立ち読みコーナー
目次
504ページ
登場人物紹介
ジョン・ポール・ケラー(ニコラス・エドワーズ)     殺し屋。リフォーム会社を経営。
ドット(ドロシア・ハービソン)             殺し請負いの元締め
ジュリア                        ケラーの妻
ジェニー                        ケラーの娘
ドニー・ウォーリングズ                 リフォーム会社の共同経営者
クローディア                      ドニーの妻
ポーシャ・ウォルムズリー                ダラスの高級住宅地に住む夫人
アーヴ・フェルズパー                  ニューヨークに住む切手の蒐集家
ポール・ヴィンセント・オハーリヒー           テサロニケ修道会の大修道士
マイケル・アンソニー・カーモディ            ある事件の重要証人
カリーナ                        カーモディの妻
ディニア・ソダリング                  ワイオミング州シャイアン在住の切手蒐集家の未亡人
マーク                         遺産相続人に指名された少年
74ページ〜
 スーツケースの荷解きを終えると、ケラーは妙にこのホテルの部屋から出たくなくなっている自分に気づいた。テレビをつけ、チャンネルをあちこちまわしてみた。が、興味をそそられるような番組はやっていなかった。ベッドに寝転がり、すぐまた起き上がった。部屋にあるすべての椅子の坐り心地を確かめもして、最後に自分に言い聞かせた。慣れるんだ、と。いったい何に慣れなければならないのか。それはよくわからなかったが。それでも、その答をホテルの部屋の椅子にじっと坐って見つけるつもりはなかった。あるいはベッドに横になったり、部屋の中を歩きまわったりして見つけるつもりも。
 エレヴェーターの中でひとつの答が頭に浮かんだ。ニューヨークとその周辺で長く暮らしていたケラーには、ニューヨークのホテルに泊まる機会などこれまで一度もなかった。そんなことをする理由がどこにある? 彼は一番街四十丁目界隈のすこぶる住み心地のいいアパートメントを何年も所有していた。市(まち)を離れたり、気の合った女性から一夜のベッドに誘われたりしないかぎり、そのアパートメントが彼の寝場所だった。
 現在、彼の人生における女性は、気が合うとか合わないとかとは関係なく、妻のジュリアだけだ。今の彼はニューオーリンズのロウワー・ガーデン地区にある彼女の家で暮らしている。ニューオーリンズでの彼の名前は――さらに言えばどこへ行こうと――ニコラス・エドワーズ。仕事は住宅のリフォーム会社の共同経営者。今はハリケーン・カトリーナ後の住宅の修繕やリフォームをやっている。その会社のビジネスパートナーからはニックと呼ばれ、仕事仲間からもそう呼ばれている。ジュリアはニコラスと呼んでいる。ふたりで親密な時間を過ごすとき以外は。そういうときにはたまにケラーと呼ぶことがある。
 それも今では少なくなった。いや、親密な時間を過ごすことが少なくなったということではない。そういうときにもニコラスと呼ぶことが多くなったということだ。しかし、そのどこがおかしい? それが今の彼の名前ではないか。ニコラス・エドワーズ。それがルイジアナ州発行の運転免許証にも、アメリカ合衆国発行のパスポートにも記載されている彼の名前だ。財布にはいっているクレジットカードも身分証明書も全部その名義になっている。なのに、彼がニコラス・エドワーズではないなどとどうして言える? 妻が法的に正しい名前で夫を呼んではならない理由がどこにある? 
 娘のジェニーからはパパと呼ばれている。
 ジェニーとジュリアが恋しかった。そのことに気づき、すぐに馬鹿げたことだと思った。その日の朝、ケラーはふたりに空港まで送ってもらっており、別れてからまだほんの数時間しか経っていないのだから。それに仕事が忙しいときにはもっと長いことふたりに会わないこともある。もっとも、今は景気がこんな状態なので、忙しい平日はめっきり少なくなってしまったが。実際のところ、そのことと今回のニューヨーク訪問とはいくらか関係のあることではある。しかし、それでも……
 何を考えてるんだか。彼は自分にそうつぶやくと、頭を振り、ロビーを抜けて通りに出た。
 
ケラーが宿泊しているホテル〈サヴォヤード〉は六番街と西五十三丁目通りが交差する角にあった。彼はとくと現在位置を確認すると、アップタウンに足を向けた。ホテルから二ブロック歩いたところに〈スターバックス〉があった。カウンターの脇に並んで順番を待っていると、二の腕にヘビを巻きつかせた若い女性――まあ、生きているほんとうの爬虫類ではなくて、ヘビのインク版だが――が自分の注文するラテに何を入れて何を入れないのか、店員(バリスタ)に正確に実に念入りに説明していた。一杯のコーヒーの中身にそれほどまでこだわるというのは、ケラーの理解を超えていた。が、それはタトゥーを入れることについても言えた。だから気にしないことにして、自分の番がまわってくると、ブラック・コーヒーの“スモール”を頼んだ。
「“トール”でよろしいですね」とバリスタは言った。そのバリスタもこれ見よがしにタトゥーを入れていた。これ見よがしに顔のあちこちに穴もあけていて、ケラーの返事も待たずにコーヒーをいれた。ケラーとしてはそれでよかった。なんと答えればいいのかわからなかったので。テーブル席は全部埋まっていたが、コーヒーが飲みごろになるまで立って待てるカウンター席が空いていた。彼はそこに立ち、コーヒーが飲める温度になると飲み、飲みおえると店を出た。
 店を出たときには、ホテルの部屋をなかなか出る気になれなかった理由をもうひとつ思いついていた。ニューヨークでホテルに泊まることに不慣れな彼は、当然この市(まち)のホテルが客に課す宿泊料金にも不慣れだった。〈サヴォヤード〉はなかなかにいいホテルだったけれど、宮殿さながらとまでは言いがたい。にもかかわらず、チェーンホテルの〈デイズ・イン〉と変わらない狭い部屋なのに、五百ドル近くもしたのだ。
 それだけの額を払ったら、その分もとを取りたくなるものだ。部屋から一歩も出なければ、一時間あたりの料金はたった四十ドル。一方、寝るかシャワーを浴びるかすることにしか使わなければ……
 ケラーは五十六丁目で六番街の西側に渡り、五十七丁目で左に曲がった。ブロックを三分の一ほど行ったところにあった腕時計とイヤリングを売る店のまえで足を止め、ショーウィンドウをのぞいた。以前、テレビショッピング(QVC)で、ある女性が別の女性に“イヤリングというのはいくら持っていても持ちすぎるということはないのよ”と言っているのを聞いたことがあったが、ケラーにはそのことばもあらゆる意味においてヘビのタトゥーと同じぐらい不可解だった。
 ことさら興味があってイヤリングを眺めていたわけではなかったので、ほどなく振り返ると、今度は五十七丁目通りの向かい側に眼をやった。西五十七丁目一一九番地はちょうど通りをへだてた真向かいだった。ケラーはその場に立ったまま、真向かいのオフィスビルに出入りする人々をとくと眺めた。人が来ては去っていたが、見覚えのある顔はひとつもなかった。もっとも、五十七丁目通りはマンハッタンを横断する広い通りのひとつだから、行き来する人々の顔まではっきり見えていたわけではなかったが。
 そのときはたと気づいた。問題はホテルの部屋ではなかった。部屋の料金でも、ニューヨークのホテルにいるという目新しさでもない。部屋から出たくなかったのは、ニューヨークで公の場に出るのが怖かったからだ。
 この市(まち)には彼がケラーであることを知っている人々がいるからだった。ほかならぬそのケラーがある日アイオワ州デモインで、大統領選出馬に意欲を見せていた、カリスマ性と人気を備えた中西部(ミツドウエスト)の知事を暗殺したことを知っている人々がいるからだった。