立ち読みコーナー
目次
704ページ
登場人物紹介
ニーナ・クリスティ           ソーシャルワーカー
アレックス・アーロ           セキュリティ・コンサルタント
ヘルガ・カシャノフ           科学者
ララ・カーク              ヘルガの娘
ハロルド・ラッド            知事候補の実業家
ロイ・レスター             ハロルドの手下
アナベル・マーシャル          ハロルドの手下
オレグ・アルバトフ           アーロの父親
リタ・アルバトフ            オレグの再婚相手
オクサナ・アルバトフ          アーロの母親。オレグの最初の妻
サーシャ・アルバトフ          オレグの息子
ジュリー・アルバトフ          アーロの妹
トーニャ・アルバトフ          アーロのおば。オレグの妹
ディミトリ・アルバトフ>        アーロのいとこ。オレグのおい
ブルーノ・ラニエリ           アーロの友人
リリー・パー              ニーナの親友。ブルーノの婚約者
サディアス・グリーヴズ         実業家
マイルズ・ダヴェンポート        私立探偵
ベンジャミン・スティルマン>      上院議員
ジョセフ・カーク            ヘルガの元夫
デイビー・マクラウド          アーロの陸軍での同僚
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 パネルが開いた。ニーナ・クリスティがうずくまってこちらを見あげていた。真っ裸で。グリーンとゴールドがまじりあう大きな瞳は恐怖で見開かれている。長いまつげには黒髪が絡まり、開いた唇は青ざめていた。
「ニーナ・クリスティか?」アーロは確認のために尋ねる自分がまぬけに思えた。それ以外の誰だというのだ? だが、危うく死を免れたばかりの全裸の女性に言うべきことなど、何ひとつ思いつかなかったのだ。もっとましな状況だとしても、気のきいた言葉をひねりだせるわけではないが。彼はただ、池に浮かぶ藻のように脳に浮かんだ言葉を拾いあげただけだった。何も考えずに、思いつくままを口にしたのだ。
 アーロは腰を落とした。ふたりの目が同じ高さになる。それから、クローゼットの奥にある暗い隠し部屋をのぞきこんだ。箱がいくつも積みあげられている。なかに入っているのは本だろうか? ニーナは箱の後ろに身を隠していたらしい。だから命が助かったのだ。おれのおかげではない。
 ニーナがまばたきした拍子に、目にたまっていた涙がこぼれ落ちた。涙が頬を伝い、きらりと光る。「ア……ア、アーロ?」
 ああ、まったく。自分を見つめるニーナのまなざしに、アーロの胸を不安がかすめた。その大きな瞳は、彼が神であるかのように見つめている。彼女の救い主、ヒーローだとでもいうように。真実が明らかになったとき、ニーナは憮然とするだろう。そうなるのも先のことではない。ニーナを助けたのは自分ではないのだから。
「ああ、そうだ」気まずさから、アーロはぶっきらぼうに答えた。威圧的にならないよう気をつけたつもりだが、うまくいったとは思えない。「ブルーノに送りこまれたんだ」
「ブ……ブルーノ?」この女性は恐怖で頭が麻痺しているようだ。
 アーロは辛抱強く言った。「ブルーノだ。きみの親友の未来の夫だよ」ぞんざいな口調にならないよう気をつける。
 ニーナは相変わらずその場にしゃがみこみ、ショックで見開いた大きな目でこちらを見あげていた。青ざめた唇は震えている。まずは彼女に服を着せて、どこか安全な場所へ連れだす必要があった。もしニーナが気を失ったらどうすればいい? 〈コニーアイランド病院〉にでも運びこめばいいのか? そうなれば、たくさんの書類に記入したり医師に説明したりしなければならなくなる。警察沙汰にもなるだろう。それはまずい。
 アーロはなんとか口調をやわらげて言った。「ニーナ、クローゼットから出ておいで。ここを離れよう。やつらがいつ戻ってくるかわからない。連中が何人いるのかも、何ひとつわかっていないんだ。だから急がないと」
 反応はなかった。ニーナの唇がさらに震え、まばたきもいっそう激しくなる。どうやら彼女を引きずりださなければならないようだ。ニーナは金切り声をあげ、暴れるだろうが。
 アーロは手をのばし、彼女の両手を取った。ニーナの手は氷のように冷たかった。彼女の手をさすったあと、その手を引く。ニーナは出てきた。なんの抵抗もせずに。
 ニーナが彼の腕のなかにおさまった。鍵が錠にはまるように。磁石が引き寄せあうように。気づくとふたりの体はくっつき、アーロは裸の女性を抱いていた。腕が震えている。内臓はよじれ、心臓は飛び跳ねていた。彼は思わずニーナをぎゅっと抱きしめた。今すぐ腕をゆるめなければ、すでに怯えている彼女をさらに怖がらせてしまうだろう。
 だが、アーロは腕の力を抜くことができなかった。目が潤む。いったいどうしたというんだ? 彼はニーナの髪に顔をうずめると、彼女の髪で涙をぬぐった。
 まったく、どうかしている。弾痕からは煙が立ちのぼり、警察が今にも到着しようというときに、抱きあってうっとりしている時間などない。とはいえ、どうすればいい? ニーナを振り払うのか? 彼女の顔はシャツに押しつけられ、まつげがはためくたびにアーロの鎖骨がくすぐられる。ニーナの吐息が胸にかかるたびに、体じゅうを興奮が駆け抜けた。
 ああ、なんてこった。興奮を感じている場合じゃない。今はだめだ。
 そのとき、アーロはニーナの香りを吸いこんだ。ああ、嘘だろう?
 アーロは森に住んでいた。家のまわりには、唐檜(とうひ)やヒマラヤ杉や樅の木々がそびえ立つ、鬱蒼とした森が広がっていた。雨が降ると、樹皮や土や苔の甘い香りと雨のにおいがまじりあったものだ。ニーナ・クリスティの髪の香りはまさにあの場所を思い出させた。
 彼がその土地を購入したのは、この香りが好きだったからだ。不動産業者に案内されたときも雨が降っていて、手に入れずにいられなくなったのだ。
 たしかにニーナのシャンプーはいい香りだ。だからなんだっていうんだ? ばかげた妄想を絶ち切る方法なら知っている。体のある部分を少しばかり強めに殴ればいいのだ。
 だが、そうしたところでもとには戻れない。アーロはニーナを意識せずにはいられなかった。クローゼットの扉に取りつけられていた鏡が目に入る。そこには、裸の美しい女性を抱きしめている自分の姿が映っていた。今にも彼女を床に押し倒し、セックスを始めようとしている自分の姿が。
 ああ、なんて白い肌なんだ。ニーナの髪が自分の手首にふんわりとかかっている。彼女の白く、なめらかな肌と比べると、自分の指がとても色濃く見えた。
 アーロの指に力が入った。ニーナの肌はシルクのようだった。体も、自分がいつもつきあっている女たちに比べるとずっとやわらかい。かたくなったむきだしの先端が胸板をこする。ニーナのもつれた黒髪は、ふっくらとしたヒップまで届いていた。彼はその桃のようなヒップを手で撫でたかった。こんな愚かな衝動を抱いてしまうのも、体じゅうをアドレナリンが駆けめぐっているせいだ。無意識のうちに両手が彼女の体を下へとのびていく。そしてニーナの腰のくびれを感じとり、豊かなヒップを包みこもうとした。
 いい加減にしろ、頭を冷やせ。この女性はさんざんな目にあったんだぞ。彼女はそんなつもりはないんだ。今にも飛びかかろうとしている獣の関心なんて必要としていない。だからその手を引っこめろ。今すぐに。
 アーロは強く歯をくいしばり、下腹部に広がる熱いうずきから気をそらした。だが、理性も自制心も高潔さも彼は持ちあわせていなかった。
 アーロは、銃撃戦のあとで、胸を揺らした裸の女性がクローゼットから飛びだしてくるなんて、いつものことだというふりをした。こんなことは日常茶飯事なのだと。ニーナ・クリスティはそそりたつ彼の分身など必要としていない。彼女に必要なのは、熱い紅茶に鎮痛剤が一錠、それにトラウマ専門のセラピスト、付き添いの警察官だ。
 しかしニーナにとって残念なことに、そばにいるのはアーロだけだった。