立ち読みコーナー
目次
352ページ
はじめに                   003  *  第四章 構造主義の哲学            191
第一章 十四歳からの哲学           013  *  レヴィ=ストロース  ウィトゲンシュタイン
ニーチェ                       *  第五章 ポスト構造主義の哲学         251
第二章 合理主義の哲学            051  *  デリダ  ボードリヤール
デカルト ヒューム カント ヘーゲル         *  第六章 これからの哲学            313
第三章 実存主義の哲学            141  *  あとがき                   345
キルケゴール  サルトル               *
第一章 十四歳からの哲学 ニーチェより(一部抜粋)
が、その試み(※何千年もの間、脈々と受け継がれてきた「常識(価値観)」に反逆し、転覆し、革命すること)ははっきりいって分不相応と言える。だって、彼(※ニーチェ)はただのニート(無職)にすぎなかったからだ。
 もともとニーチェは、若くして文献学の教授となるほどの優秀な男であった。だが、そこで文献学の専門家らしく地道にやっていればよかったものを、彼は古代の文献から現代人が忘れた精神を読み取り、それを取り戻そうという熱いことを論文で訴えかけてしまう。しかも、そのうえで、自分の好きなアーティスト(ワーグナー)の音楽がその精神を体現しているとまで言ってしまった。そのため、同僚たちから総スカン。最後には追われるように大学をやめて無職へと転落する。ようするに、「やっちゃった」わけだ。


歴史に名を残すような偉大な哲学は、十四歳ぐらいの子供が考えそうな「極端な発想」から生まれる。このことを示す実例としてニーチェの哲学(永劫回帰)を紹介したい。

 ニーチェと言えば「神は死んだ」の言葉で有名で、なんかもうこの言葉自体がすでに「ちょっと斜にかまえた中学二年生」が言いそうなセリフではあるのだが、そもそも彼が何について哲学をした人だったのかと言うと、それは「ニヒリズム」についてであった。ニヒリズム(虚無主義)とは何か? それはごく簡単に言えば、次のような考え方のことである。

「神? 正義? そんなもんどっかの頭のいいやつが作り出した噓っぱちでしょ」
「だいたい宇宙なんて何の意味もなくただ存在してるだけで、人間が生きていることに何の意味もないよ」
「それなのに、神さま信じて殺し合いしたり、正義感ふりかざして人を追い詰めたりしてさ、まったくもってバカバカしいね」

 もしかしたら、「あれ? ニヒリズムの言っていることに共感するぞ」と思った人も多いかもしれない。だとすれば、それはニーチェの予言どおり。ニーチェは、こうした考え方を持つ人々、すなわち「神や正義について冷めた態度をとる者たち」が、未来において増えていくだろうと予見したのである。

 ちょっと調子に乗ってやってしまった行為で社会から追放され、無職になった男。
 そんな彼が、ニヒリズム(既存の価値観が崩壊したあとの世界)について考えることはおかしい。考えている当人は何の生産性もなく、何の社会的な貢献もしていない人間なのだから……。それは、今日で言えば、無職のニートが社会を憂いて、社会や政治を批判するブログを延々と更新しているようなものである。それはとても「痛々しい」。
だが、間違えないでほしい。ニーチェは、いわゆるそこらのニートとはスケールのでかさが違う。彼は、二〇〇年先の人類が抱えるであろう精神的な病をなんとかしようとし、西洋世界の価値観をひっくり返そうとしたのだ。宗教(神、究極の理想)が人類の精神安定剤として使えなくなる日を見越し、それに変わる新しい人生観、新しい聖書を作ろうとしたのだ。
 そのハートに僕たちは敬意を払わなくてはならない。いや、敬うだけではない。乗り越えよう。一〇〇年前の彼が、二〇〇年先を考えて哲学をしたのであれば、一〇〇年後の僕たちは、さらに二〇〇年先の人類のことを考えようではないか。
 だから、学ぼう。先人の「哲学」を学ぼう。

で、哲学ってなんなの?
 と、ここで突然流れをぶった切って申し訳ないが、ちょっと核心的なことを問わせてほしい。

「哲学とは何か?」

 もちろん、様々な答えがあるだろう。でもまぁ、たぶんおそらくは、「誰もが納得せざるをえないような強い説明(原理)を探すことだ」「考えること、そのすべてが哲学だ」

 といったあたりが無難で妥当な回答ではないだろうか。
だが、本書では、次のように定義したい。

「哲学とは、『価値』について考えることである。今までにない新しい『価値』を生み出したり、既存の『価値』の正体を解き明かしたりすることである」

 たとえば、ある価値観Xを「常識」として共有する集団がいたとする。なぜ彼らが、価値観Xを「常識」として採用しているのか? 答えは簡単。その価値観Xが、集団のメンバーが生まれる前から存在していたからだ。彼らにとって物心がついたときからすでにあった考え方なのだから、それを「常識」と思うのはむしろ当然のことであろう。
 しかし、逆に言えば、その価値観はあくまでも一世代以上前のものということになる。つまりは、彼らの時代に必ずしも通用するものではないということ。だから、今の時代にあった新しい価値観を誰かが発明しなくてはならないのだが、それは大半の人にとってほとんど不可能、というより、しようということさえ思いいたらないだろう。なぜなら、Xは「当たり前(常識)」だからだ。
 でも、大丈夫。ごく一部の人々が代わりにその「当たり前」に反逆してくれる。その人々とは「天の邪鬼なやつ」「神経質なやつ」「社会的に落伍したやつ」。そういった、はみだしもののどうしようもないやつら……。彼らが、誰に頼まれるでもなく勝手にXについて疑いを投げかけてくれる。

「みんなはXだって言うけどよ。俺は、そうは思わないね」
「Xってよぉー、なんでXなんだよッ? ぜんぜん納得できないだろッ! どういうことだッ! どういうことだよッ! なめやがって! クソッ! 超イラつくぜェ〜〜ッ! !」
「も、もしかして、僕が不幸なのはXのせいなんじゃ……」

 集団の大多数が「そういうものだよね」と言っているのだから、素直に「そうですね」とうなずいておけばよいものを、それができない者たち。彼らは当たり前が当たり前であることに居心地の悪さを感じてしまう。
 それゆえ彼らは考える。考えてしまう。それはもう全人生を費やすほどに……。
 だが、そうであるからこそ、彼らは到達する。

「別にYでもいいんじゃね?」

 新概念。彼らは集団の中に存在しなかった「新しい価値観Y」を創造する。
 もちろん、それは大半の人には受け入れがたい価値観であろう。常識を否定した常識外れの考えだからだ。
 でもその常識(古い価値観X)も時間とともに「時代とのずれ」がどんどん大きくなっていくわけで、いつかはその「ずれ」が致命的な問題として明らかになる日がやってくる。そのときになって、やっと人々は気がつく。

「そうか! Yという考え方、ものの見方もあったんだ!」
「Xの問題が明らかになる前から、Yを考えてた○○ってすげえ!」

 こうして、はみだしものは英雄となり、彼が唱えた常識外れの新価値観は次の時代の常識となる。
 もっとも、そのYもいつかは「Zのほうがいいだろ」と言われて、消えていく運命にあるわけだが……、ともかく、そうした一連の行為―旧世代の価値観を疑い、新しい価値観を生み出すこと―それこそが「哲学する」ということだと本書(著者)は強く訴えたい


実際のところニーチェが書き残したものを現代の目で見てしまうと、稚拙で間違った部分がたくさん見つかってしまうのである。が、それでも、あえて言おう。
 それらの間違いは「まったく問題ではない」と。はっきり言ってそんな「細かいこと」はどうでもいい。なぜなら、もともとニーチェ自身が、永劫回帰を「フィクション」として捉えており、「聖なる噓(方便)」とさえ称しているからだ。
 つまるところ、ニーチェがやりたかったことは「想像しうるかぎり最悪のニヒリズム(既存の価値観がすべて崩壊してしまうような状況)を想定し、それでも前向きに生きていける方法を考え出すこと」であり、ようは「最悪ケースでも使える『新しい哲学』の提示」なのだから、その最悪ケースがフィクションであってもいっこうにかまわない。もっと悪く言えばデタラメであったとしてもよいのだ。
 であるのだから、永劫回帰(フィクション、方便)に細かいツジツマを求めるのはどちらかというと野暮である。それよりも永劫回帰から導き出された「新しい哲学」、その効力のほうに目を向けるべきであろう。

では、その「ニヒリズムを乗り越える哲学」とはいったいどんなものか。
 と、その前に、ニーチェがどのような方法でそれを考えついたのか、そこを見ていこう。
 まず最初にパッと思いつくのは、「あらゆる種類のニヒリズムについて分析し、それぞれについて解決策を導き出していく」という方法であろうか。なるほど、分析的でとても真っ当なやり方だ。
 しかし、歴史に名を残す哲学者は、そんなふうにまともに考えたりはしない。ニーチェのような人間は、もっと大胆に、極端に、そしてちょっと幼稚なことを考える。彼は、こんなことを問いかけた。

「史上最悪のニヒリズムとは何だろうか?」

 あれ? ニヒリズムを打ち砕く「強い哲学」をこれから考えようとしているのに、なぜわざわざ「史上最悪のニヒリズム」なんてものを持ち出してきたのだろう。
 それはつまりこういうことだ。「ニヒリズムAを乗り越える哲学を考える、ニヒリズムBを乗り越える哲学を考える、ニヒリズムCを……」と、さまざまな種類のニヒリズムについて、それぞれ個別に解決していくやり方は確かにまともで有効ではあるが、はっきりいってラチがあかない。それよりも「AよりもBよりもCよりも、どんなニヒリズムよりも強力な、史上最悪のニヒリズム」を想定し、それを乗り越える哲学をひとつ考えるのだ。ようは、「雑魚を一匹一匹相手にしてもキリがない。それより一番強いやつを呼び出して、そいつをぶっ倒す最強哲学を一個考えよう。そのほうが手っ取り早いじゃん」という話である。

ならばいったい、どういう視点、どういう価値観で世界を眺めれば、宇宙のすべてが「くだらないもの」に成り下がるのだろうか。
 そんなことをぶつぶつと考えながら、あるとき湖畔を歩いていたニーチェは、突如、天啓をうける。
「永劫回帰」
 それは何の前触れもなく、ニーチェの脳内に浮かんだキーワード。宇宙のすべてを台無しにする「史上最悪」の思いつきであった。

もちろん現代において「今を大事にしよう」などの言葉はそれほど珍しくもなく、これらの言葉を聞いたことがあるという人も大勢いるだろう。だが、実際に「今」を自覚し、「今」を肯定的に味わいながら生きているものは絶望的に少ない。たいていの人々は、「この今」「この瞬間」を見逃しながら生きている。それはなぜかと言えば、僕たちが採用している常識(生まれたときからあった考え方)が基本的に「未来」に価値を見いだすタイプのものであるからだ。
 目標、理想、幸福……。それら「価値のあるもの」「目指すべきもの」はすべて未来にある。こういった考え方│論理的で合理的な、いわゆる西洋的な思考法│を、僕たちは近代教育の名の下に幼い頃から徹底的に叩き込まれてきた。
 もちろん、だからこそ僕たちは未来に向けて努力したり頑張ったり、「為すための方法」を考えようとするわけで、それ自体はとても有用なことである。が、もしその未来がなかったらどうだろう。
 たとえば、ここにものすごい不幸な男がいたとする。何をやってもうまく行かず、なぜか他人からは憎まれ、愛する者も去り、ついには身体まで動かなくなってきた……という四苦八苦な状態。それほどの状態において、もし彼がいわゆる西洋的な思考を働かせるとしたら、彼は「未来」に向けて解決策を求めなくてはならない。

「諦めるな、なんとかする方法を考えるんだ」

 そうやって思い込み、努力しようとするわけだが、世の中にはどうにもならないことだってある。失った健康も信用もそう簡単に戻るものでもないし、個人の力がとうてい及ばない物事は多々存在する。努力したからって必ず問題が解決するわけではないのだ。
 しかし、それでも彼は「未来」に問題が解決することを願うだろう。なぜならそれしか知らないからだ。
 ゆえに彼は解決を願い、それを成し遂げられない自分自身を「失敗者」として規定することになる。それはまるで、巨木を素手で叩いて倒せないからと言って自分を無価値だと思うような馬鹿げた行為。だが、それが彼の、いや「彼の時代の」価値観なのだから仕方がない。彼は、自分を惨めで無能な敗残者│「不幸」だと思い込む。
 それを気に病んだのか彼の体調はますます悪化。ついには医者から寿命まで宣告されてしまう。とうとう未来すらも奪われてしまったこの絶望的状況。彼は、いったいどうすればよいのか。
 もし彼が今までどおりの価値観で精神の安定をはかるとしたら、無理やりにでも未来を創り出す必要がある。たとえば、都合のよいことが起きて自分が助かる……、もしくは助からずに死んでしまっても死後の世界があり、そこで幸福な日々がはじまるという妄想。
 だが、人間はそんなにバカではない。社会全体でそれを信じていた古い時代ならともかく、現代人はそんな夢みたいな妄想で自分自身を騙すことはできない。せいぜいできて騙されたふりくらいのものだろう。
 もはやこの状況において、未来に価値を見いだす思考は役に立たない。いや、むしろ有害とさえ言っていい。結局、既存の価値観(常識)しか持たない彼は、自分にも世界にも何ひとつ価値(未来)を見いだせないまま、残りの人生を惨めに生きていくしかなかった。
 そんなある日のこと、その不幸な男は激しい痛みのなか、ふいに自身の絶望的な状況を省みて「まったく、しょうがねえなー」と笑った。
 裏目が出すぎて逆に笑いがこみあげてくる。それはよくある日常的な光景。今までだって何度となくあったし、誰にでも起こりうる平凡な瞬間だ。
 だが、この日たまたま彼は驚いた。

「こんなに不幸で惨めで、あと少しで死ぬかもしれないっていうどうしようもない状態なのに……、オレ、今、にやりと笑えたぞ。これって……すごくないか?」

 さぁ、この一瞬を逃してはならない! そう感じられた「今」をとらえて「よし!」と肯定するのだ!
 そして、問いかけてみる。「もう一度『同じ今』を味わいたいか?」と。
 もし、その肯定が真実のものであるならば……、彼は回帰を願うであろう。

「もう一度同じ人生がはじまり、もう一度同じ不幸を味わうことになったとしても……かまわない。これほどの苦難に見舞われ、何の希望もない状況に追い込まれても『ふっ』と笑える……そんな『かっこいい自分』に出会えるなら」

 同じ不幸にあってでも、また「この自分」に会いたい。
 それくらい「今」の自分、「今」の出来事を誇りに思えたとしたら……、彼は自分の人生そのものをすべて肯定できたことになる! だって「繰り返してもよい」と思えるような人生だったということだからだ!
 ゆえに彼は自分自身をこう規定することができる。

「私は繰り返してもよいと思えるほどの人生を送った『幸福』な人間だ」
旧来の価値観では不幸であった彼が、新しい価値観のもとでは幸福となる。常識的な思考│時間について直線的な概念で捉える西洋的な価値観│では解決不能であった不幸でも、新しい考え方、新しい哲学を持ち出せば幸福になりうるのだ。
「未来に向けて努力して、神(正しいこと、幸福、理想)を目指して進もう」という旧来の西洋的価値観。それは困難の前において僕たちを励ましてくれる。

「希望はある。だからそれを目指せ、頑張れ、諦めるな、未来を信じろ」

 だが、解決の見込みのない問題を抱えている人だっているし、ご都合主義の未来を信じられない人だっている。

「ありもしない夢や理想をぶら下げられて走れ走れと追い立てられるのはもううんざりだよ……」

 そういう人たちにとって、西洋的価値観はちょっと息苦しい。
 でも、そんな人たちのためにニーチェが旧来の価値観(常識)を疑ってくれた。彼は新しい価値観をこう語る。
「未来に自分がどうなるかは問題ではない。それよりも、今、この瞬間をどうあるかだ」

「どうなるか(どう進歩するか)」から「どうあるか(どう存在するか)」への転換。それは、地球より大きな隕石が落ちてきて手の施しようもない状況に追い込まれても、取り乱さず、まっすぐに人生を生きていける新しい考え方。「どうなるか(どう進歩するか)」を主題とする古い価値観が使えなくなったときに採用される次の時代の価値観。

 僕たちは驚愕とともに賞賛しなくてはならない。一〇〇年前の人間が、「西洋的価値観」という強者にたった独りで立ち向かっていたという事実に

さわや書店フェザン店 長江貴士さん 要約