立ち読みコーナー
目次
552ページ
登場人物紹介
イソベル・ローズ        スコットランドの地主の娘
ジャック・ケンジントン     ロンドンから来た紳士
アンドリュー・ローズ      イソベルの弟
エリザベス・ローズ       イソベルのおば
ロバート・ローズ        イソベルのいとこおじ。エリザベスのいとこ
グレゴリー・ローズ       ロバートの息子
メグ・マンロー         イソベルの幼なじみ。助産師兼治療師
コール・マンロー        メグの弟。イソベルの幼なじみ。猟場の番人
ハミッシュ           ローズ家の執事
マルコム・ローズ        イソベルの祖父
ファーガス・ローズ       マルコムの弟。ロバートの父親
ミリセント・ケンジントン    ジャックの母親
サットン・ケンジントン     ジャックの父親
アンガス・マッケイ       小作人
137ページ~
 ケンジントンは長いことイソベルを見つめていたが、やがて軽い口調で言った。「ミス・ローズ、これはまた突然だな」
「これから説明します」
「そうだね、どうぞ」彼はデスクの前にある椅子を手で示した。「座って聞いたほうがいい話だと思うけど」
「そうね」イソベルはスカートを両手で握りしめ、震えを隠そうとした。胃のあたりが氷のように冷たく感じる。けれど、いまさら引き返すことはできない。彼女は椅子の端に浅く腰かけ、背中を伸ばし、両手をきつく握りあわせてひざの上におき、しっかりと彼に視線を定めた。「この前あなたは、結婚はしていらっしゃらなくて、そういう話が持ちあがったこともないとおっしゃいました。それに、愛を信じてはいないとも」
「それで、ぼくがきみと結婚したいのだと思ったのかい?」
「いいえ、もちろんちがいます」とっさにイソベルはむっとし、おかげで少し冷静になれた。「契約として結婚することがおできになるんじゃないかと思ったんです」
「ああ、便宜上の結婚か」
「ええ」
「自分の屋敷に残れるのだから、きみにとっては都合がいいだろうね」やわらかい口調でケンジントンは答えた。「だが、ぼくにとって都合のいいことはあるだろうか?」
 イソベルは内心いくらか緊張がほどけた。少なくとも即座に断られることはなかった。「あなたはロンドンに戻ってご希望の生活を再開すれば、ここでわたしがベイラナンを管理して利益をお送りします」
「きみが管理を?」彼の眉が信じられないと言いたげにつりあがった。「それとも、きみの選んだ管理人がするのかな? おそらくあのマンローとかいう男が」
「コールのこと?」イソベルはケンジントンが彼の名前を知っていたことに驚いた。ここで働いている人間に、なんの興味もなさそうだったのに。「いいえ。コールは猟場の管理人よ。なにかと助けてはくれるけれど、長年ベイラナンを管理してきたのはこのわたしです」
 ケンジントンはしばし彼女を見つめながら、ペーパーナイフをもてあそんでいた。「いや、それはすごいことだけど、前にも言ったように、ぼくは土地を売るつもりなんだ。ここの収益がいくらかは知らないが、そのほうがずっと儲かるから」
「即金でということならそうでしょうけれど、長い年月にわたって考えればそうとも言えないわ。よかったら帳簿をお見せします。かなりの収入があって生活できています。アンドリューがいい暮らしをしていたのはごらんになったんじゃないかしら。お金の使い方さえまちがえなければ、生活するにはじゅうぶんで、残りは投資にまわせるわ。重要なのは、価値のある土地を持ちつづけているということなんです」
「不動産管理人をおいても同じことだ」
「その人に報酬を払わなければならないわ。それにあなたは、管理人など信用ならないから、そういう方向には考えられないと言ったでしょう。それが自分の妻となれば、もっと信用できるのではないかしら」
「管理人より信用ならない妻もいるよ」彼の口角が片方、愉快そうに持ちあがった。
「からかっているのね」いつも彼女にかこつけて楽しんでいるかのような彼に、イソベルはむっとした。そんなに純朴だと思われているのだろうか。「人柄については信用していただいてだいじょうぶよ。このあたりの人たちに訊いてくださればいいわ」
「いとしのミス・ローズ、ぼくのようなしがない賭博師が、きみの人柄に物申すだって? 最上級の立派な人間だというのは疑う余地がないね」
「いずれにしろ」イソベルは現実的な話をつけたした。「これまでの数字をお見せするわ。隠してもわかるものね。それにあなたの妻になるのだったら、たとえわたしがお金をごまかしたとしても、そのお金もやはりあなたのものなのだから、ごまかす意味はないでしょう?」
「そうだね」
「あなたがどんな管理人を雇っても、わたし以上にうまくやれる人はいないわ。わたしは有能だというだけでなく、ベイラナンのローズ家の人間ですもの。ここの人たちはわたしに忠実なの」
「なんとなく、脅されているような気がしないでもないな、ミス・ローズ」
「そんなつもりはないわ。単純な事実よ。小作人たちはわたしを信頼しているから、わたしには誠実に対応するわ。管理人では、つねによそ者になってしまう。あなただって、よそ者扱いなのよ」
「もちろん、きみと結婚しなければ、だろう」
「結婚しても、よ」イソベルはふと表情をやわらげて微笑み、スコットランド訛りをきかせてこう言った。「でも、よぞ者の程度がちがうげど」
「だれからもそこはかとなく冷たい目で見られる程度になるというのは魅力的だが、一生縛りつけられるだけの価値があるとも思えないな」
「でも、縛りつけられたりはしないと思うわ」話せば話すほど、イソベルの希望はふくらんできた。彼はまともに耳を貸してくれているように思える。「あなたはロンドンで暮らし、わたしはここで生活する。結婚していなければ得られる自由も、すべて手に入るわ。あなたがなにをしているか、わたしにはわからないし、気にすることもない。ふつうなら存在する束縛にも耐える必要はない。それに、結婚したいという気がなかったのなら、ほかのだれかと結婚したくてあとで後悔するということもないでしょう?」
「ああ、その可能性はほとんどないな」彼は人さし指を唇に打ちつけながら、彼女を少し見ていた。「つまり、きみは従順な妻になると? ぼくに愛人がいてもかまわない?」
「十人いてもだいじょうぶよ」
「それはちょっとばかり疲れそうだな」ゆっくりとつやっぽい笑みが浮かび、その言葉の意味にイソベルの顔はかっと熱くなった。
 しかし、そんなことで当初の目的をはぐらかされてはいけない。イソベルは身を乗りだし、断固としてたたみかけた。「ミスター・ケンジントン、はっきり言わせていただきます。あなたが紳士でないことは、あなたもわたしも承知しています。でも、あなたはお金持ちの若い貴族と賭け事をして身を立てているのだから、紳士としてふるまえれば役に立つんじゃありませんか。上流社会の一員、社交界に属した人間に見せかけることができれば。地所を持っているとなったら、どれほど真実味が増すことか」
「ほんとうに、きみははっきり言うね」先ほどまでは笑っていた彼の目が、いまはじっとりと冷ややかになっていた。
「上品ぶっているひまはないの。すぐにも行動を起こさなければならない状況なのよ。将来、あなたがなになに卿やらどこそこ公爵やらとカードのテーブルを囲んだとき、さりげなく自分の地所はスコットランドだと言えるわ。あるいは田舎の屋敷に〝ご友人〟を何週間か招いて、カードをしたりライチョウを狩ったりもできるのよ」
「だからといって、妻は必要ない」
「でも、妻のわたしがいないと〝ベイラナンは何世代にもわたってつづいているんだ〟なんて言えないわよ。わたしと結婚すれば、同時に尊敬もついてくるの。地位と、家の力が。あなたがここの人たちにどう思われているか気にしないのは、わかっているわ。でも、ロンドンで食い物にする羊さんたちにどう思われるかは大事でしょう? それ以上に、あなたは、彼らに考えられているとおりの紳士になりたいと思っているのではなくて?」ふだんは表情の読めない彼の瞳がきらりと光ったのを見て、推測は正しかったのだとわかった。