立ち読みコーナー
目次
560ページ
登場人物
トビー・ウィンダム                花屋に勤める女性
グレイドン・モンゴメリー             ランコニア王国皇太子
ローリー・モンゴメリー              グレイドンの双子の弟
レディ・ダナ・ヘクソンバス            グレイドンの許婚
レクシー                     トビーのルームメイト
ロジャー・プリマス                レクシーの上司
ジャレッド・モンゴメリー・キングズリー      トビーの友人。レクシーのいとこ
アリックス・キングズリー             ジャレッドの妻
ケネス・マドスン                 アリックスの父親。建築家
ヴィクトリア・マドスン              アリックスの母親。小説家
F・ケイレブ・ハントリー             ナンタケット歴史協会会長
ヴァレンティーナ                 ケイレブの恋人
ジリー・タガート                 グレイドンのおば。家族史研究家
ダイル                      グレイドンのいとこ。護衛官
ローカン                     グレイドンの護衛官
ギャレット                    ケイレブ船長の末弟
タビサ(タビー)                 ギャレットの恋人
「貸して。ぼくがやろう」グレイドンは彼女の手からヘアブラシを取りあげた。そして三つ編みをやさしくほどきはじめた。
 トビーはその場に立って、鏡のなかのグレイドンを見ていることしかできなかった。男の人に髪にブラシをかけてもらう、このささいだけれど信じられないほど親密な行為こそ、トビーが昔から結婚生活に夢見ていたことだった。女の子たちがくすくす笑いながら話していた、車の後部座席でするくんずほぐれつのセックスなど興味がなかった。少女のころのトビーが夢見ていたのは、男の人に髪にブラシを当ててもらうことだった。グレイドンは顔をうつむけ、一心に彼女の髪を見つめていて、トビーは彼のほうに体をまわして両手を首に巻きつけ、キスしたくてたまらなくなった。
 トビーは無理やり視線をそらした。この人はあなたのものじゃないのよ。自分にそういい聞かせる。いまも、これから先も。それにこの六日間、いい雰囲気になりそうになるたびグレイドンに避けられたじゃないの。キスを期待して彼のほうに顔を向けたことが二度あったのに、二度とも彼はすっと身を引いた。十五歳のときから男の子たちに追いまわされてきたのに、ここにきて急にわたしが近寄っただけで男の人が後ずさりするようになるなんて。傷ついたし、正直いって自尊心を打ち砕かれた。
 視線を元に戻したときトビーは笑顔になっていた。彼が進んで差しだそうとするものだけでは足りないなんて、絶対に知られたくない。
 グレイドンは鏡のなかでトビーと目を合わせた。「これでいいかい?」
「完璧よ、ありがとう」トビーは彼の前からするりと抜けだすと寝室に戻った。ジュエリーボックスから小さなハートのロケットがついたネックレスを取りだし、首につけようとした。
 グレイドンは彼女の手を払うとネックレスを留めてやった。「贈りもの?」
「十六歳の誕生日に父がくれたの」鏡のなかで一瞬目と目が合い、トビーはまた彼のほうに体をめぐらせたくなった。
 いつものようにグレイドンは彼女から離れた。「ちょっと失礼。階下で会おう」自分の部屋に戻ってドアを閉めると、彼はそこにもたれかかった。ぼくはいったいなにをしているんだ? 下着姿のトビーを見たとき部屋を出るべきだったのに、できなかった。長い時間をかけて培ってきた自制心が、一瞬で消えてしまったかに思えた。裸同然のトビーの姿に欲望を掻き立てられ、彼女をベッドに押し倒して下着をむしり取りたい衝動に駆られた。しかし、そのあとはどうする? 明日ここを離れたらトビーとは二度と会えないんだぞ? 一夜きりの関係からトビーは立ち直れるかもしれないが、グレイドンは自信がなかった。自分はべつの女性と生涯をともにする運命にあるのに、トビーは……。
 グレイドンは目を閉じた。国に帰らないわけにはいかない。来週には二名の大使がランコニアを訪れる予定だが、ローリーは彼らのことをなにも知らない。入れ替わりの事実をかぎつけられるのにそう時間はかからないはずだ。新聞の見出しが目に見えるようだった“双子の王子、世界を騙す”。ランコニアは世界じゅうで物笑いの種になるだろう。ランコニアの歴史の教科書にも載って、百年後の子どもたちはそれを見て笑うのだ。グレイドンの写真の横にトビーの写真も並ぶだろうか? それどころか、グレイドンの企みのせいでランコニア国王の権威は失墜したと書かれるのか? 
 国に帰らなければいけないのはわかっていた。それでも明日ここを離れると考えただけで胸が締めつけられた。自制心を完全に取り戻して一階へおりるまでにずいぶんと時間がかかってしまった。
 階下ではトビーがすでに待っていた。ピンクと白のストライプのサマードレスに華奢なサンダルを合わせた姿はとても愛らしく見えた。「ハントリー博士のオフィスは歩いていけるから」彼女はそこで彼を見た。「大丈夫? なにか心配ごとがあるような顔をしているけど」
「いや、なんでもない」グレイドンはそっけなく返した。
 グレイドンがまたなにか隠していることがトビーにはわかった。彼は玄関のドアを開けたが、そこでふたりの足が止まった。ドアの外に、目を瞠るほどの美男美女が立っていた。「殿下」ふたりはグレイドンに向かって頭を下げた。
 トビーが目をやると、グレイドンはたったいま人生が終わりを告げた人の顔をしていた。
 彼はドアを大きくひらいてふたりを通した。