立ち読みコーナー
目次
560ページ
登場人物紹介
ヴァロリー・エインズリー            私掠船の船長
ダニエル・サーボーン              サーボーン卿
ジェレミー・エインズリー            ヴァロリーの兄。故人
メグ                      ヴァロリーのメイド
ジョン・ビーチャム               ヴァロリーの結婚相手候補
レディ・ビーチャム               ジョンの母親
ブル                      〈ヴァラー〉号の船員
ジャスパー                   〈ヴァラー〉号の船員
スカリー                    〈ヴァラー〉号の船員
ワン・アイ                   〈ヴァラー〉号の船員
ヘンリー                    〈ヴァラー〉号の船員
ピーティ                    〈ヴァラー〉号の船員
エレン                     ピーティの妻
ウィスター                   ダニエルの弁護士
ヒンクル                    ダニエルの執事
スウィンタン卿                 ヴァロリーの後見人
176ページ~
「踊ってもらえるかい?」
 ヴァロリーはぎょっとして、ダニエルを見た。左の頬に小さな痣(あざ)があるだけで、ほかはいつもと変わりない。「わたしはダンスはしないの」ヴァロリーはいらだたしげに答えたが、突然腕を取られたので驚いて息を呑んだ。
「いいから。次からは、もっとましな言い訳を考えるんだね」ダニエルは優しく言うと、踊っている人たちのほうへとヴァロリーをいざなった。「だれだってダンスはするものだ」
「そうかもしれないけれど、わたしはしないの」ヴァロリーは振りほどこうとして腕を引っ張ったが、無駄だった。
「それなら、ぼくが喜んで教えるよ」ダニエルはヴァロリーを自分のほうに向き直させると、腕をつかんでいた手を肩にまわし、もう一方の手で彼女の手を取って踊りはじめた。
 ヴァロリーの手と腕はダニエルに合わせて動いたが、足は根が生えたようにしっかりと床を踏みしめたままだった。荒天のなかで〈ヴァラー〉の甲板に立っているときのように、無意識のうちに足を踏ん張っていたのだ。ダニエルは驚いて動きを止め、ヴァロリーの足を、それから顔を見つめた。
「本当に踊れないのかい?」ダニエルは静かに尋ねた。彼の表情に勇気づけられて、ヴァロリーはうなずいた。一瞬ダニエルの視線が泳いだが、すぐに背筋を伸ばしてうなずいた。「それならぼくが教えてあげるよ。いいかい、きみはただ——」
「あまりいい考えだとは思えない」ヴァロリーは遮るように言うと彼に背を向け、女性たちに囲まれたままのヘンリーとメグのほうに向き直った。だが全員がこちらを見つめていることに気づき、狼狽したように動きを止めた。ちょっとした圧力ほど物事を複雑にするものはない。
「いいや、とてもいい考えだと思うね」ヴァロリーが足を止めたその隙を逃さず、ダニエルは再び彼女を自分のほうに向かせた。「それどころか、ちゃんとした技能がなければ、夫を見つけるのはかなり難しい」そう言いながら、再びヴァロリーの肩に手を回し、もう一方の手を取る。
「どうしてわたしが夫を探していると思うの?」ヴァロリーは鋭い口調で尋ねた。
「女性はみんなそうだろう?」ダニエルは面白そうに訊き返したが、ヴァロリーが少しも面白いと思っていないうえ、あくまでも答えを聞くつもりであることがわかると、ため息をつきながら言った。「わかったよ。初めてきみと会ったとき、ウィスターが教えてくれた」
「ウィスター」ヴァロリーはうんざりしたようにつぶやいた。「気をつけていないと、彼はそのうち舌をなくすわね」
 ダニエルは唇を噛んで笑いたくなるのをこらえ、足元を見るようにと促した。「ぼくの足をよく見て、ついてくるんだ」
「どこに?」
「ダンスだよ。ぼくと同じようにステップを踏めばいい。簡単だ。同じステップがずっと繰り返されているだけなんだ。見てごらん」ダニエルは一歩うしろにさがり、ヴァロリーがついてくるのを辛抱強く待ってから、横に一歩足を出した。ヴァロリーがそのとおりにすると、さらにもう一歩横に移動する。「ウィスターにはあまり腹を立てないことだ」そのステップをもう二回ゆっくりと繰り返してから、ダニエルが言った。「ぼくも同じ状況だから、話してくれただけなんだ」
 ヴァロリーはダニエルの顔を見あげた。「同じ状況?」
「ぼくも遺産を相続するためには結婚しなければならない」ダニエルは嫌悪感も露に答えたが、ヴァロリーは信じられないというように首を振った。
「あなたはすでに称号も地所も持っている。何年も前にお父さまからサーボーンの地所と公爵の位を受け継いでいるじゃないの」ダニエルが目を丸くしたのを見て、ヴァロリーは自分を蹴飛ばしたくなった。その話を聞かせてくれたのはメグだったが、知っていることをダニエルに気づかれるべきではなかった。
「確かに」ダニエルはうなずいた。「だがそれを維持するのに必要な資産はまだ相続していないんだ」
 ヴァロリーは目をぱちくりさせた。「地所と称号を相続したのに、資産はしていないの? そんなことってあるの?」彼の立たされている苦境はわたしとそっくりだと、ヴァロリーはいつしか考えていた。
 ダニエルはしばしためらってから、口を開いた。「そこらにいるどの女性であれその母親であれ、みんな知っている話なんだ。ぼくの父は、祖父から地所と称号を受け継いだが、資産を手に入れるためには結婚しなくてはならなかった」
「お母さま?」
「そうだ。母の実家は莫大(ばくだい)な資産を持っていたが、地所も称号もなかった。完璧な組み合わせだったんだ。母はたっぷりと持参金を持ってきたから、それで地所を維持していくことができた。だが父が死んだときには、それも使い果たしていた。ぼくに遺されたのは、公爵の地位と広い土地と山ほどの借金だった」
「それで、あなたがまだ受け継いでいないというその資産は?」
「母方の祖母がこのあいだの春、亡くなった」
「お気の毒に」ヴァロリーはふたりのまわりで踊る人たちを眺めながらつぶやいた。
「本当に。たいした人だったよ。素晴らしいユーモアのセンスの持ち主だった」最後の言葉を口にしたときダニエルの眉間にうっすらとしわが寄ったが、やがてそれは苦笑に変わった。「生きていた頃、最悪の事態を何度か助けてもらった」
 その口調にヴァロリーは思わずダニエルの顔に目をやり、それが彼にとって簡単ではなかったことを見て取った。ダニエルが一度も祖母に援助を頼まなかったこと、助けてもらうのがなによりも嫌いであることを直感的に悟った。その気持ちはよくわかる。ヴァロリー自身も助けを乞うことがいやでたまらなかったからだ。負けを認め、手伝ってほしいと頼むくらいなら、命が危なくなってもあくまでも自分でやり通すほうがいい。「お祖母さまは……素敵な人だったのね」ジェレミーが死んだあと、自分にもそんな人がいればよかったのにと思いながら、ヴァロリーは力なく言った。
「素敵?」ダニエルは小さく笑った。「怒りっぽいばあさんだった。若くなれるわけじゃないんだから、早く結婚して子孫を残せと延々と説教されたよ。サーボーンを立て直すことに必死で、妻を探している時間がなかったんだと説明しようとしたが、いつも祖母はこう言ったよ。“自分で時間を作らないかぎり、いつまでたっても時間はできません”」ダニエルは渋面を作った。「あの日ウィスターの事務所で、ぼくが時間を作るように祖母が仕向けたことを知ったんだ」
「結婚して跡継ぎを作らなければ、相続させない」ヴァロリーの顔に笑みが浮かんだ。ダニエルは彼女以上に、その条項に不服だったのだろう。ウィスターの事務所で怒鳴ったり、地団駄を踏んだりしていたのも無理はない。