立ち読みコーナー
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登場人物紹介
マリアンヌ・ウィンチルシー         准男爵の娘。別名ミナ
ギャレット・ロックウッド          フォーカム伯爵
タマラ                   マリアンヌのおば
サー・ヘンリー・ウィンチルシー       マリアンヌの父親。准男爵
サー・ピトニー・ティアール         ギャレットのおじ。クロムウェルの支持者
ベス・ティアール              ピトニーの妻。ギャレットの父親の妹
ウィリアム・クレイショウ          ギャレットの近侍
アシュトン                 ピトニーが雇ったスパイ。伯爵家の雇われ人
コリン・ジェフリーズ            ハムデン公爵。ギャレットの友人
チャールズ二世               英国王。ギャレットの友人
ティベット                 薬種屋
(P.39~)
 なにげなく視線で伯爵の太ももを上にたどっていったマリアンヌは、彼がいかにあらわな姿でいるかに気づいて、急に愚かな恐怖心を覚えた。マスクの下で頰が染まる。父が裸の男性の治療をするそばで手伝いをしたことは何度もあるけれど、いま目の前にいるのは粗野で汚れた兵士ではない。
 傷を負っていても伯爵は強さをにじませており、自分を怒らせるものはすべて破壊してやろうと待ちかまえている稲妻を想起させた。出血のせいで顔色は青いが、太ももは筋骨隆々としている。マリアンヌが視線をもう少し上へ向けると、ちょうどシーツの陰から毛の広がりがのぞいていて、その中央には——。
 ああ、いったいわたしはなにをしているの? 馬鹿みたいに見とれて。なお悪いことに、伯爵に気づかれた。いまや彼の目はマリアンヌの気恥ずかしい考えまで見透かしているようだった。
「それで?」伯爵が辛辣に言った。「できるか?」
 ほんの一瞬、マリアンヌは彼が脚以外のことを言ったのかと思った。心のなかで自分をいましめる。伯爵がなにも穿いていないことに動揺しすぎだ。「ええ、だけどだれかに薬種屋へ行って、買ってきてほしいものがあるわ」
「店主がまだ留守だったら?」ウィリアムが言った。
「手伝いの子に言えば出してもらえるわ——トリカブトの軟膏を一瓶よ。それからその子に、わたしの帰りが遅くなることをおばに伝えてくれるよう頼んで」
「きみがどこに住んでるか教えてくれれば」とウィリアムが言う。「おれが伝えに行こう」
「だめ!」
 瞬時にふたりの男性から探るような目を向けられて、マリアンヌはどうにかさりげない口調で言った。「そんな面倒はかけられないわ。伝言だけでいいの。それから……その、わたしがだれの手当てをしてるかは知らせなくていいわ。ただ、もう少ししたら帰るとだけ伝えてもらって。タマラおばはわたしの帰りが遅くなることには慣れてるから、それでわかってくれるはずよ」
 ウィリアムが出ていくと、マリアンヌは安堵(あんど)のため息をついた。タマラおばが本当のことを知ったら動揺するに違いない。伯爵の注意を引かないことの重要性を、何度もマリアンヌに指摘してきたのだから。
「なぜぼくの手当てをしていることを言ってはならない?」フォーカム伯爵が尋ねた。その灰色の目は好奇心で鋭かった。
 マリアンヌは動揺を隠しつつ、革袋から大きな針と太い黒糸を取りだした。「申し訳ないけれど、おばは貴族の男性を信用してないの」部分的には事実だ。なにしろタマラおばが認めた貴族の男性はマリアンヌの父だけだったのだから。
 マリアンヌの驚いたことに、フォーカム伯爵は笑った。「ジプシー仲間の男のほうが信用できると思っているのか?」
「ええ、あなたのお仲間の何人かよりは」マリアンヌは言い返した。「ご自身のおじさまへの怒りを考えれば、おわかりでしょう?」
 伯爵がまじめな顔に戻った。「これは痛いところを突かれた。だが貴族の男すべてがぼくのおじのような人間ではない」
 たしかに。かつて母がほのめかしたところによると、タマラおばは一度、貴族の男性に心を傷つけられて、それから貴族を軽蔑するようになったらしいが、それだけではない。おばはほとんどの貴族を弱くて頼りない気障(きざ)男だと思っている。
 マリアンヌがちらりと見ると、フォーカム伯爵は感じているに違いない痛みをうかがわせもしない、落ちついた顔をしていた。伯爵はきっとおばが思うような貴族の男性とは違うのだろう。なおさら残念だ。おかげでマリアンヌの状況はいっそう危うくなる。できるだけ危険を避けていようという計画は、急速に崩れつつあった。
 少なくとも伯爵は怪我をしているので、マリアンヌが逃げなくてはならなくなったとしても追ってこられる心配はない。とはいえこの男性は、もしマリアンヌを追いたいと思ったら、怪我をしていようとしていまいと追ってくるだろうというかすかな予感がした。
 マリアンヌは糸を通したばかりの針を見た。まあ、どのみち今日の手当てが終われば、伯爵は二度と彼女に近寄りたいと思わないだろう。それでじゅうぶん。
 この男性とのあいだにあるものを自分に思い出させようとして、マリアンヌは伯爵が自室にした部屋のなかを見回した。かつてはマリアンヌの両親の部屋だった空間を。父が愛した椅子と書き物机は、ぬくもりのかけらもない新しいクルミ材の家具に取って代わられていた。伯爵の血にまみれた剣が高価なじゅうたんの上に転がり、汚していた。
 伯爵は無慈悲な人殺しで、マリアンヌがもたらそうとしている痛みにふさわしい男なのだ、と心のなかで唱える。それでも彼の脚の下のシーツを染めゆく血を見ると、彼もまた人間で、慈悲を受けるべきだと思わずにはいられなかった。
 いやな作業は早く終わらせようと自分に言い聞かせて、マリアンヌは針を掲げた。