立ち読みコーナー
目次
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ジェイン・ホイットカム      〈聖フランシス医療センター〉外傷課長
ヴィシャス(V)         黒き剣兄弟団。ヴァンパイアの戦士
ハンナ・ホイットカム       ジェインの妹
ブライアン(ブッチ)・オニール  黒き剣兄弟団。元刑事であだ名は刑事【デカ】
マリッサ             ブッチの妻。貴族のヴァンパイア女性
ラス               ヴァンパイア一族の王
レイジ(ハリウッド)       黒き剣兄弟団
ザディスト(Z)         黒き剣兄弟団。フュアリーと双児
フュアリー            黒き剣兄弟団。ザディストと双児
ジョン・マシュー         言葉が不自由なヴァンパイア戦士の訓練生
ブレイロック(ブレイ)      ヴァンパイア戦士の訓練生
クイン              ヴァンパイア戦士の訓練生
ラッシュ             ヴァンパイア戦士の訓練生
リヴェンジ(レヴァレンド)    クラブ〈ゼロサム〉のオーナー
ゼックス             クラブ〈ゼロサム〉の警備主任者
ベラ               ザディストのシェラン。リヴェンジの妹
コーミア             〈巫女〉
アマリヤ             〈巫女〉
フリッツ・パールマター      〈兄弟館〉の執事
マニュエル(マニー)・マネロ   〈聖フランシス医療センター〉外科部長。ジェインの同僚
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 彼が名前を呼ぶのをやめてくれればいいのにと思った。あの唇から彼女の名前が飛び出すたびに、釣りあげられる魚になったような気がする。彼女には理解できない水のなかを、だんだん引きずられて網にすくいとられる。網にとらわれたら暴れることしかできなくて、しまいには自分で自分を傷つけることになるのだ。
「したくないだろうっていうのは、どうして?」
 彼の胸が広がる。彼女の昂ぶりのにおいを吸い込んでいるのだ。「おれは支配するのが好きだからさ。言ってる意味わかるかな」
「いいえ、わからないわ」
 彼がくるりとこちらに身体を向けると、入口が完全にふさがって見える。自然に目がその股間に向いて、本心を勝手に暴露してくれた。信じられない、勃起している。完全に興奮している。その大きなものの形がはっきりわかるほど、身に着けたフランネルのパジャマのズボンを押しあげている。
 腰をおろしているのに、ジェインは身体がぐらついた。
「〝ドム〞って言葉を聞いたことは?」低い声で言う。
「〝ドム〞……それは……」えっ……「それは、性的支配(セクシヤル・ドミナント)のこと?」
 彼はうなずいた。「おれとセックスするっていうのはそういうことだ」
 思わず口が半開きになり、顔をそむけずにはいられなかった。でないと怒鳴りだしてしまいそうだ。そういう主流をはずれたライフスタイルのようなことには、彼女はまるで経験がなかった。だいたい、ふつうのセックスでさえ大して経験していないのに、そんな過激なことに手を出したことなどあるわけがない。
 どうかしている。けれども彼が相手なら、危険で荒々しいこともいまはたまらなく魅力的に思える。ただおそらくそれは事実上、これが現実ではないからかもしれない。いまはちゃんと目が覚めているとはいっても。
「どんなことをするの」彼女は尋ねた。「つまりその……縛るの?」
「ああ」
 彼がその先を続けるのを待った。だがその気がないようなので、彼女はつぶやくように尋ねた。「ほかにもなにかあるの」
「ああ」
「どんなこと」
「言いたくない」
 ではやはり痛めつけるのだろう。痛めつけてからするのだ。たぶんしている最中にも。ただ……野球帽の彼を、とてもやさしく抱いていたのを思い出した。男性が相手のときはちがうのだろうか。
 最高じゃないの。両刀使いのご主人さまのヴァンパイアで、誘拐がたくみ。このひとにこんな感情を抱いてはいけない理由がこれだけそろっているのに……
 ジェインは両手で顔を覆った。だがあいにく、それでは彼の姿が見えなくなるだけだ。頭のなかで起こっていることからは逃げられない。わたしは……彼が欲しい。
「むかつくわ」彼女はつぶやいた。
「どうかしたのか」
「なんでもない」噓ばっかり。
「噓だな」
 上等じゃないの、彼にはわかっているのだ。「いま感じていることを感じたくないの。これでいい?」
 長い間があった。「それでジェイン、いまどう感じてるんだ」黙っていると、彼はつぶやくように言った。「おれを欲しいと思う自分がいやなんだな。それはおれが変態だからか?」
「ええ」
 考える前に返事が口から飛び出してしまった。ほんとうはそうではないのに。正直な気持ちを言えば、問題はそんな単純なことではないのに……昔からずっと、自分は頭がいいと自信を持っていた。感情を理性で抑え、理屈でものごとを進める能力に、いままで一度も裏切られたことはない。それなのにいまはどうだろう。手を出さないほうが絶対に、絶対にいいと本能が言っているものに恋い焦がれている。
 沈黙が長く続いた。やがて、ジェインは片手をおろしてドアのほうを見た。もう戸口に彼の姿はなかったが、遠くには行っていないという気がした。また身を乗り出して、彼の姿を目にとらえた。壁に寄りかかり、ジムの青いマットを眺めていた。海を眺めわたしてでもいるかのように。
「ごめんなさい」彼女は言った。「あんなふうに言うつもりはなかったのよ」
「いいや、あったのさ。だが、それでいいんだ。おれはおれだしな」手袋をはめた手を握る。無意識にやっているのだろうという気がした。
「正直に言って……」と言いかけて、それきり彼女は口ごもった。彼はこちらに顔は向けなかったが、片方のまゆをあげてみせる。ジェインは咳払いをした。「正直に言って、自己保存本能はありがたいものだから、それに従うべきだとは思うの」
「だけど?」
「だけど……そうできないときもあるのね。あなたが相手だと」
 彼の唇が少し持ちあがった。「生まれて初めて、ひととちがってうれしいと思ったぜ」
「でもわたし、こわいの」
 彼はすっと真顔になった。ダイヤモンドのように輝く目が彼女の目をとらえる。「こわがらなくていい。おれはあんたを傷つけたりしない。ほかのだれにも、なににも傷つけさせたりしない」
 ほんの一瞬、ガードが下がった。「約束してくれる?」かすれた声で言った。
 彼は手袋をはめた手を、彼女が治した心臓のうえに置いた。その口から美しい言葉がほとばしる。理解できずにいると翻訳してくれた。「名誉にかけて、この身を流れる血にかけて、ここにかく誓う」
 その顔から目をそらすと、あいにくなことに壁に並ぶヌンチャクが目に飛び込んできた。フックに掛けられて、黒い握りがチェーンの肩から下がる腕のようだ。いつでも人を殺せそうに見えた。
「いままで、こんなにこわいと思ったことなかったわ」
「くそ……すまない、ジェイン。なにもかもほんとうにすまなかった。かならず家に帰らせるから。いやほんとは、もういつでも好きなときに帰ってくれていいんだ。ひとこと言ってくれれば、すぐに家まで送る」
 ジェインはまたそちらに向きなおり、彼の顔を見つめた。たくわえたひげのまわりに不精ひげが伸びて、以前よりなお恐ろしげに見える。目のまわりの刺青にあの大きな身体。裏道で出くわしたら、ヴァンパイアだと知らなくてもこわくて逃げ出しているだろう。
 それなのにどうだろう、わが身の安全を彼に託して安心している自分がいる。
 これは本心からの感情だろうか。ほんとうは、ストックホルム症候群にどっぷり浸かっているのでは。
 彼の広い胸を見、引き締まった腰を見、長い脚を見た。もう、そんなことはどっちでもいい。なにも要らない、ただ彼が欲しい。
 彼が低くのどを鳴らした。「ジェイン……」
「やめてよ」舌打ちする。
 Vも舌打ちして、次の煙草に火をつけた。煙を吐きながら、「もうひとつ、できない理由がある」
「なに?」
「おれは嚙みつくからさ。自分で自分が止められないと思う。あんたが相手だったら」
 ジェインは夢を思い出した。彼の牙が首筋をあがってくる、あのかすかに引っかくような感触。身体に熱いものが満ちてくる。心では、どうしてあれが欲しいのかといぶかっているのに。
 Vはまた戸口に戻ってきた。手袋をした手に煙草を持っている。その先端から巻きひげのように煙が立ちのぼる。女の髪のように細く優美に。
 視線と視線がからみあい、Vはあいたほうの手を胸に当て、そこから腹部へ、そしてさらに下へおろしていった。パジャマのズボンの薄いフランネルの奥で、高々と屹立しているものへと。彼がそこを手で覆うと、ジェインはごくりとつばをのんだ。