立ち読みコーナー
目次
504ページ
登場人物紹介
ファラ・リー             ロンドン警視庁の女性事務官
ドゥーガン・マッケンジー       孤児院でファラを守った少年
ドリアン・ブラックウェル       ロンドン裏社会の帝王と呼ばれる男
カールトン・モーリー         警部。ファラの上司
ユアン・マクタヴィッシュ       警部補
ジェマ・ウォーロウ          娼婦
エドモンド・ドラザーズ        娼婦の元締め
マードック              ベン・モア城の執事。ドリアンの部下
フランク・ウォルターズ        料理人。ドリアンの部下
グレゴリー・タロウ          従僕。ドリアンの部下
クリストファー・アージェント     殺し屋。ドリアンの部下
ハロルド・ウォリントン        ファラのいいなづけ
ルーシー・ボグス           娼婦
マダム・サンドリーヌ         仕立屋
193ページ~
 彼の心臓を包みこむ氷を溶かしかけたその炎は、こみあげる怒りと自己嫌悪ですばやく消された。「お互いに嘘をつくのはよそう」彼は暗い声ではっきり述べた。視界の縁に赤が溶けだし始めた。「きみの条件を拒否する」
 ファラは目をつりあげて背中を向けると、ハート形のお尻を見せながら片脚をあげて浴槽の外に踏みだした。
 ドリアン・ブラックウェルのような男が泣き言を言うことが許されるなら、彼はそのとき口にしていただろう。運命はこれ以上過酷になれるものなのか? 
 彼女はバスローブに手を伸ばし、美しい裸体を包んでベルトを締めた。「あなたがこの条件を拒否するなら、わたしはあなたの求婚を拒否するわ」タオルをつかみ、彼女は濡れた巻き毛を拭き始めた。
「忘れているようだな。あれは求婚ではない」彼女に思いださせる。ドリアンは彼女がここまで意志が強いとは予期していなかった。ここまで強情だとは。子どもの頃は最高にかわいい無邪気な少女だったのではなかったか。
 ファラは彼にいらだたしげな視線を投げ、さらに髪をいじった。「あなたがあれをなんと呼ぼうと、お断りします。それで、ほかの人と結婚するわ。警部のモー——」
「それはだめだ!」彼はうなり、大股で近づいた。「きみはあいつを愛していない」われを忘れ、彼女の肩をつかんで思いきり揺すってしまうところだった。だがそうする前に指は丸まり、怒りの強さに関節がぽきぽきと音をたてた。
 愛らしい目に恐怖が浮かんだが、彼女は身を引かなかった。「あなたのことも愛していないわ」彼女は言い返した。「そっちは問題ではないようだけど?」
 肺が息を吐き尽くすと激しい痛みが胸に広がり、彼は肺をふたたび満たそうと苦労しなければならなかった。
「わたしから奪われた子ども時代を誰かにあげたいの」ファラは優しく言った。「そして、わたしが結婚する男性はそれに同意しなければならない」
「きみは、まったくわかっていない」
「わたしは、あなたがこの世界でもっとも大胆で、もっとも恐れられていることを理解しているわ。あなたはなんのためらいもなく人を殺せるし、ペンをひと振りするだけで一家をみな殺しにすることもできる。そんなことができるくらい勇気があるのなら、その勇気をかき集めて、わたしに子どもができるまでほんの何度か床をともにすることだってできるはずだわ」
 ふたりはにらみあい、その激しさのあまりそれぞれの意志がぶつかりあうのが目に見えるようだった。
「あなたの体は誰かほかの人に操(みさお)を立てているの?」彼女はきいた。
「まさか」
「あなたの心は?」
「わたしにそんなものがないことは、お互いに納得したと思ったが」
 彼女は上達しつつあるいらだたしげな視線を向けた。「じゃあ、理由を説明して。わたしが理解していないというのなら」
 ドリアンはそれを言葉にすることができなかった。彼女に対しては無理だ。「もう説明しただろう」
 ファラは彼を一瞬じっと見てから片手を伸ばした。
 ドリアンは彼女の手の届かないところまでさがった。
 彼女は思案顔で眉根を寄せた。「ドリアン、最後に誰かがあなたに触れることを許してからどのくらい経つの?」
 彼女の唇に名前を呼ばれて、彼の胃がぎゅっと締まった。彼女に言うことはできなかった。秘密をもらしすぎることなく。「生まれてからずっとだ」彼は答えた。