立ち読みコーナー
目次
536ページ
登場人物紹介
ベッカ・メリット             看護師
ニック・リクシー             元陸軍特殊部隊隊長
ジェレミー・リクシー           ニックの弟。タトゥーの彫り師
ジェス                  ジェレミーの店の店員
チャーリー・メリット           ベッカの弟。コンピュータ・セキュリティ・コンサルタント
フランク・メリット大佐          ベッカの父親。故人
スコット・メリット            ベッカの兄。故人
ミゲール・オリヴェロ           ニックの友人。私立探偵。元ボルティモア市警の刑事
シェーン・マッカラン           ニックの元戦友。情報スペシャリスト
ベケット・マルダ             ニックの元戦友
エドワード・”イージー”・キャントレル   ニックの元戦友
デレク・”マーツ”・ディマーツィオ     ニックの元戦友。コンピュータの専門家
ジミー・チャーチ             犯罪界の帝王
ウォルト・ジャクソン           チャーリーのアパートメントの大家
ジャニース・エヴァンズ          ベッカの同僚
タイレル・ウッドスン           チンピラ
122ページ~
「もっとできそうだな」しばらくして、彼が言った。「ワンツーをやってみよう」ベッカはいったん両腕を揺すってほぐしてから、また位置に戻った。「フットワークは小刻みにして、身体をひねるようにサンドバッグを打つ。最初はゆっくりやってみて」
 ベッカはワンツーに挑戦し、その流れるような動きが気に入った。ニックが彼女の後ろに回り、左右の腰をつかんで、もっとパンチにひねりを入れるようにと促すと、なおさらこのエクササイズが好きになった。ぞくぞくする震えが走り、ありとあらゆる場違いな考えが頭に浮かんだ。彼に後ろから腰をつかまれて、そのまま——。
「よし、やってみて」
 彼女は息を吐き出した。淫らな妄想を振り払い、抑圧された肉欲と期待をビニールのサンドバッグに向けた。左、右。左、右。左、右。「すごく……いい……気分」彼女はパンチの合間に、歯を食いしばりながら言った。ほんとうに気分がよかった。チャーリーのアパートメント、不法侵入された自分の家、十三歳のときに母が動脈瘤で亡くなったと告げられたときのことを思った。そしてスコットの、あまりにも突然の過剰摂取死。父が急襲にあって死んだこと。バシ、バシッ。バシ、バシッ。バシ、バシッ。拳に力が入る。
 顔を汗が流れ落ち、さまざまなことが頭の中を駆け巡る。チャーリーはどこにいるの? もし誰かにさらわれて、傷つけられていたら……パンチのリズムが速くなる。自分には何ができる? 何かきっとあるはず。どうして弟の話に耳を傾けなかったんだろう? もう二度と会えなかったらどうすればいい? どこかで呻き声が聞こえたが、彼女は重たいサンドバッグを滅多打ちにする快感以外、何も考えたくなかった。
「ベッカ、ベッカ、やめるんだ」逞しい腕が上半身に回され、後ろに引っぱられた。「ベッカ、もういい」気を紛らわす運動を止められて、彼女ははっと我に返った。顔を濡らしていたのは汗だけではない。そこには涙も混ざっていた。喉の奥から嗚咽が込み上げてきた。ニックが彼女を振り向かせて、厚いグローブをした手でできるだけ優しく、ベッカの頭を彼の胸で抱きとめてくれた。「シーッ、もう大丈夫。俺がついてる」
 彼女はかぶりを振り、でこぼこの球のような感情を呑みこんだ。いったん解き放ったら、止めどなく溢れ出てしまいそうだった。「私は平気、大丈夫だから」鋼の胸に向かって、しゃがれ声で言った。
「わかってる」ニックは彼女の髪にそっとつぶやく。
 ベッカは息を切らし、ニックの男らしい——清潔な汗と爽やかな石鹸と革の——匂いを深く吸いこんだ。そのとたん、別の種類の官能が次々に押し寄せてきた。頬に当たる彼の厚い胸板は温かく脈打っている。肩を見上げると迫力あるタトゥーが見え、そこから伸びる腕が彼女を抱きしめている。彼の心臓は彼女の耳のそばで早鐘のように打っている。あと足りないのは味覚だけ……。
 ベッカの感情は、不意に新たな方向に向かいはじめた。涙は乾き、彼の肌に唇を、舌を押しつけたいという衝動を行動に移すことを考えただけで、全身が汗ばんだ。許されないことではあるけれど、彼に溺れるのはあまりにもたやすかった。彼に抱かれたら、頭の中をいっぱいにしたり胸に重くのしかかったりしているつまらないことを全部忘れられる。たとえほんのつかのまでも……。
 心臓が肋骨を突き破らんばかりに打っている。荒い息を彼の胸筋に吹きかけながら、ベッカは自分が留まるべき責任ある行動の縁に立って下をのぞきこむと、思いきって飛びおりた。「あなたにキスしたい」彼女は囁いた。言ってしまったと思った瞬間、部屋がぐるぐると回るのを感じた。もし彼が支えていてくれなかったら、床に倒れていただろう。
 彼の外見はなんの反応もなかったが、密着させた身体のせいで、彼の気持ちが伝わってきた。その胸が激しく上下し、鼓動が雷のように響いた。彼のものが大きくなったのを下腹に感じる。
 彼を興奮させたことが嬉しくて、ベッカは大胆になった。
 ニックの胸に、一度、二度、唇を押しつけた。三度目のキスでは肌に舌を這わせて、彼の汗のしょっぱさを味わった。彼の味——そんなことをほんとうにしているという事実——に恍惚とした。押しつけられた彼の大きなものがさらに硬くなる。両手で彼にしがみつき、筋肉の起伏をすべて感じたいのに、邪魔なグローブがもどかしかった。
「ベッカ」ニックが唸る。警告だ。
 どうしても彼が欲しいということしか考えられない。否定できない。否定したくもない。彼の乳首に唇を当てた。
 彼の喉から絞り出された声が彼女の足のあいだを直撃し、満たされたい疼きだけしか感じられなくなる。
 ニックは彼女の上腕をつかんで広げさせながらも、そのまま手を離さなかった。口を開き、息を荒げ、どこもかしこも筋肉をこわばらせて、怖い形相で見つめてはいるが、そんなものでベッカの欲望はびくともしなかった。
 彼は燃えるような眼差しをベッカから離さずに、両手のグローブを外して床に放り投げると、彼女を抱きしめた。
 髪に差し入れた手で上を向かされ、むさぼるようにキスをされた。熱く、激しく、支配的なキス。切ない声をあげて開いた唇に、彼の舌が滑りこみ、彼女の舌を探り当てる。彼はミントと男らしさと淫らな予感の味がして、ベッカはいくら味わっても足りなかった。
 部屋がぐるぐると回転する。彼女はニックの肩にすがろうとして、グローブを見て呻いた。「外して、外して」キスの合間に喘ぐように言った。
 唇が離れたとき、ニックの顔は欲望に翳っていた。彼はベッカのグローブを二秒で外してからまた彼女を抱き寄せ、さっきよりもきつく抱きしめながら熱いキスをした。
 ベッカの手は極楽を味わっていた。彼の胸、肩、背中の筋肉を好きなだけ触ったりつかんだりできる。どこもかしこも硬かった。彼の力強い昂りを感じていると、彼女の下腹部に熱が渦巻いた。