立ち読みコーナー
目次
576ページ
登場人物紹介
エレノア・ホーク            <ザ・ホークス・アイ>紙の発行人
ダニエル・バルフォー          アシュフォード伯爵
ジョナサン・ローソン          ダニエルの親友。ホールカム公爵家嫡男
キャサリン・ローソン          ジョナサンの妹
マギー・デラミア            エレノアの友人。劇作家
アラム侯爵               ダニエルの名付け親
キャメロン・チャールトン        ダニエルの友人。アラム侯爵の息子。マーウッド子爵
ダヴェントリー             ダニエルの友人
マダム・ホーテンス           インペリアル劇場の化粧師
ミスター・スウィンドン         インペリアル劇場の衣装係
ストラスモア              ダニエルの従者
エディンガー              ダニエルの執事
デリア・エヴァハート          <ザ・ホークス・アイ>紙の記者
ハリー・ウェルカー           <ザ・ホークス・アイ>紙の記者
29ページ~
 突然はっとひらめいたことがあった。「ぼくの特別鋭い観察眼によって、きみがじつは女性であることがわかったわけだが、ぼくといっしょに出歩けば、きみの評判に瑕がつくんじゃないかな」
 彼女はかすれた笑い声をあげた。磨き上げられた石の上に蜂蜜を垂らしたような声。「わたしは記者ですよ、伯爵様。評判なんてものはありません」
 女性の知り合いのほとんどは、自分の名前に瑕がつくのを恐れて評判を保とうとしていた。女性にとっては世間からどう見られるかがすべてという世界に暮らしているからだ。しかし、この風変わりなミス・ホークは、誰になんと思われようと気にもしない、辺境の王国で暮らしているかのようだ。男であるかのようでもある。もしくは、少なくとも、男と同等であるかのような。
 なんとも興味深いことだった。
「でしたら、決まりですね、伯爵様?」彼女はなおも言った。「あなたのさまざまな活動にごいっしょして、そのことを〈ザ・ホークス・アイ〉で記事にするということで?」
 それで決まりだった。扉を大きく開いて自分の生活をおおやけの目にさらすのを防ぐ機会は失われてしまった。これまでも人目にさらされてはきたが、今約束したほど多くをさらしたことはなかった。そう考えただけで、胸がしめつけられ、自分の個人的な生活を守ろうとするように手がこぶしににぎられた。紳士というものは悪評を得るために行動を起こしたりしないものだ。行動を起こすにしても、ひそかに、優美に、控えめに起こすものだ。
 ミス・ホークの新聞にサーカスのごとく書き立てられるというのは、ひそかでも、優美でも、控えめでもない。それでも、そうしないわけにはいかなかった。ジョナサンの家族のために。もっと大事なことには、ジョナサン自身のために。
「決まりだ」と彼は言った。
 ミス・ホークは手を差し出した。握手しようというのだ。ダニエルはしばしその手をじっと見つめた。ご婦人方は握手をしたりしない。手を差し出すのはそこに顔を寄せてもらうためだ。もしくは、女性たち自身がお辞儀をする。しかし、これはミス・ホークがこれまで知り合ったほかの女性とはまるでちがうことのさらなる証拠だ。
 ダニエルにとって握手は約束を意味した。これで運命が最終的に決する。
 しばらくして、彼は彼女の手をとった。手袋はしたままだったが、薄い子ヤギのなめし革越しに、彼女の指の腹にたこがあるのがわかった。書くことで生計を立てている女性なのだ。手袋の薄い革越しに、その手があたたかいこともわかった。全身の血管に熱い血が流れる。素手同士、肌と肌を合わせたらどんな感触だろう? 女性の感触なら大勢のを知っていたが、ミス・ホークのような感触の女性はいなかった。
 彼女はにぎった手に目を落とした。眉のあいだにうっすらと縦皺が寄る。謎を解こうとでもするように。
 彼女がそばにいるときには用心しなければならない。謎のすべての側面を暴くまでは、けっしてあきらめない人間のようだから。今回の提案の真の目的を暴かれたら、最悪の事態を招くことになる。
 彼女は唐突に手を引っこめ、その手をスカートに押しつけると、せき払いをした。「予定を立てないといけませんね。いつからはじめますか?」
「早ければ早いほどいい」
 ミス・ホークは訝るように目を細くした。「お急ぎなんですか?」
 長年貴族として鍛錬してきたおかげで、ダニエルはなめらかで抑揚のない声を出すことができた。「きみの読者をあまり長く闇のなかに放置しておきたくないからね」それは答えにはなっていなかったが、彼女の質問に答えるつもりはなかった。
「明日からで結構です」彼女は答えた。「あなたさえよければ」
「いいだろう」と彼は答えた。「明日の夜は〈ドネガンズ〉で過ごすつもりでいたんだ」
「知らない場所ですわ」
「あまりまっとうとは言えない賭場さ」
「賭場」彼女は興奮して文字どおり跳び上がったが、そこで動きを止めた。「女性もはいっていい場所ですの?」これまで、E・ホークが男だと思って立てた計画だった。「そうだ、変装すればいいわ。男性の装いなら用意できますから」と彼女は言った。男の服を着て男の声を出さなければならないという事実にひるむどころか、ミス・ホークはおもちゃ屋に放たれた子供のように興奮した顔になった——それも非常に不道徳なおもちゃ屋に。
「どうやって?」
「劇場に友人がいるんです」と彼女は答えた。
「それも当然なんだろうな——悪評高き職業の人間は同類に惹かれるわけだ」
「爵位を持つ人間はみな、ほかに例を見ないほど徳の高い生活を送っているとでも?」
「ぼくらも劇場は嫌いなわけじゃない」彼はそっけなく言った。「放埒な生き方をしたいという思いを満たしてくれるからね」
「なんにしても、インペリアル劇場にいるわたしの放埒な友人が衣装とかつらを貸してくれると思います」
 ダニエルは眉を上げた。「インペリアル劇場ね。あそこはかなり……型にはまらない演目を上演している」友人のマーウッドはインペリアル劇場でかけられる芝居をほぼ欠かさず見ていた。とくに上流階級を鋭く批判するデラミア夫人の音楽劇が気に入っていた。
 ミス・ホークがすばやく浮かべた満面の笑みがダニエルの肋骨のあいだをしめつけた。「特許状を与えられていない者は、お客を呼ぶのに、多少の創意工夫を凝らさなきゃならないんです」
 ダニエルは帽子を頭にかぶった。「では、明日の夜に。インペリアル劇場へ迎えに行くよ」
「明日の夜に」
 一瞬躊躇してから、ダニエルは踵を返してミス・ホークの事務室をあとにした。彼女の目が背中に注がれるのを意識しながら。
 選択肢はなかったのだ。しなければならないことをしたまで。どう転ぶにしても、最後までやり遂げなければならない。それでも、握手したときの彼女の手の感触は忘れられなかった。ほっそりとしていて、あたたかく、強い手だった。表に出ると、馬車が待っていた。おまえはたった今、とてもきれいな悪魔と取引したんだと心の声がささやいた。