立ち読みコーナー
目次
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登場人物紹介
キャサリン・ヤング        神経科医。ミロン研究所の研究者
トム・マッケンロー(マック)   米国特殊作戦部隊の元隊長
ルシウス・ウォード大佐      米国特殊作戦部隊の元指揮官
ジョン・ライアン         米国特殊作戦部隊の隊員
ニック・ロス           米国特殊作戦部隊の隊員
チャールズ・リー         アルカ製薬の研究部門の部長
クランシー・フリン        警備会社経営者。元軍人
キャル・ベアリング        ミロン研究所の警備主任
ロジャー・ブライソン       ケンブリッジ研究所の研究員
ステラ・カミングズ        元女優
ブリジット            妊婦
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 この女は危険だ。
 政府機関を全部あわせても、だれひとりマックの行方を知らないというのに、彼女は知っていた。おそらくスパイで、脅威であることに疑いの余地はない。マックとしては、このキャサリンという女がだれに送りこまれたのか、そしてなぜここがわかったのか明らかになるまでは、彼女を解放することはできなかった。
 ひょっとしたら、彼女が生きてここを出ていく可能性はないかもしれない。
「降りろ」マックはいった。
 マックは荒くれ者たちに厳しい訓練をほどこす。死ぬかもしれない危険な状況へたたきこまれることになる男たちを訓練する。厳しく訓練しなければ、彼らが生き延びることはできない。銃撃戦ではチームの結束力がすべてであり、マックはチームのリーダーだ。部下はどんなときもマックの命令にすぐさま従う。そうしなければならないからだ。不服従は死を意味する。それも、安らかではない死を。
 だから、マックの命令は神の声に等しく、部下たちの耳に突き刺さる。
 それでも普段なら、女に対してはそれなりに穏やかに話しかける。だが、いまは疑念と憤りで頭がいっぱいで、自分の全世界を破壊しかねない相手に穏やかな声で話しかけることなどできなかった。
 美しい女ではあるが。
 マックの厳しいひと声で、彼女は身をすくめた。小さな獣が自分より大きな獣に脅かされたら、こんなふうに反応するものだ。体を丸めて縮こまる。ところが、驚いたことに彼女はすぐに背筋を伸ばし、フードをかぶった頭を高くあげて胸を張った。みずからを鼓舞しようとしているらしい。
 なんと……くそっ。
 マックにも覚えがある。
 危機に陥ったときに自分を励まそうとするのがどんなことかはよく知っている。マックはイエメンで原理主義者の捕虜となり、地獄のような二カ月を過ごしたことがある。頭巾をかぶらされ、状況が読めないなか、いつ何時、喉をかき切られるか後頭部を銃で吹っ飛ばされるかしてもおかしくないということだけがはっきりしていた。いま、キャサリン・ヤングの気持ちがわかるのは、かつて同じ気持ちを味わったからだ。
 この世から退場するのなら、堂々とそうしたい。ああ、その気持ちはよくわかる。いやというほど知っている。
 ほんのつかのま、マックは彼女と一体になっていた。彼女の視線で世界を見ていた。だが、その感覚はすぐに消えた。
 知ったことか。
 同情している場合ではない。彼女のほうからここへ来たのだ。マックを見つけられるはずがないのに見つけた。世界でもトップクラスの専門家が三人がかりで設計したセキュリティシステムを突破して。どうしてそんなことができたのか、さっぱりわからない。
 この女は脅威の種だ――マックにとっても、部下たちにとっても、そしてマックたちが作りあげてきたこのいかれたコミューンにとっても。
「来い」マックはいらだちをこめていった。
 できるだけ早急に尋問する必要がある。顔が青ざめ、見かけこそか弱そうだが、侵略者の先鋒(せんぽう)だということがはっきりしたら、急いで処理に当たらなければならない。彼女の目的と、だれの手先なのかが早めにわかれば、防御もしやすくなる。
 キャサリン・ヤングはひらいたドアから両脚をおろし、ブーツのつま先で地面を探した。ウールのパンツとブーツをはいてくる程度の分別はあったようだ。平均的な身長なのに、脚はまるで首から生えているかのように長かった。そっと足を地面につけ、固さを試している。マックはいらいらして彼女の細いウエストを両手でつかみ、地面に抱きおろした。片方の足で着地する様子は、いまいましいことにバレリーナのようだった。
 抱き心地もいい。
 なんてこった。
 マックは呆然として、大きく一歩あとずさった。そういう感情は、自分にはないはずだ。いまも、そしてこれからも、自分は兵士なのだから。みずから軍隊を去ったのではなく、軍隊がマックを捨てたのだ。
 いまでも心のなかでは自分のものを守る兵士だ。そして、この女は危険を体現している。抱き心地がふわりと軽い。美しく勇ましい。それがどうしたというのだ? むしろ危険性が二倍になるだけだ。
 敵の勇敢さは禍(わざわい)を呼ぶ。それはたしかだ。
 性欲に頭をかきまわされているのだろうか? いままで決してなかったことだ。任務についているときは、性欲は存在しないに等しい。そしてマックにとっては、物心ついてから死ぬまでずっと、生活のすべてが任務だ。もちろん、セックスの相手がいたころは性欲など簡単に処理していたが、一年ほど前からそんな環境ではなくなってしまった。
 この女のせいで気の迷いが生じるなら、手を打たなければならない。それも大至急だ。夜、迷彩柄の乗り物で山をおり、監視カメラのないどこか近場の町で一夜の相手を探さなければ。いや、一晩でこの欲望を解消できるのだろうか。