立ち読みコーナー
目次
480ページ
登場人物紹介
マーガレット・ランドー         伯爵令嬢
セバスチャン・タウンゼント       伯爵家の長男。探偵。別名ヘンリー・レイヴン
ダグラス・タウンゼント         セバスチャンの父親。エッジウッド伯爵。マーガレットの元後見人
デントン・タウンゼント         セバスチャンの弟
ジュリエット・タウンゼント       デントンの妻。ジャイルズの元妻。セバスチャンの一夜の恋人
アビゲイル・タウンゼント        ダグラスの母親
ジャイルズ・ウィームズ         セバスチャンの親友
セシル・ウィームズ           ジャイルズの父親。ダグラスの元親友
エレノア・ランドー           マーガレットの姉。ジャイルズの元婚約者。故人
ピエール                ジュリエットの兄
ジョージ・ランドー           マーガレットの父親。故人
ハリエット               マーガレットの母方の遠縁
ジョン・リチャーズ           セバスチャンの近侍
ティモシー・チャールズ         セバスチャンの子分
レオポルド・バウム           公爵
エドナ                 マーガレットの召使
オリヴァー               マーガレットの召使
168ページ~
「お兄さんとはイタリアで偶然会ったのよ、デントン」とマーガレットは話をつづけた。「同じ宿に泊まっていたの。知らんぷりはできなかったわ、ご家族と親しくおつきあいしていることを考えたら。いろいろあったけれど、この人のことは子どものころから知っているわけだしね。それに、再会してからは、なんていうか、過去は遠い昔のことのように思えたわ。いまはどんな人か知っている——そう、よく知っているの」
 そう言うと、マーガレットはさらに顔を赤らめた。自分がこんなことを言うとは。どんなことをほのめかしたのかと思うと、とても信じられなかった。「だからね」言い繕うように、先をつづけた。「セバスチャンと結婚して後悔はしていないわ」
「ああ、もちろんさ」
 まさかセバスチャンに抱き寄せられるとは思いもしなかったが、実際にそうなった。驚くほどしっかりと抱きしめられた。全身がぴったりと押しつけられ、頰の上のほうまで赤みが差した。胸が騒ぐような奇妙な感覚がまたしてもこみ上げた。彼に抱きしめられても喜ぶ必要はないでしょうに。
 マーガレットはセバスチャンの腕から逃れようとしたが、セバスチャンはさらに強く抱きしめて、耳もとでささやいた。「ここまでは上出来だ。乙女ぶって台無しにしないでくれ。これからキスをする、デントンに見せつけるために。調子を合わせろ」
「ちょっと待って」とマーガレットは息を切らして言ったが、セバスチャンは待たなかった。
 短いキスではなかった。人前でするにははしたないキスだった。たとえ見ているのが弟ひとりだとしても。セバスチャンはマーガレットに両腕をしっかりとまわしたまま、唇を斜(はす)に重ねた。まるで熱を持ったビロードのような感触で、強引に唇を奪われると、マーガレットはすっかり身をゆだねてしまった。キスの衝撃はつま先まで広がった。セバスチャンが舌を差し入れ、マーガレットの歯をこじ開けようとすると、彼の味もした。
 セバスチャンは含み笑いを洩らし、無理強いはしなかった。セバスチャンに流されまいとして歯を食いしばっているからだろう。彼もそれはわかっているのだ。それにしても自然に聞こえるものだ、あの含み笑いは。いや、彼はあえて笑っているのだ、とマーガレットはふと気づいた。ひと芝居打っているというわけだ。どんな感情もこうして思いのままに演じわけられるのだろうか。
 マーガレットはセバスチャンから離れようとしたが、突如として膝から力が抜けてしまった。全身に力を入れて目をつぶり、深く息を吸い、気を鎮めようとした。目を開けると、ふたりの男性にまじまじと見られていることに気づき、またしても頰が熱くなった。こんなことはもう無理よ! 
「ねえ、セバスチャン、人前では行儀よくしないとね」とマーガレットはたしなめるように言った。
「無理だよ。まだ新婚だからね」セバスチャンは微笑みながらそう言った。
 あの微笑み。なぜ彼が昔、魔術師と呼ばれていたのかマーガレットはわかりはじめていた。黄金色の目は意味ありげにこちらに向けられている。あたかも秘密をわかち合う間柄であるかのように。それもそのはずだけれど! とはいえ、デントンにそういう印象をあたえようとしているわけではない。それは確かだ。セバスチャンはわざと行儀が悪い姿を披露し、どう見ても熱々の新婚夫婦だとデントンに思わせようとしている。
 デントンが惨めな結婚生活を送っているからだろうか。セバスチャンが弟に含むところがあるとは思えない。それでも、本当はどうなのか、マーガレットには知りようがない。
 アビゲイルは別として、タウンゼント家の人々はセバスチャンの話をマーガレットにいっさいしない。あるとき、デントンとダグラスが同席している場でマーガレットはセバスチャンの名前を出してしまい、部屋の空気が凍りついたことがある。触れてはいけない話題であるのはまちがいなく、それ以来、マーガレットもけっしてセバスチャンの話は持ち出さなかった。アビゲイルはしょっちゅうセバスチャンの話をするが、とくに意味がある話題ではなく、ただ単に子どものころの思い出話だったり、会えなくて寂しいという愚痴にすぎなかったりした。
 デントンはいま聞いた話にも自分の目で見たことにも喜んでいるようには見えなかった。喜ぶどころか、かなり怒っているようで、それを隠そうともしない。
「父上が戻る前に帰ることだな」冷ややかな口調でそう言った。
 セバスチャンは眉を上げてデントンを見た。「なぜだ? 家族の輪に戻ろうとしてここに来たわけじゃない」
「だったらなにをしに?」
「もちろん、お祖母(ばあ)さまに会うためさ」とセバスチャンは言った。マギーにイングランドへ連れ戻されてから、アビゲイルの顔を見たいという気持ちを抑えようとしていた。「それに、せっかく——」
 最後まで言い終わらなかった。玄関の扉がいきなりひらき、取り乱した男が駆け込んできて、デントンに叫んだ。「また事故ですよ、デントンさま! 道端に倒れておいででした、雨水が大量に流れ込んだ溝に」
 デントンは青ざめた。マーガレットもそうだったが、やがて玄関の外からダグラスが文句を言う声が聞こえてきた。苛立たしげだが、弱々しい声だった。「騒ぐな、自分で歩ける」
「さっきもそれで倒れたじゃないですか、旦那さま」と誰かが言った。
 ダグラス・タウンゼントは結局、自力で歩けず、ふたりの男性の手で運び込まれてきた。ひとりが足を持ち、もうひとりが肩をかかえていた。ダグラス本人は汚れて、濡れ鼠になっていた。そして、どこかから血が垂れている……。
「なにがあったんです?」マーガレットが口をひらくより早くセバスチャンが尋ねた。どうとでも取れる口調に聞こえたが、緊張がみなぎっている気配をマーガレットは察した。
 苛立ちはまだ残っているが、なおも弱々しい声でダグラスは言った。「馬から落ちたようだ」そして、セバスチャンに顔を上げて尋ねた。「誰だ、おまえは?」