立ち読みコーナー
目次
960ページ
登場人物紹介
エディ・パリッシュ           グラフィックノベル作家。パリッシュ財団理事長の娘
ケヴ・マクラウド            ロスト・ボーイズ・フライウェア創立者
トニー・ラニエリ            ケヴを助けた男性
ローザ・ラニエリ            トニーの妹
ブルーノ・ラニエリ           トニーの姪の息子。ロスト・ボーイズ・フライウェア創立者
エイモン・マクラウド          マクラウド兄弟の父親
ショーン・マクラウド          ケヴの双子の兄
リヴ・マクラウド            ショーンの妻
デイビー・マクラウド          ケヴの兄
コナー・マクラウド           ケヴの兄
マイルズ・ダヴェンポート        マクラウド兄弟の友人
チャールズ・パリッシュ         エディの父親。パリッシュ財団理事長
リンダ・パリッシュ           エディの亡き母親
ロニー・パリッシュ           エディの妹
アヴァ・チャン             ヘリックス社研究所の研究員。脳科学者
デズモンド・マール           ヘリックス社研究所の役員
レイモンド・マール           デズモンドの亡き父親。ヘリックス社の共同創立者
クリストファー・オスターマン博士    X-Cogヘルメットの開発者。脳科学者
ジャマール               エディのアパートメントの上階の住人
トム・ビクスビー            民間軍事会社の経営者
23ページ~
「セーターを脱いでくれないかしら?」
 いきなり言葉が飛びだした。画家がモデルに要求するときと同じそっけない口調だ。エディはすぐにわれに返り、うっかり口から出てしまった言葉があまりに刺激的だったことに気づいた。彼はモデルではないのだ。現に、驚愕の表情を浮かべて固まっている。
「ごめんなさい、気にしないで」エディはあわてて打ち消した。穴があったら入りたいくらい、顔が熱くなっている。「脱がなくてもいいから」
「いや、いいよ、脱いでも大丈夫だ」彼がつぶやいた。だが、その言葉とは裏腹に、かなり落ち着かない様子だ。ゆっくりとセーターの裾に手を伸ばす。止めようとしてエディが口を開きかけた瞬間、彼は勢いよくセーターを頭から引き抜いた。間に合わなかった。
 言おうとしていた言葉が喉に詰まり、すぐに何を言おうとしたのかも忘れてしまった。
 彼の上半身は傷に覆われていた。筋肉質の引き締まった体。肌には網目模様の傷痕が、縦横無尽に気味が悪いほど同じ形で残っている。誰かがこの人の体を切り刻み、火であぶったのだ。
 エディの体が震えだした。
 今さら驚くことではないのに。十八年前のあの日も、大怪我をした彼を見ているのだから。全身血に染まり、顔には水ぶくれができていた。温室育ちの子どもの目にも、彼が傷だらけで火傷を負っているのは一目瞭然だった。
 だが、これほどひどいとは思ってもいなかった。あまりにもむごすぎる。
 心に鋭い痛みが走った。喉が締めつけられ、目が涙でかすんだ。ペンを持つ手が、紙の上で止まったまま動かなくなった。彼がぼやけて見える。
「セーターを着るよ」彼が話しかけてきた。「きみを怖がらせるつもりはなかったんだ」
「いいえ、そのままでいて」エディの声はかすれていた。涙が似顔絵にこぼれ落ち、あごの線がにじむ。エディは新しいページをめくり、指の背で涙をぬぐった。そのとき、指の関節がインクで汚れていることに気づいた。きっと顔にもインクがついて悲惨な状態になっているだろう。でも、どんな顔をさらしていようとかまわなかった。「ええと……描きあげてしまうわ」
 エディは大きく息を吸いこんだ。スケッチブックに視線を落とし、気持ちを静める。たちまち意識の入り口に到達した。
 ふたたびペンが滑りだした。きれいな心だ。彼の心はとても澄んでる。そして今は、レーザービームのごとくまっすぐ一点に向けられている。研ぎ澄まされた心が、ひとつのものにぴたりと照準を合わせている……わたしに……。
 一瞬、息が止まった。エディの全身が硬直した。彼はわたしのことを考えている。衝撃がじわじわと体じゅうに広がっていく。彼の心のなかには、わたししかいない。エディという女だけが、彼の心を独占している。
 だが、彼の表情には変化がなかった。唇はきつく結ばれたままだ。こちらを見てもいない。あえて見ないようにしている気がする。両手を膝に置き、握ったり開いたりを繰り返しているが、そのたびに腕や肩の筋肉が動く。
 欲望。彼のなかで欲望が熱く燃えあがっている。彼が見ているわたしが見えた。彼が意識している部分がわかった。わたしの匂い。わたしの体。わたしの髪。わたしの瞳。わたしの手。彼はわたしに触れたいと思っている。抱き寄せて、自分のものにしたいと思っている。
 なぜわたしなのだろう。なぜ、内気で冴えないこんなわたしがほしいのだろう。男性を惹きつける魅力がないのは、自分がいちばんよく知っている。ドレスアップしたときはそれなりによく見えるので例外だが。このときだけは合格点をもらえる。だけど、人から注目されるのは苦手だ。これまでもずっと、なるべく目立たないように心がけてきた。こんなわたしのどこがいいのだろう。激しい欲望に駆られたことなど一度もないのに、飢餓感にも似た彼の渇望に刺激され、体がうずき始めた。
 エディは息をしようとした。空気がなかなか肺に入っていかない。
 彼の首の筋が浮きでている。太陽が沈み、温度がさがってきた。室内も薄暗くなっている。
 彼の胸には鳥肌が立ち、乳首は色が濃くなり、とがっている。エディはペンを走らせながら、彼の胸に両手を滑らせている自分の姿を想像してみた。てのひらに当たる乳首の感触を。口に含み、舌を這わせたときの感じを。
 なんてこと。彼はこちらが何を思い描いているのか気づいている。喉仏が動いた。固くこぶしを握りしめている。その反応に、エディはぞくぞくするほどの興奮を覚えた。
 そして新たな衝撃。彼には今の気持ちも読み取られている。エディは目を下に向けて、こっそり彼の様子をうかがってみた。ひょっとして……。ああ、どうしよう。やっぱり、思ったとおりだ。
 彼がエディの視線に気づいた。それまで太腿にさりげなく腕をのせていたが、ふいに腕を外側に向けて、てのひらを上にした。そして、ジーンズに包まれた太く長いふくらみをさらす。ふたりのあいだに渦巻くなまめかしい感情や昂(たか)ぶる興奮は、もはや秘密でもなんでもなくなった。
 少なくとも、彼は正直だ。わたしに対して感じている欲望をごまかそうとしない。ある意味、その率直さはエディの気を楽にしてくれた。相手の気持ちを推し量らずにすむからだ。
 エディは唇をなめた。「あの、もういいわ。セーターを着て」息切れしたようなかぼそい声しか出なかった。「寒いから」
「大丈夫だ。寒くないよ」
 エディはうわずった吐息をもらした。「あら、では言い直すわ。わたしが落ち着かないの。顔がほてってしまって。だから、セーターを着てくれないかしら」
 彼は無言のまま、じっとこちらを見ていた。喉仏が上下している。
「ごめんなさい」エディは言った。「あなたの過去は何も拾えなかったの。未来も何も見えないの。ただ、あなたの声が聞こえてきて……」
「そうか。何が聞こえたのかはわかっている」彼が静かな口調で言った。
 エディの頬は真っ赤に染まっている。「それは、その……大きな声だったわ」
「自分を抑えられなかった。きみを怖がらせようとしたわけではない」
「そんなことはわかっているわ」エディは声を荒らげた。なぜ大声を出してしまったのか、自分でもわからなかった。胸がどきどきしているせいか、動揺しているせいか。衝撃を受けたせいかもしれない――だけど、怖いからではないのは確かだ。
 彼が身を乗りだして、かたわらに脱ぎ捨てたセーターに手を伸ばした。「そろそろ帰るよ」そうつぶやく。愚かな真似をしてしまわないうちに。これは心の声だ。エディにはその声が聞こえた。
「だめ、帰らないで!」たちまちパニックに陥り、思わず口走っていた。エディはスケッチブックをテーブルに置いて、彼の前に立った。熱をはらんだ肩にそっと手をのせる。彼の強い生命力がてのひらに伝わってきた。そして、欲望の高まりも。
「帰らないで」エディはささやいた。