立ち読みコーナー
目次
512ページ
登場人物紹介
●バルフォア伯爵家

アッシャー・マグレガー             長男、七年前から行方不明
イアン・マグレガー               次男。暫定的な後継者
ギルガロン(ギル)・マグレガー         三男
コナー(コン)・マグレガー           四男
メアリー・フランシス(フラン)・マグレガー   長女、シングル・マザー
フィオナ(フィー)・アーシュラ・マグレガー   メアリー・フランシスの娘、四歳

●アルトサクスならびにグリボニー男爵家
ウィラード・ダニエルズ             アルトサクスならびにグリボニー男爵
マシュー・ダニエルズ              長男。軍を除隊し後継者としての準備中
ジーニー・ダニエルズ              長女。イアンの花嫁候補
ヘスター・ダニエルズ              次女
ジュリア・レッドモンド             男爵夫人の義妹。ジーニーの付き添い役で、未亡人
オーガスタ(ガシー)・メリック         男爵の姪。ヘスターの付き添い役

アルバート公                  ヴィクトリア女王の夫君で、マグレガー家のよき隣人
80ページ~
 後ろめたい? そもそもイングランド人とスコットランド人のあいだの、双方に利するところのある婚姻だ。その駆け引きの本質についての意見としては奇妙だ。
「あそこにすわりましょう」ギルは乗馬手袋をはずすとジーニーの手を引いて、すわりやすそうな大きな石へと導いた。ジーニーがギルと並んで腰かけたちょうどそのとき、一条の陽光が彼女の髪をきらりと輝かせた。ギルはハンカチーフを取り出した。「さあ、どういうことなのか、本当のところを聞かせてくれ」
「わたし、あなたを存じあげないのよ、ミスター・マグレガー。それにもし存じあげていたとしても、秘密を打ち明けて負担をおかけしたくないわ」ハンカチーフを受け取り、優雅な仕種で目の周りを押さえた。「こんな見苦しいところをお目にかけてしまって、ごめんなさい。ただ、わたし、こんなふうに結婚したくないだけ。相手がお兄さまでも、両親が選んだほかの方でも」
 目尻からまた涙がこぼれた瞬間、ギルはアッシャーのあとを追ってカナダの原野をめざしたくなった。「イアンはできるかぎり丁重にあなたに接すると思うけど」
 ただし、爵位目当ての愚かな女と交わるときはそういうわけにはいくまい。跡継ぎをはらませるに当たっては、スコットランドの男とその妻の場合なら、おそらく礼儀にこだわってはいられないだろう。
「あの方、わたしと結婚するおつもりだわ」なんとも哀れな声。隣にすわる女性が、ぴんと張った細い糸で最後に残った平静さにすがっているのがギルにもわかった。片手を彼女のうなじにやり、背骨の上端の突き出た骨を親指でやさしく撫でた。びくびくしている猟犬を撫でてなだめるときのように。
「そうか、イアンは金のために結婚しなければならない状況にあるから、あなたは兄が妻を恨んだりないがしろにしたりすると思ってるのか。だが、それは違う」ジーニーはあいかわらず黙ったままだが、ギルには不安がいくらか薄らいでいるように思えた。「イアンとぼくは母が同じで、コンとメアリー・フランもそうだが、みんな母と過ごした年月は短かった。祖母たちともそうだったけれど、ぼくたちは母親というものを敬愛していた。聞いてる? メアリー・フランをぼくたちが敬愛しているのも、彼女がフィオナの母親だからだし、まだ幼いフィオナを敬愛しているのも、いつの日かあの子も母親になるかもしれないからだ」
 ジーニーが目を開けて振り向き、ギルを見た。そのまなざしに、ギルは内臓にパンチを食らったような、肺の中の空気を全部吸い取られたような感覚を覚えた。まつ毛を涙が飾り、青い目はきらきら光り、そこに宿る悲しみといったら……
 ギルは思わず身を引いた。そうしなければ顔に平手打ちを食らうこと間違いなしのやり方で慰めかねなかったし、その結果、求婚が受け入れられる見込みもない花嫁候補のために怒った兄にぶちのめされかねなかった。
「とにかくイアンと話しあわないことには」ギルはジーニーの手を軽くぽんぽんと叩き、絹のような柔肌の感触を遮断している乗馬手袋に腹を立てた。
「そんなことできるはずがないわ」
 ジーニーの体がギルのほうにふわっとかしいできた。ギルはそこですっと立ちあがるほど強くはなかった。立ちあがって馬にまたがり、自分の涙は自分で乾かせとばかりに、レディをひとり残してその場を立ち去ることが彼にはできなかった。ジーニーが頭を彼の肩にのせてくると、ギルは彼女の腰に腕を回した。
「イアンはいいやつさ、ミス・ダニエルズ。最高にいいやつだ。あなたはこの結婚から得るものは兄の爵位だと思っているんだろうが、それは半分にも満たない。あいつはどこまでも高潔で、勤勉で、公平で、正直だ。家族に対しても辛抱強くて寛大で……」そこから声が小さくなってとぎれた。ジーニーがため息をもらしたからだ。頭頂部の髪がギルの頰をくすぐり、薔薇水の香りとあたたかで清潔で女らしいにおいがただよってきた。
「こんなこと、あの方とは話しあえないわ。でもね、事務弁護士とは話しあったの。女はいったん結婚したら、程度の差こそあれ夫の奴隷になる。たとえ契約で夫の行為に制限を加えたところでそうなの。そして人に対して手を上げるよりはるかに残酷な行為だっておこなわれることがある。本当よ、ミスター・マグレガー、お兄さまとわたしはお互いをみじめにするだけ」