立ち読みコーナー
目次
552ページ
登場人物紹介
アラナ                   貴族の娘
クリストフ・ベッカー            伯爵。ルビニアの近衛兵隊長
ポピー                   アラナの育ての親。別名マシュー・ファーマー。本名レオナルド・カストナー
ヘンリー・マシューズ            孤児
フレデリック・スティンダル         ルビニア国王
ニコラ・スティンダル            フレデリックの後妻
ナディア・ブラウン             クリストフの幼なじみ
オーベルタ・ブルスラン           ルビニアの先々代女王
カーステン・ブルスラン           オーベルタの孫息子
ヘルガ・エンゲル              アラナの乳母
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 なんてこと! 慎重になりすぎたせいで長い時間をむだにしてしまったの? とはいえ、ほかにやりようはなかったはず。謁見を望む理由は、高官にしか話してはいけないとポピーから注意されていたし。この隊長がもっと早く姿を現わして、貴族であると明かしたらことがすんなり運ぶかもしれない、と教えてくれたらよかったのに。
「国王陛下に謁見したいとしかお話ししませんでした」アラナはきまりが悪くなった。「用件をだれかれなく話すつもりはありません」
「そういうことか。謎が解けたよ」
「謎ってどういう意味ですか? わたしがずっと待たされていた理由がほかにもあるのですか?」
「用件をはっきり言わない場合は、謁見はまずかなわない」
「でも、フレデリック陛下はだれにでも会ってくださると聞きましたけれど」
「きみは国民のひとりではない」
「わたしはただの国民以上の存在です」
「ほう?」
 助けを求めるのなら、近衛兵の隊長で貴族でもある彼なら理想的かもしれない。彼を信用したかった。強く惹かれる気持ちで判断を誤っているのではありませんように。彼が高官であることがアラナに心を決めさせた。
 わずかに彼に身を寄せて、声を落として言ってみた。「ふたりだけで話せる場所はありませんか?」
 彼の態度が唐突に変化した。驚いたかのようにブロンドの眉が吊り上がり、青い瞳は温かく見つめてきた。険しかった口もとがやわらいで笑みを浮かべると、アラナはまた腹部に奇妙な感覚をおぼえたが、今回のほうがその感覚は強かった。彼はほんとうにハンサムだ。それに、こちらと同じくらい、彼もわたしに惹かれている? それとも、緊張を解いてゆったりした気分になっているだけ? ロンドンであれほど保護されてこず、こういうことにもっと詳しければよかったのに。
「一緒に来てくれ」
 アラナは手をつかまれて驚いた。まったく気に入らなかった。イギリス人男性が初対面のレディに対して取る行動とはちがっていた。でも、ここはイギリスじゃないのよ。ルビニアでは、男性がこんな風に女性を扱うのをなんとも思わないのかもしれない。男性が野蛮人のようにふるまって、女性を引きずりまわすのがふつうなのかもしれない。そう思ったら、うめき声が出た。でも、たしかに引きずられている感じがした。歩幅の大きな彼についていくために急ぎ足にならざるをえないだけともいえるけれど。
 彼はアラナを控えの間から連れ出して宮殿のさらに奥へと進み、脇のドアから広い中庭へと出た。宮殿と古い要塞の壁にはさまれた形の中庭は、話ができるような場所ではなかった。衛兵やきらびやかな衣服をまとった廷臣たちがいたし、小さな屋台で衛兵に肉入りパイを売っている商人もいた。
 太陽はすでに西の山々の向こうに沈んでいたけれど、明るさはまだ残っていた。アラナは歩みを遅くしようとしたがだめだった。隊長はどこへ行こうとしているのだろう? 
 要塞の壁にくっついて建てられた豪奢な町屋敷風の建物の前で彼が足を止めたので、その機会にアラナは握られた手を力をこめて引き抜いた。彼はちらりとアラナを見てくつくつと笑い出したが、唐突に笑いを引っこめた。怒った女性がその建物から出てきて、拳で彼の胸を叩き出したのだ。
 アラナはさっとよけたが、隊長はよけようともしなかった。美しく装ったブロンドの若い女性はかなり激しく叩いていたが、彼はそれを感じてもいないようだった。
「よくもわたしを追い出させたわね!」女性が叫んだ。
 彼は女性の手首を両手でつかみ、中庭へと突き放した。あまり紳士らしくないふるまいだったけれど、攻撃してきたのは女性のほうだし、いまや彼のいらだちは明らかになっていた。
 それでも、若い女性に向かって発せられた彼の声は完全に落ち着いていた。「どうしてまだここにいるんだ、ナディア?」
「あなたの部下たちから隠れていたのよ」勝ち誇った口調だった。
「おかげで彼らを罰しなければならなくなった」彼は通りがかったふたりの衛兵を手招きした。
 ナディアは急いで近づいてくる衛兵をちらりとふり返り、それからおびえたようにベッカー伯爵にどなった。「話はまだ終わっていないわ!」
「退きどきがわからないのは愚か者だけだ。きみはどれほどの愚か者なのかな?」ブロンド女性はたじろいだが、彼はかまわず続けた。「そろそろ目を開けて、私の軽蔑心から過去がもはや守ってはくれなくなったと理解したらどうだ?」それから、やってきた部下たちに命じた。「ミス・ブラウンを門までお連れしろ。この先彼女を宮殿に入れるのを禁じる」
「あなたにそんなことはできないはずよ、クリストフ!」
「たったいまそうしたところだが」
 不安をおぼえたアラナは——彼が傲慢な態度で追い払おうとした女性はかなりの美人なのだ——こう言った。「彼女はあなたのお友だちだった人なの?」
 ベッカー伯爵は不快感をふり払ってからアラナを長々と見つめた。その彼が笑みになると、アラナはぼうっとなって息ができなくなった。
「きみが言うような意味ではない」
 彼はアラナの腕をつかんで建物のなかへ連れこみ、ドアを閉めた。その手はブロンド女性を相手にしていたときよりも、先ほどアラナを引っ張ったときよりも、やさしかった。
 アラナは周囲を見まわした。大きな部屋には黒っぽい色合いの豪華なふたつのソファ、そのそれぞれの前に置かれた低いテーブル、椅子が一脚、書棚がいくつか、すばらしいハープシコード、それに四人掛けの食卓があった。さまざまな用途で使われている部屋のようだったけれど、これが一階部分のすべてではなさそうだった。そのあと、アラナはなにも考えられなくなった。
 つかまれたままだったのに気づいていなかった腕を引っ張られて、彼のほうを向かされた。彼のもう一方の手がうなじにまわって引き寄せられ、顔が近づいてきて唇が重ねられた。
 これまで経験してきたどんな訓練もかなわないほど、はじめてのキスに圧倒された。