立ち読みコーナー
目次
448ページ
登場人物紹介
バラン               ゲイナー男爵。ガーター騎士団の一員
ミューリー・ソマーデール      イングランド国王の名付け子
オスグッド             バランの従兄弟
マルキュリナス・オルダス      ゲイナー城近くに居城を持つ貴族
ラウダ・オルダス          マルキュリナスの妹
エミリー              ミューリーの親友
レジナルド・レイナード       エミリーの夫。バランの友人
セシリー              ミューリーのメイド
エドワード三世           イングランド国王
フィリパ              エドワード三世の王妃
ベッカー              エドワード三世の側近
ジュリアナ             バランの妹
バクスリー             マルキュリナスの使用人
クレメント             ゲイナー城の料理人
ティボー              ゲイナー城の家令
ガッティ              ジュリアナの乳母
アンセルム             ゲイナー城の兵士
58ページ~
 静かな部屋にゴンという大きな音が響き、マルキュリナスはうめき声をあげながらくずおれた。バランはちらりとベッドに目を向け、どちらの音もミューリーを起こしてはいないことを確かめた。
 暖炉はベッドの向こう側にあったから、こちら側は闇に沈んでいる。バランは黒い塊のようなマルキュリナスを見おろし、意識のない彼を部屋から引きずりだそうとして体をかがめたところで、その手を止めてベッドで眠っている女性に目を向けた。昼間、広間で見たときにも美しいと思ったが、炎の明かりで見る彼女の美しさは息を呑むほどだった。薄明かりに浮かびあがる表情は穏やかで神秘的だったし、炎に照らされた髪は筆で掃いたかのように、ところどころが明るかったり、黒っぽく見えたりした。
 眠りが浅いのか、寝苦しいのか、シーツや毛皮をはいでしまっていて、太腿にチュニックがからまっているのが見える。雪花石膏(せつかせつこう)のような脚が薄明かりのなかで柔らかな光を放っていた。
 バランの視線は丸みを帯びた腰からなだらかな曲線を描く腹部、そしてチュニックの襟元へと移動した。何度となく寝返りを打ったらしく、チュニックの胸元も乱れていた。紐(ひも)がほどけて前が大きく開き、胸の上部と片方の乳房の一部があらわになっている。
 気がつけばバランは、胸のふくらみをじっと見つめていた。手を伸ばして、ほんの少し布地を動かせば、乳首が見えるだろう。彼は思わず唇をなめ、この光景を心に刻みこもうとした。そうすれば、あとでまた思い出すことができる。いったいどれくらいそうやって立ちつくしていただろう。床の上の塊からうめき声が聞こえてきたところを見ると、かなりの時間がたったらしい。
 バランはそちらに目を向け、楽しみを邪魔したマルキュリナスに向かって顔をしかめた。膝をついて男の頭の位置を確認すると、それ以上声を出さないように側頭部を押さえつけた。少なくとも、そのつもりだった。だが不運なことに、頭をつかんだとたん、マルキュリナスは屠(ほふ)られる直前の豚のような悲鳴をあげた。
 バランは声に出さずに毒づきながらしたたかに彼を殴りつけ、それから不安げなまなざしをベッドに向けると、マルキュリナスの声でミューリーが目を覚ましたことを知って、体を凍りつかせた。彼女は体を横向きにして、暗がりに膝をついているバランを見つめながら、眠たそうに目をしばたたかせている。
「あなたはだれ?」ミューリーはとまどったように尋ねたが、まぶたがすぐにくっついてしまったところを見ると、完全に目が覚めたわけではないようだ。「わたしの旦那さま?」
 バランはためらった。自分でも驚いたことに、この状況を利用してイエスと答えたくなっている。だがそんなことをすれば、いま足元に転がっている男と同じ程度にまで自分を貶(おとし)めることになる。自分の良心を呪いながら、バランは渋々答えた。「違う」
「それじゃあ、あなたはだれ?」ミューリーは当惑した様子で訊いた。
「だれでもない。わたしはここにはいない」
「そうなの?」
「そうだ。きみは眠っているんだ。さあ、横になって」バランは命じた。
 ミューリーはしばらく考えていたが、不意に思いついたらしい。「わかったわ。そうよ、あなたはまだわたしの旦那さまじゃない。結婚する運命の人なんだわ」
 彼女がベッドに仰向けになるのを眺めながら、バランは大きく目を見開いた。これはまずい。彼女はわたしのことを……彼女は……。まずいぞ! 
 バランは唇を噛んだ。どうすれば事態を修正できるのか見当もつかなかったが、なにかしなければならないことはわかっていた。つかの間ためらったあと、膝立ちのままベッドに近づき、半分だけ立ちあがってミューリーを見た。彼の指示どおり横になり、すぐに眠りに落ちたようだ。体を動かしたことでチュニックの胸元はさらに乱れ、乳首がはっきりと見えている。バランは鋭く息を吸いこむと、強くこぶしを握りしめ、触れたくなるのをぐっとこらえた。
 まったく、わたしはこんな責め苦を受けなければならないほどのなにをしたというんだ? 最初は領民を奪ったペストだ——だが英国の人口の半分が同じ病で死んでいるから、運命が彼だけを苦しめているとは言えないだろう。しかしながら、ゲイナーがほかの領地のように立ち直れなかったことは、運命のせいにしてもいいだろう。そして父が死に、ゲイナーとそこに暮らす人々が彼の手に委ねられ、最後はこの誘惑だ。
 ミューリーの唇から小さな息が漏れた。同時に体を動かしたので、チュニックがさらに乱れて片方の乳房が完全にこぼれ出た。丸くて、引き締まっていて、とてつもなく魅惑的だ。
「ちくしょう」バランはつぶやいた。こんなものが目の前にあっては、事態を修復する方法を考えるのはとても無理だ。
 どうするべきかを考えてさらに時間を無駄にしたあとで、バランは乳房をチュニックに戻そうとした。両手を必要とする作業だった。片手で乳房を支え、もう片方の手でチュニックを引き寄せる。だがミューリーがうめきながら背中を弓なりに反らしたので、その手が止まった。
 思わず彼女の顔に視線を向けると、いまにも目を開こうとしているのがわかった。バランは考えられる唯一のことをした——キスを。だれかに触られていることに気づいた彼女が悲鳴をあげるのを防げるし、彼自身もまたこのあとどうするべきかを考える時間を稼げるというのが、バランの理屈だった。
 だがその理屈には不備があったことに、すぐに気づいた。むきだしになった乳房がすぐ目の前にあったせいでもともと思考力は低下していたが、キスは完全にそれを奪った。彼女は温かくて、眠たそうで、唇は柔らかくて、蜂蜜酒の味がした。バランは我を忘れた。
 初めはただ唇を合わせるだけの軽いキスだった。だが彼女が吐息を漏らし、体を反らせると、どうしようもなく熱いキスに変わっていった。舌で唇をこじ開け、彼女の口のなかへと差し入れる。
 返ってきたのは、これ以上ない反応だった。ミューリーは喉の奥でうめいたかと思うと、小さな手で彼の腕を弱々しくつかみ、体をのけぞらせるようにして乳房を彼に押しつけた。バランの手は即座にその誘いに応じたが、それは乳房をチュニックのなかに戻すためではなかった。
 束縛を解かれた乳房をバランはそっと握りしめた。彼女のうめき声を歓喜と共に呑みこむと、それ以上の歓びの声を聞きたくなった。ベッドに乗ろうとしたところで、彼女のものとは違う低い声が聞こえた。
 自分がどこにいるのかも、そしてその理由も、バランの頭からすっかり消えていたから、つかの間彼はとまどった。だがなにかがかすかに足首に触れるのを感じて、自分がいま置かれている状況を思い出した。重ねた唇はそのままにこぶしを突き出すと、マルキュリナスの額らしいものに当たる感触があった。彼が床にくずおれる音を聞いて、バランはミューリーの口のなかにため息をついた。
 わたしがしていることは間違っている。わたしはマルキュリナスの卑劣な策略を利用して、薬を盛られた娘に身勝手な振る舞いをしているのだ。
 そう考えると、彼女が意図せずかきたてた欲望に冷たい水を浴びせられたような気になった。バランはゆっくりと唇を離した。彼女の髪を撫(な)でつけながら、そっとささやく。「おやすみ」
 ミューリーは落胆したような声を漏らしたが、その音が消えるより先に再び眠りに落ちていた。ラウダが飲ませた薬草がどれほど効果のあるものだったかが、よくわかった。実のところミューリーは、まったく目を覚ましてはいなかったのかもしれない。
 落胆のため息をつきながら、バランはマルキュリナスの様子を確かめると、彼を肩にかつぎあげた。最後にもう一度寝乱れた姿のミューリーに目を向ける。枕に広がった髪、頭の上にあげた両手、軽く曲げた膝。チュニックは肩からずり落ちて、腰のまわりにからみつき、彼女の体は隠れているところよりあらわになっている部分のほうが多かった。