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目次
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 はじめに

序章 謎だらけの「死刑」の真実に迫る
 いま、なぜ、死刑が注目されるのか
   オウム裁判での「死刑」と「 無期懲役」の違いとは
   「無期懲役」から「死刑」に変わった「光市母子殺害事件」
   死刑判決を下されるのはどんな犯罪?
   日本では年間に何人が死刑になっているのか?
 秘密主義の日本とオープンなアメリカとの落差
   世界でいまもなお死刑をつづけている国は?
   米国の女性死刑囚が世界じゅうから注目されたのは、なぜ?
   被害者の家族らが見守るなかで処刑された死刑囚の最後の言葉
   日本の死刑が秘密のヴェールに隠されているのは、なぜ?
 処刑法も時代とともに大きく変化
   被害者遺族にも裁判官にも知らされない日本の死刑の不思議
   日本の死刑制度と処刑法はどう変わってきたか?
   残酷で異常な処刑方法に歯止めがかけられた理由は?
   万一、死刑判決に誤りがあったら
   「六〇〇人を殺した」と自白した男の死刑が、なぜ寸前で中止?
   死刑囚の無実が認められて生還できる可能性は?

第1章 見せしめの残酷刑から人道的処刑へ
 死刑の歴史は「おぞましい残酷刑」の歴史
   耐えがたい苦痛と恐怖を与えた「串刺しの刑」
   「皮剥ぎの刑」「腸巻き取りの刑」「鋸びきの刑」
   古代から二〇世紀までつづけられた「磔の刑」
   女性専用の刑としても用いられた「生き埋めの刑」
   主に宗教裁判の結果に使われた「火あぶりの刑」
   公開の場での「投石刑」「斬首刑」「銃殺刑」
 絞首刑以外の現行の処刑法は?
   死刑存置国の多くの国でいまだに「銃殺刑」
   性犯罪の囚人に「鞭打ち刑」
   イランでは二年間に六〇〇人以上の女性が「石打ちの刑」に
   一部のイスラム諸国ではいまなお「斬首刑」
 「死刑大国」アメリカが導入した「人道的」処刑法
   無痛・即死を求めて開発された「電気椅子」
   電気椅子による処刑第一号になった男
   電気椅子処刑から生き返った男の証言
   マニュアルどおりにはいかない電気椅子処刑のトラブル
   ネバダ州で執行された「ガス室」処刑の現場報告
   ガスによる処刑は本当に人道的でソフトか
   「眠るように死ぬことができる」といわれる注射刑
   それでも米国以外で「注射刑」が採用されない理由は?
   死刑制度を廃止する国が増えたのは、なぜ?

第2章 日本の「死刑」も時代とともに変貌
 文明開化につれて斬首刑から絞首刑へ
   明治に入ってもつづけられた「首斬り浅右衛門」の秘技
   明治十二年に斬首された「毒婦」高橋お伝の最期
   新方式の絞首刑から生き返った男が起こした波紋
   なぜ、絞首刑の死刑囚が生き返ってしまったのか?
   大正時代の看守が見た「絞架式絞罪器」による死刑囚の最期
 死刑に該当する罪種もこんなに変わった
   かつての一〇三罪種から一六罪種に大幅減
   尊属殺人罪に疑問を投げかけた「鬼畜の父親殺人事件」
   親子相姦を迫られる娘の父親へのやむなき殺意
   「尊属殺人罪は憲法違反」裁判の結果は??
 死刑確定囚が刑を執行される期日の謎
   法律上は、判決確定から六カ月以内の執行となっているが……
   米軍占領下の福岡で起きた闇ブローカー殺人事件
   誤判・冤罪を叫びつづけるふたりの死刑囚
   戦後の時代を映し出す、世にも不可解な裁判
   参議院議員を唖然とさせた死刑強行の謎
   歴代法務大臣はなぜ「帝銀事件」平沢死刑囚の執行命令を出さなかったのか?

第3章 「最期の日」までの死刑囚の日々
 厚い壁に閉ざされた死刑囚の獄中生活
   「連続企業爆破事件」益永死刑囚への拘置所からの申し渡し
   死刑囚は、どこの、どんな部屋に収容されているのか?
   独居房で暮らす死刑囚の一日は?
   死刑囚と外部との接触が生んだ、死刑台からの奇跡的な生還
   ある時期から死刑囚の処遇が大幅に制限されたのは、なぜ?
   死刑囚と外部との交信を極端に制限する真の理由は?
   再審請求中の死刑囚と養女との交通も断つ拘置所長
   国際的な人権監視団体が日本の監獄行政に勧告
 死刑か無期かに揺れる被告たち
   酷似した二つの誘拐殺人事件で一方は死刑、一方は無期
   最高裁が示した死刑判決の基準とは?
   どんな犯罪行為が死刑判決を促すのか?
   死刑と無期を分ける被告人側の事情とは?
   生死を分ける重要なポイントは「 計画性の有無」
   死刑→無期→死刑と大逆転した「 永山則夫事件」
 死を待ちつづける死刑囚たちの心の内側
   死刑判決前後の?? 吉展ちゃん事件」小原保被告の手紙
   「無期」判決に執念を燃やす男の判決前後
   死刑囚はなぜ、朝九時からの一時間を恐れるのか?
   死刑を執行された死刑囚の手記
   死刑囚の短歌や俳句に秘められた「つかのまの生の現実」
   死刑執行の宣告を受けたときの心の内は?
 生々しく記録されていた死刑執行現場の実態
   刑場は、どこに、どのようにつくられているのか?
   法律が定める死刑執行の具体的な手順とは?
   裁判で刑場の現場検証を実現させた死刑囚の最期
   「吉展ちゃん事件」小原保死刑囚の刑場での意外な遺言
   大阪拘置所長が秘かに録音した、告知から死刑までの五三時間
   死刑執行の前日、姉との最後の別れの詳細な録音
   秘密録音に残された死刑執行当日の重苦しい現場
   死刑執行を命じられた刑務官たちの懊悩

第4章 死刑制度の危険な落とし穴
 捏造された証拠ゆえに死刑判決を受けた男
   一家四人惨殺放火事件の容疑で逮捕された青年
   なぜ、やってもいない殺人? 放火を自供してしまったのか?
   裁判では無罪を主張したものの最高裁でも死刑の判決
   死刑囚を死の淵から救った驚くべき新証拠とは?
 無実の男に死刑判決を下した「自白調書」の恐怖
   死刑執行後に真犯人が自白した警官刺殺事件
   死刑囚の短歌に残された連日連夜の苛酷な取調べ
   一家六人皆殺し「仁保事件」の取調べ現場の録音テープ
   厳しく追及する二人の刑事と息苦しげな容疑者
   食事も睡眠も供述の内容しだい
   取調べ官との共同製作でつくられていく自白調書
   裁判所は自白調書を信用して死刑の判決
 死なずにすんだかもしれない死刑囚の謎
   冤罪の可能性が高かった「飯塚事件」
   久間を犯人と断定した八個の情況証拠とは
   目撃証言に信憑性はあったのか
   血液・DNA鑑定は正しかったのか
   確定から二年で執行された刑
   死刑制度はいつまでつづくのか
   
   参考文献
はじめに

 二〇一八年七月六日の早朝、折りから降りしきる雨のなか、スーツ姿の身なりの整った男たちが、東京拘置所の通用門をそそくさと通り抜けていった。東京地検の総務課長らで、これから執行される死刑に立ち会うためである。
 この日処刑されたのは、一九九五年三月に起きた地下鉄サリン事件など一三の事件で殺人罪などの罪に問われ、死刑が確定したオウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫(六十三歳)と教団元幹部の二人。それと同時に大阪、広島、福岡の拘置所でも四人、続いて二十六日には、東京、名古屋、仙台の拘置施設で元幹部六人の処刑が行なわれた。
 この各地に分散しての大量同時執行というのは、死刑執行の歴史の上でも異例、特段の処置だった。戦後最大の規模でほかにはなく、この二〇年の間でも、四人が最多であった。
 同じ教団組織の一連の犯罪というケースでもあり、また執行する刑務官の負担に配慮すれば想定されないことでもなかったが、執行命令者の上川陽子法務大臣はなぜこの運び、このタイミングを選んだのだろうか。
 地下鉄サリン事件(死者一三人)、松本サリン事件(同八人)、坂本弁護士一家殺害事件(同三人)などオウム事件で死者は併せて二九人、負傷者は六五〇〇人を超す。
 そもそも執行をいうより前に、膨大な被害者を出した一連のオウム事件で、異例という点では、サリン事件ひとつとっても事件そのものが日本では前代未聞のテロ事件であり、犯行の場所も狙いもサリンという凶器も治安当局がすぐさま対処できないような異例な代物だった。
 おかげで、地下鉄サリン事件の前にひき起こした松本サリン事件では、サリンが噴霧された現場のすぐ前に住んでいて、被害にあった河野義行(六十八歳)を容疑者として誤認逮捕したり、地下鉄の煙りの正体をサリンだと同定するのに六日間もかかるという始末だった。
 麻原は公安と警察の動きを察知していた。近く教団に警視庁の強制捜査が入るという情報をキャッチすると、麻原は、日本政府の官庁や警視庁がある霞が関の地下鉄をサリンで狙うという計画、出勤する官僚や警察官を襲って混乱を引き起こし、捜査の攪かく乱らんを図ろうという井上嘉浩(七月六日に死刑執行。四十八歳)ら側近幹部たちの提案に同意する。
 共同謀議が行なわれたのは、今から二三年前、一九九五年三月十八日の未明、山梨県上九一色村の教団第6サティアンにあった、麻原の右腕・村井秀夫(麻原に総指揮者に命じられ、事件後、暴力団員関係者に刺殺された)の部屋でである。
 地下鉄の三つの線に乗りこみ、サリンをまく実行役として林泰男、広瀬健一、横山真人、豊田亨の四人(いずれも七月二十六日に死刑執行)が選ばれ、さらに麻原の意向で林郁夫(無期懲役で確定)も加えられた。
 
 五人に用意されたのは、サリン入りのビニール袋一一個と先をとがらせたビニール傘五本。村井からひとり二個ずつ袋を受け取り、希望して林泰男だけが三個受けもった。ビニールは二重になっているので、傘で突き刺してサリンを撒布する前に外側をはずし、ほかの乗客に怪しまれないように、新聞紙で包んでおくことなどを打ち合わせた。
 霞が関の官庁の登庁時間は午前九時三十分だが、警視庁は八時三十分、ならばひとりでも多くの警察関係者を狙うために、「バラバラに実行じゃまずい。八時にいっせいに実行して、次の駅で降りろ」という井上嘉浩の指示で、決行時間は八時と決まった。

 オウムの一連の事件では、結局一九二人の信者たちが逮捕・起訴された。そのうちの二人だけが無罪となり、それ以外の一九〇人は有罪、一三人が死刑、六人が無期懲役となった。ちなみに、一七年もの間逃走しつづけ、ようやくつかまった菊地直子が、無罪となった二人のうちのひとりだ。
 その数多いオウムの裁判のなかで、地下鉄サリン事件の経緯を法廷で初めて詳しく証言したのは、実行役のひとり、林郁夫だった。
 井上嘉浩被告の第四回公判に証人として出廷した林は、かつての高名な心臓外科医としての相貌も威厳もなく、たびたびハンカチであふれる涙をふきながら必死に証言した。
 オウム裁判をながらく漏れなく記録した朝日新聞の降幡賢一元編集委員によると、「麻原のまやかしを明らかにする」と自分の裁判でそう発言してきた(林の)覚悟の証言に涙が伴ったのは、「教団の犯罪」に軽々と利用されてきた自分への悔悟の気持ちからなのだろうか、というふうに見えたという。
 地下鉄千代田線への乗りこみ、いよいよ決行というときが近づいて、林は駅のトイレの大便所に入って準備をした。人相を隠すためにマスクをし、サリン汚染の用心のために手袋をはめた。
 聖教新聞とショルダーバッグでビニール袋をはさんで小脇に抱え、トイレを出た、と林は証言する。

「千代田線のプラットホームへ行った。そこから何分かかるか、ということと、八時の実行時間にちょうどいい電車を時刻表を見て調べた。新御茶ノ水まで十三分かかることが分かった。発車時刻七時四十八分の電車に乗ることにした。
 時刻表を見終わって前の方に行くと、イスがあって、その上に電光掲示板があった。七時三十九分だった。イスに腰かけていろいろと考えた」
――(検察官)どんなことを考えたか。
「まあ、いろんなことがあって、見ていると、いろんな人が集まってきましたから、内心いろんな葛藤がありました。女の人とか子どもを見たときです」
――どういう気持ちです。
「それはやっぱり……いやですね」(水を飲む)
――いやだが、最終的にサリンをまいたのは、やらなくちゃいけない、という気持ちですか。
「そうですね。まあ、麻原が言っていたのは、今が戦いである、と。戦いだからしょうがないと思ったが、男の人には戦いだが、女子どもまでは、と。麻原が指示したこと、いろんな人のカルマ〔業〕を見て、ポアする〔死ぬことで魂が高い位置に到達できる、と麻原が殺害の指示に使っていた言葉〕、高い世界に行くんだろう、と。今から見るとバカみたいなことに、それにすがっていました。
 七時四十八分発の電車は予想に反して始発電車ではなかった。地下鉄が着いたとき、込んでいて座れなかった。(込み具合は、と聞かれてハンカチを出して泣き出す)自分では選べ
ないけれど……」
――車内でどんなことを考えていましたか。
「調書に載っているようなことです。私がやらなければならなくなったのはどういうわけだとか、どこでサリン袋を取り出して降りるかとか、周りにいる人とか、いろんなことを考えました」
――周りの人のことを詳しく。
「気になったのは、右斜め前にいた女性のこと。その人は確実に死ぬだろう。途中で降りてくれたらいい、と」
――ビニール袋を床に置くにはどうしたか。
「もともと左わきに抱えていたので、かがんでは置けない。足の間に落とせば自分の前に落ちるだろうと、落とした。新御茶ノ水駅に入って減速したころ、足の間を滑らせて落とした。あまり足を広げられないので、足の間を滑り、つま先あたりに落ちた。聖教新聞はそのまま左手に持っていた。
 袋は広い面が上に向く形で床に転がった。駅に止まったので、サリンの袋を右手の傘で突いた。はじめの一回は手応えを覚えている。二、三回突いたと思うが、記憶がない。手応えは突き破ったというより、ちょっと弾力があって、ブチッというような。
 降りる人波に従ってプラットホームに降りた。ただちに大きな騒動が起こると思ったが、実際には起きなかった。乗っていく人もたくさんいるようだった。少なくとも乗り換えまではっきり見たと思うが、電車を止めるような騒ぎにはならなかった。実際に自分が刺したのかな、と思った」
――突き破ったかどうか、分からなかったのか。
「人波から横にはずれるような形で傘の先を見た。滴がついていた。やっぱりやったんだな、と思った」(『オウム法廷〈2上〉 』降幡賢一)

 改札口を出て地上にあがると、運転手役の新実智光(七月二十六日に死刑執行。五十四歳)が待っていた。その車に乗りこんでまっすぐ渋谷のアジトに行った。
 ほかの地下鉄線でほぼ同時刻に同じ行動をとったほかの四人も、それぞれの運転手役とともにこのアジトに戻ってきた。
 彼らの耳にはまだ届いていなかったが、傘の先でビニール袋を突いた結果は、六〇〇〇人以上の人が負傷し、ビニール袋を片づけていた霞が関駅の助役ら二十一歳から九十二歳の一三人が死亡するという未曽有の大惨事となっていた。
 二日後、警視庁などは教団施設の一斉捜索に乗り出した。
 捜査は当初難航したが、さきに別件で逮捕された林郁夫が関与を認めたために、二カ月後、上九一色村の施設の隠れ場所に潜伏していた麻原教祖が逮捕された。
 その後、麻原の公判だけでも二五七回の法廷が開かれ、出廷した証人の数は延べ五二二人、審理を重ねた末、麻原はじめ教団の幹部一三人に死刑の判決が下った。
「死刑は当然だ。それだけ残虐なことをしたのだから身をもって罪ほろぼしをすべきだ」
「死刑と決まったやつを、なぜ我々の税金を使って永らえさせておく必要があるのだ」
 という声もあれば、一方、
「厳しい処罰、死刑制度に犯罪の抑止力はない、という調査結果がある。かつての仇討ちと同じような、ただの復讐でいいのか」
「はたして法の下に人命をたっていいのか」
 という反対の声もあがり、長い間論議を呼んできた。
 オウム最古参の幹部・岡﨑一明(七月二十六日に死刑執行。五十七歳)に、最初の死刑判決が下った一九九八年十月以来ちょうど二〇年、この間、死刑の執行はなかった。逃走している最後の容疑者がつかまり、その裁判が終結するまでは、すでに確定している死刑囚の執行はできない。容疑者の法廷に証人として出廷する可能性もあるからだ。
 しかし、ついに二〇一八年一月、最高裁が最後の被告・高橋克也(無期懲役)の上告を棄却、一連のオウム刑事裁判がすべて終結して、今度のオウム幹部一三人の執行につなが
った。
 上川法相は、一三人の執行を終えた二十六日当日の記者会見で、
「国民世論の多数が凶悪犯罪については死刑もやむをえないと考えている。廃止は現状では適当ではない」
 と述べている。

 日本では厳罰化の流れもあって、二〇〇〇年以降は一審での死刑判決が九〇年代の水準より増えている。
 アムネスティ・インターナショナルによれば、世界では三分の二以上の国々が法律上または事実上、死刑を廃止していて、ここ十数年、さらに増加する傾向にあるという。
 そうしたなかで、私たち日本人は「人の命を奪う」死刑に直接、向き合わなければならない。
 裁判員制度により、市民の誰しもが死刑を含めた量刑の判断に参加する立場にある。
 死刑の判断は、いったい何を基準にしているのだろうか。量刑の基準も時代とともに変わっているのではないか。裁判官しだいで変わってしまうのか。
 しかし、死刑というものは国が人間の命を奪う究極の刑罰である。そんな相対的なものであっていいはずはない。そもそも、わが国で死刑制度を存続させているのはどんな論理によってなのか。
 死刑制度の実際については、なかなか一般に論議もされないし、口の端はにものぼらない。そうした犯罪は自分たちに何の関係もないと、法務当局も密行主義・秘密主義をとっているためだ。
 本書では、旧版以後の新しい材料を加え、容易に手に取って死刑制度の問題を考えられるものになるように心がけた。
 なお、本文中の敬称は基本的に省略させていただきます。
 本書の制作にあたってテキサス州の取材をお願いし、原稿整理などの援助をいただいたオフィスTOMATOの岩本道子氏に感謝いたします。
二〇一八年九月                              近藤昭二