立ち読みコーナー
目次
496ページ
登場人物紹介
オナー・カボット              ベッキントン伯爵の継娘
ジョージ・イーストン            故グロスター公爵の婚外子
グレース・カボット             オナーの妹。次女
プルーデンス・カボット           オナーの妹。三女
マーシー・カボット             オナーの妹。四女
ベッキントン伯爵              オナーの継父
レディ・ベッキントン(ジョーン・デヴロー) 伯爵の後妻でカボット姉妹の母親
オーガスティン・デヴロー          ソマーフィールド子爵。伯爵の嫡男でオナーの義兄
モニカ・ハーグローヴ            オーガスティンの婚約者。オナーの幼馴染【ルビ:おさななじみ】
リチャード・クレバーン           ロングメドウの司祭
ジョナス                  ベッキントン家の御者
ハーディー                 ベッキントン家の執事
フォスター                 ベッキントン家の使用人
フィネガン                 ジョージの執事兼従者
サム・スウィーニー             ジョージの事務弁護士兼代理人
65ページ~
 オナーは不安を吞みこんだ。「なかにはいりません、ミスター・イーストン?」
 彼は首をかしげ、彼女を値踏みするように、ボンネットからドレスの裾まで無頓着に目を走らせた。口の片端が上がり、笑みのようなかすかな影が浮かぶ。彼は馬車の取っ手に手を伸ばし、さっとなかに乗りこんできた。彼が反対側の席にどさりと腰を下ろして扉を閉めると、馬車が揺れた。
 オナーの思ったとおりだった。彼の体はこの馬車には大きすぎた。膝が彼女の膝をはさみ、体が座席全体を占める格好になっている。彼は片腕を座席の背に伸ばし、ゆったりとすわっていた。小道に飛び出して来る野ウサギを静かに待つオオカミを思わせる姿だった。
 彼は首を下げた。「ミス・カボット」
「ミスター・イーストン、ご機嫌いかが?」彼女は馬車の天井をたたいて呼びかけた。「公園のまわりを走ってちょうだい、ミスター・ジョナス」それから、天窓を閉めると、客ににっこりとほほ笑みかけた。「来てくださってありがとう」
「こんな尋常ならざる招待をどうして断れる?」その声はなめらかで低く、オナーの胸の奥と下腹部でまたも蝶が羽をばたつかせ、全身にかすかな震えが走った。
 馬車が予期せぬところで曲がり角を曲がった。ミスター・イーストンの膝が彼女の足にぶつかった。彼は何も言わなかったが、それをおもしろがるように笑みを浮かべた。「それで、ミス・カボット?」彼は訊いた。「こうしてぼくがベッキントン家の馬車で公園を走るなんて前代未聞のことになったのはどうしてだい? ぼくを誘惑したいのか? そうだとしたら、喜んでその誘いに乗るよ」そう言って目をドレスできちんと覆われた胸に下ろした。「誘惑は人生最大の喜びだからね」
 オナーは目を下に向け、上着のボタンがきちんとはまっているかどうかたしかめたくなる強い衝動を感じた。
 イーストンは目を上げた。「それで? ぼくは興味津々なんだが」
 てのひらが突然湿り、まだ胸が騒いでいたため、ことばを発することは不可能な気がした。でも、話さなくては。こうして、人生最大の計画を実行する瞬間が訪れたのだから。「力を貸していただきたいんです、ミスター・イーストン」
 彼の片方の眉が上がった。
「あなたのお力を……その、もしよければ」オナーはにっこりした。
 ミスター・イーストンの目がまた彼女の全身に走った。その目は胸に少し長く留まった。
「力を貸してほしいと頼めるほど、お互い親しい間柄だと?」彼はブーツを履いた足で彼女の足に触れた。
「その……」彼女はためらった。
 彼は優位に立ったかのようにほほ笑んでいた。否定する以外に答えはないだろうとでもいうように。
 それはそうだった。その質問には〝いいえ〞と答えるほかなかった。しかし、そのかすかにばかにするような表情を見て、オナーは頼みを口にする勇気を得た。「あなたから百ポンド奪ったのだから、親しい仲だと言ってもいいのではありませんか」
 ミスター・イーストンは笑みを浮かべたまま息をつまらせそうになった。驚くほどきれいな青い目をしている。チャイナシルクの薄い青。この人に押し倒され、下からのぞきこんだら、その目がどう見えるだろうとふと思わずにいられなかった。
「降参だよ、ミス・カボット」彼は言った。「こんなやり方でお願いされたのははじめてだが、きみほどの美人に頼まれたら、断れないな。じゃあ、スカートを上げて、秘められた喜ばしい部分をちらりと見せてもらおうか――」
「え?」彼が何を言っているのかわかって熱いものが体に走り、彼女は息を吞んだ。「いいえ、ミスター・イーストン、勘ちがいなさってるわ!」
「そうかい?」彼はゆったりと笑みを浮かべて訊いた。
「そうよ。力を貸していただきたいのは別のことよ。その……そういうことじゃなくて」彼女はあえぐように言った。
 彼は笑った。「社交界の若い女性が参加する集まりにはあまり出席しないんでね」
 あまりなんですって? オナーは驚いて目をしばたたいた。怒りが湧き起こり、全身のうずく感じがつかのま忘れ去られた。「まったく、ダンスを踊ってほしいとお願いしているわけじゃないわ。舞踏場に足を踏み入れたらすぐにわたしのダンスのカードは埋まるもの」
「すぐにいっぱいになるってわけかい?」彼は皮肉っぽく訊いた。
「つまり、ダンスを踊ってほしいと頼むために殿方と会おうとしたりはしないってことよ。それ以外のことでも」彼女は急いで付け加えた。
「ぼくだって、ダンスを踊ってほしいと頼むためにきみがぼくを呼んだとは思ってなかったよ、ミス・カボット。こうしてここに招き入れてくれたのは、もっとあからさまで……」彼はそこでことばを止め、また彼女をじろじろと見ながら唇に舌を走らせた。「たのしい理由だと思っていた。でも、こうしてここにぼくを呼び出したのは、軽薄な若い娘らしいたくらみのためのようだな。そんなのは――」彼は言った。「つまらない」
 今や心臓は荒々しく鼓動しており、頭はたのしいと思ってもらえる理由を探して忙しく働いていた。「それは変ね」オナーは胸の内で高まる不安を必死で無視しようとしつつ言った。「まるで若い娘がたくらんでばかりって言い方をなさるのね」たしかに、その瞬間、自分がしようとしているのがそうしたたくらみであることを、オナーは強く意識せずにいられなかった。
「それか、寝てばかりいるか。さあ、恥ずかしがらずに言ってくれ」彼はつづけるようにと身振りで示して言った。
「ぼくはたいていの頼みを断らない人間のつもりだ……とくにその頼みごとをぼく自身がたのしめるかもしれないと期待が持てる場合はね」彼の目がまた彼女のボディスに落ちた。
「上着のボタンをはずすんだ」
「いやよ!」オナーはぎょっとすると同時にぞくぞくするものを感じながら言った。
「だったら、この話は終わりだな」彼はそう言って、天井をたたこうとする素振りを見せた。
 オナーが急いで上着のボタンをはずすと、彼は眉を上げた。彼女はわずかに顔をしかめ、上着の前を開いた。
 彼は座席に背を戻し、ゆったりとそれを眺めた。オナーは男の目には慣れっこになっていた。しかし、こんなふうに感じることはなかった。こんなに強烈には。血がどくどくと血管を流れる。自分が彼に驚愕しているのか、興奮させられているのか、オナーにはわからなかった。