刑事
ジニー・マドックス                 マドックスの娘
グレイシー・ドラモンド               最初の被害者
フェイス・ホッキング                第二の被害者
ジェイデン・ロイス・ノートン=ウェルズ       州司法副長官補の息子
ザック・ラディソン                 市長の側近
ジャック・キリオン                 新市長
ケル・ホルガーセン                 アンジーの同僚刑事
スペンサー・アダムズ                〈アマンダ・ローズ〉の乗組員
40ページ~
 男はアンジーの腕に手をかけたまま、彼女の全身に視線を這わせた。文字どおり“全身に”だ。胸、腰、すらりと伸びた両脚、黒のバイクブーツ。はた目から見ても、彼の心拍数がたちまち跳ねあがるのがわかった。男が空いているほうの手を掲げ、今夜は長くゆったりと垂らしているアンジーの髪に触れる。髪の手触りを確かめると、今度は彼女のうなじに触れ、首の片側を手のひらで包みこんで親指で顎の線をたどりはじめた。アンジーは目がかすみ、両脚が震えだした。男がゆっくりと頭の位置をさげ、口をアンジーの唇に近づける。「君は自分を安売りしている」彼はささやいた。「なぜだ?」
 アンジーは目をしばたたいた。「あなた……私を信じてないのね。私がただでベッドをともにしようとしてるから?」
「俺は誰も信じない」
「無駄遣いしたいなら、ステージで踊っている女性を相手にしたらいいわ」アンジーはその場から立ち去ろうとした。
 男はアンジーの腕にかけた指先に力をこめた。「いいだろう」耳元で低くささやく。「部屋に行こう」
 
モーテルの部屋は、駐車場で点滅している赤いネオンサインの光で満たされていた。薄いカーテンを通じて、鼓動のように打っている。実に毒々しい。ダン、ダン、ダン。クラブに鳴り響くベース音が薄い壁を通じて聞こえてくる。実際に部屋の床板が震動している。その震動がネオンサインの点滅と相まって、同じリズムを刻みだす。どこか遠くでサイレンの音が聞こえた。きっと救急車だろう。事故か、それとも火事か。市民のために治安維持に努めているのだ。
 男の上になった瞬間、弾みでヘッドボードが大きな音をたてた。壁から響いてくるベース音に興奮をかきたてられ、全身の血がたぎり、肌がちりちりする。アンジーは男の手首を頭の上にあげさせ、ヘッドボードにくくりつけた。ふたりの服は古ぼけたカーペットの上に脱ぎ捨てられ、ブーツも部屋のどこかに転がったままだ。アンジーは男の肌に爪を立てながら、全身で体の交わりを楽しんだ。あえぎ、汗をかき、胸を揺らしながら。ここ数カ月の出来事をすべて、脳裏から消し去りたかった。子どもを救えなかったこと。自分の限界も、自分の弱さも。この仕事をしていると、どうしても鬱憤がたまる。ここ何年も、腐りきった加害者たちをいやというほど目にしてきた。これ以上ひどい事件は起きないだろうと考えていても、すぐに次の事件が起こる。
 男の欲望の証(デイツク)は驚くほど大きかった(ビツグ)。アンジーはそれが気に入った。自分を余すところなく満たしてくれる。彼の胸はざらざらとした濃い毛で覆われ、肌は大理石のように白く、体は鍛えられていて無駄な贅肉がいっさいついていない。まさにミケランジェロの名作のダビデ像だ。そのときどこからともなく、くぐもったささやき声がまた聞こえた。“いったい彼は何者? どうしてこんな交わりを望んでいるの? なぜこんな場所にやってきたの? 彼になら身を投げだしてもいいという女性がいくらでもいるはずなのに。左手の薬指に指輪ははめていない。でもほんの少しだけ、うっすらと跡がついている。つい最近、離婚したのだろうか? それとも既婚者であることを隠している? どちらにせよ、この男に女性遍歴がないわけがない。それなりに関係を持ってきたはずだ。もしかして、異常な性癖があるのだろうか?”
 アンジーはささやき声を振り払い、腿を大きく開くと、体をさらに沈めて結びつきを深めた。より速く小刻みに動かし、自分を満たそうとする。自分を傷つけようとする。もうすぐだ。クライマックスはすぐそこだ。男もそれを感じたのだろう。さらに激しく動き、アンジーを突きあげた。何度も何度も。アンジーは体を引こうとした。快感を高めてやったと彼を満足させるのは癪(しやく)に障る。けれども、すぐに全身をこれ以上ないほどこわばらせた。赤いネオンサインが点滅し、ベース音が響く中、大きく息をのみ、その瞬間を引き延ばそうとする。突然クライマックスが訪れて、たちまち視界がかすみはじめた。喉から絞りだすようにうめき声をあげながら、体をわななかせ、熱くとろけそうな快感の波に身を任せる。男の体の上にくずおれたとき、胸に彼の胸毛のざらつきを感じた。アンジーの中の、男の欲望の証はまだこわばったままだ。
 床に落ちている彼女のコートから音がした。携帯電話だ。聞き覚えがある。新たなパートナーであるホルガーセンのために設定した着信音だ。まったく。
 アンジーは目の前の男に意識を集中させようとした。今日は呼び出しには応じない。特に今夜は。母の入院に関するもろもろの手続きが必要な父を手伝うために、週末は休みを取っているのだから。
 電話がまた鳴りだした。彼女はしかたなく手を伸ばし、床のコートを手探りした。
「放っておくんだ」男がかすれ声で命じた。なめらかなのにかすれたセクシーな声だ。それに驚くほど堂々としている。「ほどいてくれ。今度は俺の番だ」
 アンジーは一瞬、目を閉じた。携帯電話が留守番電話に切り替わる。
「ほどくんだ」
 アンジーは男の顔を見あげた。彼の瞳にはどこか危険な色が宿っている。そのとき、またしても電話が鳴りだした。よほどの緊急事態に違いない。そうでなければ、パートナーになったばかりのホルガーセンが、休みの自分に電話をかけてくるわけがない。アンジーは男から体を離すと、コートを持ちあげ、携帯電話を取りだした。顔にほつれかかる湿った髪を振り払いながら電話をかける。
「もしもし」名前は名乗らないようにした。ミスター・ビッグ・ディックに名前を教えるつもりはない。そうでなくても、普段から電話に出てもこちらからは名乗らないようにしている。
「パーティはおしまいだ、パロリーノ」ホルガーセンの奇妙な訛りのある声が聞こえた。「聖ユダ病院に身元不明の少女が運ばれてきた。まだ十代半ばから後半くらいの年だ。性的暴行を受けていて、救急隊員によるとロス・ベイ墓地で発見されたそうだ。危篤状態で、反応はない」