立ち読みコーナー
目次
536ページ
登場人物紹介
ケイラ・ロイ                    ウエイトレス
マサイアス・クラーク                フィクサー。レイの同僚
リーヴァイ・レン・アプトン             マサイアスの同僚。フィクサー
エメリー・フィン                  レンの恋人
メアリー・パタースン                マサイアスの実母
ギャレット・マグラス                レンの部下
ローレン                      ケイラの友人。プレジャー・ボート会社経営者
ポール                       ローレンの部下
エリオット・ガードナー               ローレンの顧客
ダグ・ウェストン                  ケイラの大学時代の恋人
40ページ~
 見つかった。
 私立探偵かなんらかの法の執行機関の人間にちがいない。そういうタイプはすぐわかる。スーツ姿と物腰。あたりを絶えず見まわし、ウエイトレスがテーブルのそばを通るたびに会話の声を落とすところからも。
 ふたりともこれまで見たことのない男だったが、ケイラは大人になってからずっと、こんな男たちに追われたり、尋問されたりして過ごしてきた気がしていた。思いすごしかもしれないが、ここに来る客は地元の人間かヨットに乗る連中だ。安いコーヒーとホームメイドのパイのために午後の仕事を中断してこんな辺鄙なところまでやってきたビジネスマンかもしれないが、それは疑わしかった。
 脳が活動しはじめる。そうした判断はこれまでも何度もしてきた——留まるのと逃げるのと、どちらがいいか。新たにあれこれ調べられたあげくに結局は脅され、またひととおり尋問されながら、憎しみに満ちた目でじろじろ見られることに耐えられるだろうか? 最初のころはそうしたくり返しに耐え抜いた。最近は逃げることにしている。
 まずはここからひそかに逃げ出さなくては。
 顔に作り笑いを貼りつけ、ケイラは常連客のカップにお代わりを注ぎ、それからカウンターのなかにはいった。鼓動が激しくなるあまり、男たちに聞こえないのが不思議なぐらいだった。しかし、自分には聞こえた。神経の末端という末端がぴりぴりしている。
 手が震え、マフィンを載せたトレイの横に置いたポットがかたかたと音を立てた。ひとりの男が振り向いたときには、ケイラはキッチンに姿を消していた。コックが目を上げ、いつものように、よくもここにはいってきたなという目をくれた。キッチンに留まるつもりはなかったので、別にかまわなかった。七年も同じことをしてきたのだ。あと一度ぐらいどうということはない。
 せっかく伸ばした生活の根をまた引き抜くのだと考えると胸に痛みが走った。痛む胸に手の付け根を押しあてる。従業員用のトイレと裏の小さなオフィスへとつながる廊下に足を踏み出す。そこから裏の路地まではほんの数歩で、それで自由になれる。
 自分の人生の何についても自由だと思ったことはなかったが、ここではようやくつかのまの心の平和を得られたのだった。貸ボート屋の二階にある小さなワンルームの部屋へと移り住み、新たな名前を使い、新たな生活におちついた。近くのセント・ジョンズ大学で講義を受けはじめてもいた。
 それなのに、すべてが終わりを迎えてしまった。またよそへ移らなければならない。
 ケイラはロッカーのダイヤルをまわした。最初の番号を大きく越えてしまい、一からやり直さなければならなかった。彼女は手を振り、指を曲げ伸ばしして気をおちつけようとした。ロッカーに身を寄せ、ひんやりとした金属に額をつけてあの客の表情が一変した瞬間の情景を心に浮かべまいとした。
 その変化は明らかだった。見逃すのがむずかしいほどに。店のドアにつけたベルが鳴り、あの男がはいってきたときから、ちらちらと様子をうかがっていたのだから。ドア枠に頭がつくのではと思うほどで、おそらくは百九十センチを超える身長だった。
 身のこなしは力強く、自信に満ちていた。黒っぽいスーツは広い肩と引きしまったウエストを隠す役には立っていなかった。ネクタイを締めず、真っ白なシャツのまえのボタンをいくつかはずしていることも男についての何かを物語っていた。それがなんであるかははっきりしなかったが、ことばを発したときの太い声が彼女の全身に響く気がした。ことばはほんの数言しか発せられなかったのだが。
 その存在には惹かれずにいられなかった。思わず二度……三度と目を向けるほどに。黒っぽい髪と茶色の目。顎のまわりにはかすかに伸びかけたひげの影があった。女の悦ばせ方を知っているタイプのハンサムな男だった。きれいな顔ではなく、朝、女よりも長くバスルームで時間を費やすタイプでもない。シャンプーやシャツのブランドを気にしない男。
 たくましい手、長い指。そうしたすべてとともに、高価な服はそれに包まれる体にはしっくりこないという生々しい感覚も抱かせた。何か熱く、おそらくは少しばかりみだらなものがそこにはあった。
 男とその友人は言い争いをはじめた。ファイルを奪い合い、言い争う声をひそめた。背の低いほうが一度ならず彼女に妙な目を向けてきた。
 そんなことがあって、店の空気をぴりぴりさせていたエネルギーがどくどくと脈打つ緊張へと変わったのだった。心のなかの不安がまわりのすべての色を変えているのはわかっていたが、妙な暗さが垂れこめ、息がつまりそうだった。背の高いほうが最後にちらりと目を向けてきたときに、心がその空白を埋め、パニックが全身に走った。
 過去の経験から、注意と警戒を怠らないことは学んでいた。兆候を察することができるようになり、男から関心を向けられて質問されそうになると、そうとわかった。惹かれる様子が不信へと変わり、遊びを求める目が凝視へと変化する。
 スーツを着た背の高い男はそうではなかった。冷静で、心ここにあらずといった様子だった。目はずっとこちらに向けていた。一瞬目を細めただけで、すぐにもとに戻し、態度を変化させることはなかった。それでも、体が震えるほどの変化が感じられた。体のずっと奥で、男がコーヒーのためではなく、自分を追ってきたのだとわかった。過去の経験から言えば、それはひとつのことを意味していた。あの男は知っている。なぜか知っているのだ。
 また脅しがはじまったのだ。つけねらわれているというちくちくするような感覚が刻一刻とふくらんでくる。自制心が失われていき、逃げ出さなければという思いが急に高まって心に押し寄せてくる。男と対決することもできたが、その戦いには勝てないだろう。男のほうが体が大きい。何を訊きに来たにせよ、男は答えを得ないまま帰ることになる。どちらの側に穴があるとしても、わたしにはそれを埋めることはできないのだから。
 つまり、逃げるということ。メモがドアの下から差し入れられるようになるまえに。
 ケイラはまたダイヤルをまわした。今度はほぼ正しい数字に合わせることができ、ロックが外れた。ロッカーを開けたところで、コックが自分を呼ぶ声が聞こえた。ケイラはそれを無視した。カフェから聞こえてくる金属と金属がこすれるような音や、くぐもって聞こえる客たちの声もすべて。
 ロッカーの下の部分にたくしこまれている小さな黒いバッグに目を向ける。逃亡用の予備のバッグ。最小限の身のまわりの品がはいっていて、それがこれからの持ち物のすべてとなる。二度ほど引っ張ってバッグをとり出すと、ひもを肩にかけた。