立ち読みコーナー
目次
480ページ
登場人物紹介
マーセデス・アナ・ソフィア・ウィンダム     アルデン国の王女
ダニエル・ジェームズ・マキノン         元スコットランド高地連隊少佐
エマリン(エマ)                マーセデスの親友。ローズウォルド王国の王女
アリアドネ(アリー)              マーセデスの親友
ドミニク(ニック)・グレゴリー         リンドハースト伯爵。エマの夫
ライオネル・オンリー卿             準男爵
スミーク                    マーセデスをつけ狙う男
ドゥーガル・キャメロン             農場主
サラ・キャメロン                ドゥーガルの妻
フレデリック                  アルデン国の皇太子。マーセデスの父
ラング                     フレデリックの秘書官
シムズ                     執事
ピーター・ハンス                収監中の政治犯
(p.210~)
「あそこで寝るといい」ダニエルは即席のベッドを示した。「ぼくは焚火の前にすわっている」
「寒くないの?」
「ああ。今夜は暖かいからだいじょうぶだ」
 ダニエルのことばとは裏腹に、太陽が沈んでからは気温がぐっと下がって空気が冷たくなっていた。
 だがマーセデスはそれ以上なにも言わず、かすかにかびと馬のにおいのする毛布のあいだにもぐりこんだ。毛布は暖かく、ダニエルが作った木の枝の“マットレス”は驚くほど寝心地がよかった。
 マーセデスは目をつぶって眠ろうとした。
 ところがなかなか寝つけず、数分後にはまぶたをあけた。星空が目に飛びこんできた。すばらしいのひと言につきる。これほど美しいものはいままで見たことがない。
「ダニエル」自分でも気づかないうちに、彼のことを“少佐”ではなく名前で呼んでいた。
「起きてる?」
 短い沈黙があった。「ああ。眠れないのかい」
「ええ、そうしようと努力したんだけど。星空を見たことがある?」
「ああ、しょっちゅう見ているよ」ダニエルは愉快そうに答えた。
「今夜のは見たかしら。とてもきれいよ」
ダニエルはいっとき黙った。「たしかに……明るいね」
 その声音から、彼が星の明るさだけでなく美しさにも目を留めていることがわかった。ダニエルもこの見事な空に感心しているのだ。
「隣りに来て。一緒にながめましょう」
「ここからでも見えるよ」
「でもこっちのほうがきれいに見えるわ。さあ、早く」
今度は長い沈黙があった。
「そんなことをするわけにはいかない」
「わかってる。いいから来て」
 なにも返事がないので、マーセデスはあきらめかけた。そのときダニエルが静かに近づいてきて、マーセデスの隣りにもぐりこんだ。
 ふたりはならんで夜空を見つめた。
「星に関する本を読んだことがあるけれど」マーセデスは低い声で言った。「こんなに満天の星を見るのははじめてよ。澄みわたった空だわ。見て、カシオペア座よ」
 片方の手をあげて星座を示した。「五つの星がWの形にならんでいるのがわかる?」
「ああ。でもあれがWの字だと思ったことはないな。一方の端の位置がずれているから、Lが反転したように見える」
「そうかしら。ちょっと想像力を働かせてみて」
「なるほど、きみはぼくが想像力に欠けていると思ってるんだな」
 ダニエルはそう言ったが、怒っているようには聞こえなかった。
「ほら!」マーセデスはふたたび空を指さした。﹁竜座よ。竜みたいにくねくねと夜空を進んでる。ギリシャ神話によると、ヘスペリデスの金のリンゴを守っているんですって。でもローマ人は、戦いで負けたあとにミネルヴァから空に投げられたと信じているわ」
「貧相な竜だ」ダニエルは皮肉交じりに言った。「ぼくは北極星のような星に親しみを感じるな。とても役に立つ星だよ」
 今度はダニエルが夜空を指さした。「北斗七星が見える。“肉切り包丁”とも言われているらしい。アメリカ人は大熊座と呼ぶそうだよ」
 マーセデスは夜空に目を走らせた。すぐに大きな柄を形作る三つの星と、イギリス人、この場合はスコットランド人が鋤と呼ぶ四つの星を見つけた。「“大きな荷車”とも言われているそうね。たしかに鋤よりも荷車に似ていると思わない?」
「そうかな。湿った大地を耕す鋤に似ている。子どものころ、あれを使って空になにを植えるんだろうと思ったものだった。オート麦かビレか」
「ビレ?」
「大麦(バーリー)のことだよ」
「あの荷車には、それ以外にもたくさん素敵なものが積んであるんでしょうね」
 ふたりはまた口をつぐんだが、それは気まずさの感じられない心地よい沈黙だった。
「きみの言うとおりだ」やがてダニエルが口を開いた。
「なんのこと?」
「空のことだよ。今夜はとくに美しい。こんな星空はめったに見られない」ダニエルはゆっくり横を向き、マーセデスと視線を合わせた。「これほど美しいものはいままで見たことがない」
 マーセデスの心臓の鼓動が激しくなった。彼が星のことを言っているのではないのはあきらかだった。
 次の瞬間、ダニエルが唇を重ねてきて、甘く情熱的なキスをした。マーセデスの頭からなにもかも吹き飛び、彼のこと以外なにも考えられなくなった。両腕をダニエルの首にまわして自分のほうへ引き寄せ、豊かな髪に指を差しこんだ。
 さっきまで今夜の星空の美しさについて話していたが、このキスほど美しくて力強く、魂を震わせるものはない。人よりずっと長生きしたとしても、無数の星がきらめくこの荘厳な夜、彼の腕に抱かれて過ごしたひとときよりすばらしいものには出会えないだろう。
 このまま時間が止まればいいのに、とマーセデスは思った。いつまでもこうしていたい。
 ダニエルも同じ気持ちらしく、キスが次第に激しさを増してきた。舌をからませて濃厚なキスをしているうちに、マーセデスは燃えあがる情熱の炎で全身を焼きつくされてしまうのではないかと思った。
 彼もまた、このままでは越えてはならない一線を越えてしまうことがわかっているようだ。
 欲望をあらわにして唇を押しつけてくる。まるでこのキスを体に刻みつけておこうとでもするかのように。