立ち読みコーナー
目次
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登場人物紹介
ヴァイオレット・ソーンヒル           考古学者
コール・マンロー                マードン伯爵の領地(ダンカリー)の管理人
メグ・ラザフォード               コールの姉。デイモンの妻。マードン伯爵夫人
デイモン・ラザフォード             メグの夫。マードン伯爵
イソベル・ケンジントン             ベイラナンの女主人
ジャック・ケンジントン             イソベルの夫
エリザベス・ローズ               イソベルのおば
ミリセント・ケンジントン            ジャックの母親
アラン・マクギー                コールとメグの父親
ジャネット・マンロー              コールとメグの母親(故人)
フェイ・マンロー                コールとメグの祖母(故人)
デイヴィッド                  フェイの恋人
ミセス・ファーガソン              ダンカリーの女中頭
ドナルド・マックリー              ダンカリーの前管理人
サリー・マキューアン              ダンカリーの料理人
アンガス・マッケイ               小作人
アルピン                    グリアの従者
ライオネル・オーヴァートン           ヴァイオレットのおじ
マルコム・ローズ                イソベルの祖父。エリザベスの父親(故人)
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 そのとき彼が、さっと振りむいた。ヴァイオレットは馬車の乗降階段に上がっていたというのに、目線の高さが同じでどきりとした。
「今度はわたしになにか命令するつもり?」ヴァイオレットは腰に両手を当て、片方の眉をつりあげた。
 挑発的な彼女の態度を見て、彼は腹立たしいことに、にこりと笑った。「きみは美人だが、相当な跳ねっ返りだな。きみに命令することはない。だが、もっとだれかについていてもらったほうがいいな」
「わたしひとりでだいじょうぶよ。一人前の大人の女なんだから」
「ああ、それは見ればわかる」彼はさりげなく馬車に片手をついてもたれた。「それでも、ハイランドは初めてなんだろう? こういう道も」
「こういう道にはだいぶ慣れたわ」
 彼の口もとがぴくりと動いたが、彼はこう言っただけだった。「夜にこのあたりを出歩くのはやめたほうがいい。危険だ」
「今度は脅すつもりなの?」
「なんだって?」彼は目を丸くした。「ぼくがきみを襲うとでも? もう忘れたのかもしれないが、ぼくはきみを助けに来たんだぞ」
「泥棒たちを追い払ってはくれたわ。でも、商売敵を排除しただけかもしれないじゃない?」
「おやおや、口が悪い。ぼくに助けられたら、たいていの人間はありがたがるのに」
「それはごめんなさい。失神でもするべきだったのね。それとも、謝礼を渡したほうがいいのかしら?」
「ひとこと“ありがとう”と言ってくれればじゅうぶんなんだが。どうやらそれはなさそうだから、謝礼をもらうことにしよう」大きな手がヴァイオレットのうなじにまわり、彼女の動きを封じた。かと思うと、彼は身をかがめてキスをした。
 ほんのわずか、唇が軽くふれただけだった。それなのにヴァイオレットの体には震えが走った。びっくりして唇が開く。彼が頭を上げ、ヴァイオレットの顔に視線をめぐらせた。その視線がまた唇に戻る。「ぼくの値打ちは上がったみたいだな」
 ふたたび唇が重なった。ゆっくりと、心ゆくまで味わうように。ヴァイオレットの唇が少し開いたところを彼の舌先がなぞり、それからなかにすべりこんで、やさしくあやしながら奥まで入ってくる。ヴァイオレットの体はかっと熱くなり、急にすべての神経が目覚めたような気がした。こんなふうに感じたのは初めてだった。言葉を失うほどの、とてつもない熱さと心地よさ。
 彼はのどの奥で満足げな声を低くもらし、ヴァイオレットの腰を片腕で抱いた。「かわいいな」彼女の唇に、そっとささやきかける。
 その言葉にヴァイオレットははっとし、ぼんやりしていた頭がはっきりした。小さい。かわいい。男らしくてたくましい腕に溶けこんでしまった自分。
 ヴァイオレットは飛びすさるように彼の腕から逃れて馬車に乗りこみ、「馬車を出して!」と声を張りあげて御者に命じた。馬車が音をたてて去り、あとにはぽかんと立ちつくすコールが取り残された。ヴァイオレットが振り返ることはなかった。
 ヴァイオレットは震える体を抱えた。これは寒さのせいなのか、遅れて恐怖がやってきたのか、それとも……初めて全身を満たしたあの甘美な感覚のせいなのか……。なんなの、あの人は? 無作法で、厚かましくて、尊大で、がさつで、野蛮で。なんでも自分の思いどおりになると思って生きてきたんじゃないかしら。男はみな自分のために道を開け、女は自分の腕に飛びこんでくるとでも思っているんだわ。でも、それも無理からぬこと。たったいま、そのとおりのことが起きたのだから。
 ヴァイオレットは情けなくてたまらなくなった。どうしてあんなふうに反応してしまったのだろう? これまでずっと、女は弱くて、感情的で、役に立たないという男性の偏見と闘ってきたのに、それを一瞬にして水の泡にしてしまった。ちょっとこわい思いをして、困ったところを助けられたからといって、キスをされたとたんに押し返す力もなくなったなんて。そう、彼女は為すすべもなく、自分の体さえどうすることもできずに、ただ突っ立っていた。彼に動きを封じられ、彼の思うままにされていた。
 いいえ、ちがう。彼の思うままじゃない。彼女はみずから自分を差しだしたのだ。しかもあやうく抱きついて、もっとねだりそうにさえなっていた。ヴァイオレットは目を閉じ、彼の唇を思いだした。ベルベットのようなやわらかさ。動き方。感触。恍惚とも腹立ちともつかない吐息がもれる。いつの間にか馬車は村を通りすぎ、もう少し細い道に入っていたが、彼女はまったく気づいていなかった。動悸を鎮め、おなかの下のほうに溜まった熱を散らすのに必死だった。こんなに動揺して心乱れ、弱さを露呈したような姿で新しい雇い主の前に出るわけにはいかない。
 ヴァイオレットは深呼吸をひとつ、ふたつとくり返した。少しよくなった。さっきは、少なくとも最後にはわれに返って彼から逃れることができた。彼女が馬車に飛び乗ったとき、彼はぽかんと呆けたような顔をしていた。それを思いだすと、少しは胸のすく思いがした。女性に拒まれるなんて、きっとほとんど経験のないことにちがいない。あんなにハンサムな人なんだもの。
 目を閉じ、薄暗いなかで金色に光っていた彼の髪を思いだす。長めでくしゃくしゃで、しゃれているとは言えない髪。目は何色だったのだろう? 暗すぎてわからなかった。でも、男らしいあごをしているのは見えた……あの角張ったあご……広い肩。われ知らず、彼女はため息をついていた。
 体の大きな人だった。手もすごく大きかった。けれど、彼女のうなじにかかった手はやさしかった。そして唇は耐えがたいほどやわらかくて、求めてはくるけれど強引ではなかった。そんなことを思いだして、またおなかのあたりに熱が渦巻いてくる。ずっと昔、愚かにも結婚寸前までいった相手にキスされた経験はあるけれど、それとはまるでちがっていた。
 コールとの口づけは、なんと甘美だったことか。もしあのまま抱きついていたら、きっと彼の体はがっしりとして硬いことがわかっただろう。彼の腕に、肩に、背中に、指先を食いこませるところを思い描く。そして、あの低く響くような声。スコットランド訛りのせいで、やわらかな響きを帯びていた。あたためたハチミツのように、とろりと体内を流れていくような気がした。