立ち読みコーナー
目次
464ページ
登場人物紹介
デリア(デルフィニウム)・サマセット       軍人の娘
アレック(アレクサンダー)・サザーランド     カーライル伯爵
ミリー(ミリセント)・サマセット         デリアの母親。故人
リリー・サマセット                デリアの妹
アイリス・サマセット               デリアの妹
ヴァイオレット・サマセット            デリアの妹
ヒアシンス・サマセット              デリアの妹
ロビン・サザーランド               アレックの弟
エレノア・サザーランド              アレックの妹
シャーロット・サザーランド            アレックの妹
ハート・サザーランド               アレックの父親。前カーライル伯爵。故人
ハンナ                      サマセット家の養育係兼家政婦
リゼット・セシル                 アレックの婚約者候補
キャロライン・スワン               ミリーの友人
ライランズ                    サザーランド家の執事
16ページ~
 夕闇に目を凝らし、木にもたれている人物をよく見ようとした。どうやら女性らしい……。デリアは細めていた目を大きく見開き、棒立ちになった。足元のぬかるみが突然流砂に変わり、地面に首まで埋まったような気がした。
 それはたしかに女性だった。が、ひとりではなかった。彼女はくっついていた……男性と。とても大きな男性。女性より頭ひとつ分ほど背が高い。そのありえないほど広い肩に女性はほとんど隠れていて、笑い声がしなければいることすらわからないほどだ。男性は上着を脱ぎ、それを濡れた木の枝に無造作にかけていた。夕闇に白いシャツが浮かびあがり、たくましい腕と背中の形が見えた。
 なるほどこの男性に上着はいらないだろう。その行動から考えれば。たとえば、女性を木の幹から動けなくするのに上着は邪魔だ。彼は女性の頭の左右に両手をついていた。デリアはつばをのんだ。彼は女性に覆いかぶさるほど近くに立ち、相手の喉やうなじに唇を這わせている。そして両手を……。
 デリアが息をのむなか、男性は片手を木の幹から離し、大きく開いた女性の襟ぐりからなかへ滑り込ませ、乳房を愛撫した。
 デリアの下腹に熱い刺激が突きあげた。弾かれたように後ろを振り向いて誰もいないことを確かめ、改めて前方に目を凝らす。今からでも引き返したほうがいいのではないか? 地滑りや熊に遭遇するほうがまだましだ。しかし、足が動かなかった。デリアはその場に立ち尽くし、男性のたくましい背中と大胆な手の動きに目を奪われた。
「アレック! やめて!」女性が小声で叱り、冗談めかして男性の手をぴしゃりと叩いた。
 ああ、よかった! デリアはひそかにため息をついた。あの向こう見ずな若い女性もようやく正気に返ったのだ。じきに相手を押しのけるだろう。
 そう、今すぐにも。
 しかし男性が低い声で笑い、女性の耳元で何かささやいた。あきれたことに女性まで笑い、相手の腰に両手をまわして引き寄せた。体と体がぴたりと合わさると、彼女は甘いため息をついた。ああ、なんというため息! これまでデリアが聞いたこともない種類の声だ。恥ずかしさのあまり顔が耳まで熱くなる。
 そして男性はといえば……ああ、まさか! 彼は一方の手で長ズボン(ブリーチズ)の前をまさぐり、もう片方の手で女性のスカートをつかんで引きあげ始めたではないか。上へ、さらに上へ……。
 デリアは口を手で覆ったが、どうやら悲鳴とも怒りの叫びともつかぬ声がもれてしまったらしい。ふいに男性の背中がこわばった。その肩越しにこちらをうかがった女性とデリアの目が合った。女性は男性の手からスカートをひったくり、裾と胸元をすばやく直した。そしてあっという間に姿を消した。まるで最初からそこには誰もいなかったかのように。
 デリアはまばたきをした。もうおしまい? それなら選ぶべき道はふたつだ。あの男性に助けを求めるか、リリーの待つ馬車に逃げ戻り、今のは見なかったことにするか。
 それにしても……実際に男女のたわむれを目にしたのは初めてだった。最後の最後まで見なかったことで、逆に好奇心が刺激される。
 あの男性は今からどうするのかしら? 
 じっと見守ったものの、男性は動かなかった。こちらを振り返りもせず、言葉も発しない。彼はただそこに立って呼吸していた。深い呼吸に合わせて背中の筋肉が上下する。吸う、吐く。吸う、吐く。やがて彼は頭をわずかにのけぞらせ、頭上で揺れる木の枝をしばらく眺めていた。
 こんな退屈な見世物はないとデリアが思いかけたとき、男性がたまりかねたようなうめき声をもらし、枝から上着を取って振り向いた。
「いったいどこの誰だ?」
 デリアは口をあんぐり開け、ふらふらと後ずさりした。好奇心はすっかりかき消えた。男性の口調はなんとも無礼だった。正面から見ると彼はいっそう大きく、威圧的に見える。とはいえ、最大の問題は……。
 彼が裸でいることだった。
 いや、まったくの裸ではない。でも、これまでデリアが目にした男性のなかではもっとも裸に近かった。白いシャツの襟がはだけ、広くたくましい胸がのぞいている。むき出しの肌を見るうちにデリアの顔がいっそう熱くなった。
 男性が射るようなまなざしを向けてきた。黒い瞳を縁取る濃いまつげは長い。どんな虚栄心の強い女性でもこれほど長いまつげを持っていたら満足するだろう。彼は胸の前で腕組みをした。
「お嬢さん?」彼が声をあげた。「きみに尋ねているんだが」
 そう——そのとおりよ。ええと、わたしはいったい誰だったかしら?  「デリア・サマセット……?」なぜか問い返すような返事になってしまい、彼女は身をすくめた。
 男性がどこか面白がるように黒い瞳をきらめかせた。「ふむ、それで正解なのか、間違っているのか、自信がなさそうだな」
 なんとも油断のならない目つきだった。デリアの既婚の友人たちが何度かこの手の男性について話すのを聞いたことがある。彼らの頭にあるのは女性のことだけ。獣じみた欲求に容易に突き動かされ、不埒な行為に及ぶという。
 この男性は、なかなか質が悪そうだ。
「よろしい、ミス・サマセットということにしよう」デリアが答えないでいると、男性はおもむろに言った。「これできみが誰かはわかった。次はここで何をしているのか答えてもらおうか」
 まあ、さっきからずいぶん感じの悪い……恥ずかしさに代わってふいに怒りが湧いてきた。いくら魅力的な裸の胸を見せられても、こんな失礼な言い方は許せない。
「その前に」デリアは言い返した。「上着を着たらどうなの?」
 怒りを感じ取ったのか、男性は黒い眉の片方をつりあげた。「これは失礼、ミス・サマセット」彼はベストを着て、何食わぬ顔でボタンをはめた。まるで普段からしょっちゅう戸外で裸になっているかのように。彼は続いて上着をはおった。「繊細な乙女に不快な思いをさせるつもりはなかった」
 デリアはにらみつけた。「それは手遅れじゃないかしら。不快な思いならとっくにしたわ。あなたがブリーチズの前を開いたときに」
 相手を手厳しくやり込めたつもりだった。ところが、まともな紳士なら深く恥じ入るべきこの状況で、男性は笑い出した。
「きみのほうを向く前にちゃんと直しただろう」彼はもっともらしく指摘した。