立ち読みコーナー
目次
592ページ
登場人物紹介
ニコラス(ニック)・ドラモンド     FBI特別捜査官。英国貴族
マイケラ(マイク)・ケイン       FBI特別捜査官
バネッサ・グレース           テロ組織COEのメンバー
カールトン・グレース          バネッサのおじ
マシュー・スペンサー          COEのリーダー
ザーハ(ザーヒル)・ダマリ       殺し屋。COEではダリウスと名乗る
イアン・マクガイア           IRAのメンバー。マシューの親友
アンディ・テート            COEのメンバー。天才ハッカー
キャラン・スローン           米国副大統領
ジェファーソン・ブラッドリー      米国大統領
ガンサー・アンセル           ドイツ人のハッカー
ハサン・ハダウィ(ハンマー)      武装組織ヒズボラの最高執行者
バヒド・ラハバ             ハダウィの師
カルロス・ザ・ジャッカル        伝説の暗殺者
リチャード・ホッジズ(ディッカー)   情報提供者
メイ・アン               バーの店主
メロディー・ファインダー        ブロガー
クレイグ・スワンソン          メロディーの恋人
ディロン・サビッチ           FBI特別捜査官
レーシー・シャーロック         FBI特別捜査官。サビッチの妻
ナイジェル               ニックの執事
52ページ~
7 ポーンをd4へ
ベイウェイ製油所近く
 ベイウェイ製油所が燃えるのを近くの丘の上から信じられない思いで見ながら、バネッサは麻痺(まひ)したように立ち尽くしていた。十台目の救急車が、死者を運んでいる証拠にライトもつけずサイレンも鳴らさずに製油所を出ていったとき、彼女は膝からくずおれ、首からさげていた暗視ゴーグルから手を離して自分の胸を抱きしめた。冷静にならなければ。なんとか。
 この爆発はバネッサのセムテックス爆弾が引き起こしたものではない。二回目の小さな爆発——それが彼女の爆弾だった。自分が目にしているものを信じたくなかったが、激しい炎と叫び声、悲鳴はすべて現実だった。
 死者を出さない。それがバネッサのルールであり、マシューのルールだった。
 いや、それがマシューのルールだったのは今夜までだ。今、バネッサたちの手は血で汚れた。本物の血だ。悲しみと怒りに叫び声をあげたくなった。おじの声が聞こえてくる。“ネッサ、自分を責めるんじゃない。自分ではどうにもできないことが起きることもある。恐ろしいことだが、それに耐えて生きていくすべを学ばなければならない。訓練どおりに動くのだ、ネッサ。おまえは間違ったことなどしない。最後にはうまくいく”
 でも、失われたのは罪人ではなく、罪のない人たちの命なのだ。どうやってこれに耐えて生きていけるというのだろう? 
 これが何を意味するのか彼女にはわかっていた。マシューは金色の小型爆弾を完成させ、そのごく一部を試験的に使ったのだ。コイン大のものをそのまま使わなかったのは不幸中の幸いだ。そんなことをしたら何千という命が奪われ、あたり一面がれきの山と化していた。
 爆弾を完成させるようマシューに催促したのはダリウスに違いない。バネッサはそう直感していた。今夜試すことを決めたのも彼だろう。バネッサがダリウスの本性を——死者がどれだけ出ようと気にかけない、生まれながらの無情な殺人者であることを見抜くのに時間はかからなかった。だが今回、ダリウスにはそうする理由があるのがわかった。彼はマシューの新しい爆弾の威力を確かめたかったのだ。自分の目的のために、その爆弾が必要だから。
 バネッサは何度も深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けた。自分が作りだした爆弾によってもたらされたこの戦場を見ながら、マシューは何を考えているのだろう? バネッサと同じように恐怖を感じているのか、それともダリウスに賛同して、自分の爆弾の成功にほほえみながらうなずいているのか? 大勢の命を奪ったことに満足して? ふたりを止められるのは自分しかいない。
 バネッサは腹這いになって、ふたたび暗視ゴーグルを手に取った。さっきから、ふたりの民間人に注目していた。今、そのふたりにさらにひとりの男が加わっている。バネッサは彼らの正体に気づいた。民間人ではない。FBIだ。
 この二週間、バネッサはFBIの関係者に関するファイルを頭に叩きこんできた。年配の男はマイロ・ザッカリー。ニューヨーク支局の犯罪捜査部を率いている。それより若くて背が高いのが例の英国人、ニコラス・ドラモンドだ。そしてもちろん、黒いブーツと黒縁の眼鏡がオートバイのライダーにも見える女性のことはわかる。マイケラ・ケイン。彼らのことは、ヨーロッパでの核攻撃を食いとめたというニュースで見た。だが、たとえこれでもかというほどマスコミに登場していなくても、マイケラ・ケインのことはわかっただろう。昔の彼女も燃え続ける火のように熱くて、賢くて、面白くて、人の記憶に残る女性だった。
 バネッサが見たくなかった人々の中でも、このふたりはその最たるものだった。けれども彼らはいる。百メートルと離れていないところで、バネッサたちのグループが引き起こした恐怖を目の当たりにしている。そしてバネッサは、匿名の殺し屋たちのひとりとしてここで腹這いになっている。これに耐えて生きていくことを学ぶって、いったいどうやって? 
 初めて会った、ほんの四カ月ほど前のマシュー・スペンサーが頭によみがえる。あの頃のマシューは巻き添えを出すことをよしとしなかったし、故意にしろ過失にしろ、人を殺すことを忌み嫌っていた。自身が望んでいたとおり、小規模な爆発を繰り返すことで次第に注目を集めるようになっていた。でもそこへダリウスが現れて、マシューの膝にぽんと百万ドルを置き、彼を操って変えはじめた。その結果がこれだ。ダリウス——本当の名前は知らないが——には計画があったのだ。彼はマシューの、そしてほかのみんなの魂を抜いて、全員を殺人者に、テロリストにしてしまった。マシューは今や自分が彼の家族を殺したテロリストと変わらなくなってしまったことに、気づいていないのだろうか? 
 マシューはあまり話をしてくれなかったので、バネッサにはどうすれば彼が心を開いてくれるのかわからなかった。マシューが言い寄ってきたとしても、セックスはもう切り札にならない。血と死のにおいが鼻孔を満たしている今、彼の手が自分の体に触れると思うだけで耐えられなかった。バネッサの知っていたマシューはすぐに怒り、すぐに笑った。自分が作っているものに、その天才的な頭脳を何時間でも集中させられる人だった。彼がバネッサのことを好きだと、いや、それどころか信頼するようにもなってきたと思っていた。少なくともダリウスが現れるまでは。けれども今、彼は想像もつかない恐ろしいことに向かって進んでいる。それにはダリウスが関係しているに違いない。それがなんなのか、実行に移される前に突きとめ、なんとかしてマシューの爆弾とその製造方法を手に入れなければならない。それができなければバネッサの任務は失敗だ。簡単な任務のはずだった。
 昨日ブルックリンのアパートメントで、マシューは自分の考えていることをバネッサに打ち明ける寸前まで行った。ふたりはベイウェイの爆破の計画について話しあっていた。マシューはいつもの癖で、コイン大の爆弾をまるでマジシャンのように指先で器用にもてあそんでいた。夜間の現場監督から手に入れた見取り図が開いてあった。知恵の働く生真面目なイアンが前もって開いておいたのだ。ラリー・リーブスには、COEが手元に持っていた現金をすべて渡した。とはいえ、それはたいした問題ではない。アンディがいつでも新たに現金を手にできるのだから。マシューとバネッサはバド・ライトを飲みながら計画を最後におさらいした。ベルファスト出身のメンバーのひとり、ルーサーが角の店で買ってきたのがバド・ライトだけだったのだ。
 バネッサはそれを飲み、マシューを見つめながら思った。慎重に、慎重に。