立ち読みコーナー
目次
528ページ
登場人物紹介
エリン・プラスキ         私立探偵。パートタイムのバレエ教師
ボウイ・リチャーズ        FBI特別捜査官
ジョージィ・リチャーズ      ボウイの娘
エドワード・ケンダー       イェール大学教授。エリンの依頼人
ディロン・サビッチ        FBI特別捜査官
レーシー・シャーロック      FBI特別捜査官。サビッチの妻
ジミー・メートランド       サビッチの上司。FBI副長官
カスキー・ロイヤル        製薬会社シーファー・ハートウィンの米国支社CEO
カーラ・アルバレス        同米国支社製造部長
ジェーン・アン・ロイヤル     カスキーの妻
ヘルムート・ブラウベルト     シーファー・ハートウィン・ドイツ本社渉外係
アドラー・ディフェンドルフ    同ドイツ本社最高責任者
ベルナー・ゲルラッハ       同ドイツ本社製薬部門営業責任者
アンドレアス・ケッセルリング   ドイツ連邦情報局(BND)捜査官
デビッド・ホフマン        合衆国上院議員
ニッキィ・ホフマン        ホフマンの亡き妻
アレックス・バレンティ      合衆国副大統領
(9ページ〜)
 車の音はCEOのオフィスの大きな窓のすぐ下で停まった。窓に駆け寄って下を見ると、シルバー色の大型車レクサス――カスキー・ロイヤルの愛車だった。
 日曜のこんな夜遅くになにをしにきたの?
 いや、そんな悠長なことを考えている場合じゃない。いま見つかったら、私立探偵の免許があろうとなかろうと、問答無用で派手な黄色のジャンプスーツを着せられてしまう。エリンはUSBメモリを差し込んで、会社のパスワードを探った。彼が来たからには、こうするしかない。印刷メニューを押すと、高速プリンタから続々と用紙が吐きだされた。
 ファイルのサイズを見てなかった。何万ページもあったら、どうしよう? 必要な情報を出力するだけの時間がないかもしれない。いいえ、だいじょうぶ、そのぐらいの時間はある。CEOのカスキー・ロイヤルといえども、ここまで来るには、ロビーに控えている守衛のもとに立ち寄って、署名をしなければならない。
 印刷が終わった。よかった、わずか十九枚だった。エリンは出力した用紙を黒いジャケットの内側にしまうと、ファスナーを首まで上げて、プリンタの電源を切り、USBメモリをポケットに戻して、コンピュータを終了した。椅子をまっすぐにして侵入時と変わりがないことを確認してから、ドアに急いで、耳をすませた。長い廊下の向こうから声がする。ロイヤルと女の声が近づいてくる。
 まずい。
 プランBに切り替えなければ。つねに代替案を用意しておく大切さを頭に叩きこんでくれたのは父だった。どうやらロイヤルと女は言い争っているようだ。エリンがドアに耳を押しあてると、女の声がはっきり聞こえた。「わたしにこんなことをさせるなんて、まだ信じられないわ、カスキー。どうしてこんなことしなくちゃならないの?」
「カーラ、これから勘定しきれないほど大金が転がりこんでくる。控えめに見積もっても、十五億ドルが棚ぼた式に手に入るんだ。すでにこの半年で十億ドル近い売り上げがあった。それが元手をかけずに、天からの授かり物のように転がりこんできたんだよ」
「でも倫理に反するわ。それに危険よ、違法行為だもの」
「今回だけ手を貸してくれ、カーラ、六桁のボーナスを約束する。それに、そうやきもきするな。なにも起きない、危険なものか」
「でも――」
 ロイヤルがいらだたしげにさえぎる。「きみにもわかっているだろう、カーラ。特許切れのキュロボルトには、ほとんど儲けがない。一度の化学療法で十五ドル、たったの十五ドルだぞ。現実を見ろ。食品医薬品局(FDA)が異常を突きとめるには、時間がかかる。圧力が高まったころには、がっぽり儲かっている。それに、わかるだろう、いまのところ圧力などないようなもんだ。FDAから届いた問いあわせの手紙が一通に、薬不足に関する記事がいくつか新聞に出ただけだ」
 ふたりの声が近づいている。危険だが、ドアから離れられない。幸運と不運がいちどきにやってきた。声の主は製造部長のカーラ・アルバレスにまちがいない。話の内容から察するに、カーラは長らく蚊帳の外に置かれてきたが、さりとて、この先、不正行為を阻止するとも思えなかった。
「なあ、カーラ、今回の件には目をつぶってくれ。その唇、早くキスしたくてたまらんよ」
 ちょっと待って。アルバレスとロイヤルがそういう仲? ロイヤルを中心とする経営陣について調べたときは、そんな噂は入ってこなかった。知っている人はいるの?
 カーラが言った。「案外早くFDAがシーファー・ハートウィン社に襲いかかってくるかもしれないのよ。キュロボルトが不足しているのは、計画ミスと、それに――そうよ――わが社の工場拡張に伴う問題ですって? そんな言い訳を誰が信じるの? もう少しましな説明はないの? 目の敵にされても銀行程度だろうと、たかをくくってるんでしょう?」
 いよいよふたりが近づいきた。ドアまで三メートルを切っている。いつ部屋に入ってきて大きな革製のソファに向かってもおかしくない。「そこがこの計画のすばらしいところさ」ロイヤルが忍び笑いをしている。「拡張に伴う問題を抱えているのは、ミズーリ州の工場だとしても、追究の矛先は海の彼方のドイツ本社に向かう。だから、カーラ、今夜はもう考えるのをやめよう。時間がもったいない――」
「でも、もし――」
 驚きに満ちた女の声。衣擦れの音、そして、低いうめき声。
 荒い息。キスをするときの空気を吸いこむ音。みだらなあえぎ声。残念ながら、仕事の時間は終わったらしい。エリンはここへ来る前に見取り図を確認し、非常事態に備えて脱出ルートを頭に入れてきていた。ふたりが廊下で行為に走らないかぎり、一分とたたずに非常事態に突入する。エリンはオフィスに隣接するバスルームに走り、なかにすべりこむと、そっとドアを閉めた。ガラスブロックで囲われたシャワーブースに入り、天井近くにある小さな窓を見あげた。見取り図から想像していたよりも小さくて高い位置にある。あんなところによじのぼれるだろうか? オフィスのドアが開く音がした。