立ち読みコーナー
目次
608ページ
ヴィクトリア・アバーマール         両親を亡くした貴族の娘
ラファエル・カーステアズ          男爵家の次男。シーウィッチ号の元船長
ダミアン・カーステアズ           男爵。ラファエルの双子の兄
エレイン・カーステアズ           ダミアンの妻。ヴィクトリアの従姉妹
ダマリス(ダミー)・カーステアズ      ダミアンとエレインの娘       
ロロ・カルペッパー             シーウィッチ号の一等航海士。ラファエルの旧友
フラッシュ・セイヴァリー          ラファエルの従者
ライオネル(ライアン)・アシュトン     セイント・リーヴェン伯爵。ラファエルの旧友
ダイアナ・アシュトン            ライアンの妻
レディ・ルシア               ライアンの大おば
フィリップ・ホークスベリー(ホーク)    ロザミア伯爵
フランシス・ホークスベリー         ホークの妻
シャンドス侯爵               ホークの父親
デヴィッド・エスターブリッジ        ヴィクトリアの元求婚者
スクワイア・ギルバート・エスターブリッジ  デヴィッドの父親。大地主
〈ザ・ラム〉                〈ヘルファイア・クラブ〉のリーダー。正体不明の男
76ページ〜
「きみ、名前は?」
 その奇妙な質問を、ヴィクトリアはぼんやりと聞いていた。だが痛みがひどく、しばらく何も言えなかった。あまりの痛みと絶望。だが、そのとき気づいた。妙だわ。彼の声が、いつもと違う。洗練されたなめらかな口調ではなく、ざらついている。いまの服装みたいだ。
 彼女はようやく声をだした。「こんどはなんのゲームをしようっていうの?」
「ゲームなんかしてないよ。ただ、きみをここから安全に帰してあげようと思っているだけだ。きみの恋人はどこ?  なぜ、恋人がこないんだ?」
「恋人なんかいません。よくわかってるくせに」
 ラファエルはかぶりを振った。何か、見落としている。「いいかい、お嬢さん。なんの話をしているのか、ほんとうに見当もつかないんだよ。きみは怪我をしている。手当をさせてくれ」
 彼女は身を起こし、また膝をついたが、太腿の痙攣は強まるばかりだった。彼女は横に倒れ、身を丸め、すすり泣きを漏らした。あんなに頑張ったのに。必死で頑張ったのに。
 ラファエルは、夜陰のなか、彼女の顔立ちをもっとよく見たいと思った。だが、そんなことはあとでいい――その声から、彼女がおびえていることがよく伝わってきたからだ。おまけにヒステリーを起こしている。それだけわかれば充分だ。彼は苛立ちをつのらせながら考えた。この娘ときたら、こんな人気のない場所にひとりでやってくる神経をもちあわせながら、急にへたばってしまうとは。彼はつとめて落ち着いた声をだし、なだめるように言った。「もういちど言う。ぼくはきみを傷つけたりしない。さあ、どこか安全であたたかい場所に連れていってあげよう。きみは、怪我をしてるんだから」
 ヴィクトリアは息をこらした。彼は苛立っているけれど、怒ってはいない。いったい、どうしたのかしら。そのとき、彼に触れられ、身をすくませた。
 彼女は顔を上げた。「どうやってわたしを見つけたの?  こっそりと用心深く、逃げてきたのに」
「きみを見つける?  きみをさがしてなんかいないさ。まったく、なんだっていうんだ?  頭でも打ったのか?」
「お願い、嘘をつくのはやめて。あなたの勝ちよ。もう、わたしにできることはない。やっぱり、あなたから逃げるのは無理だった。よくわかってるくせに」
「嘘なんかついてない。きみ、足首を捻挫した?」
 もうたくさん。わたしをもてあそんでいる。いじめっ子みたいに。「もう、何を言っても無駄ね」と、彼女は敗北を認め、挫折と疲労をにじませた声で言った。「用がすんだら、そのあとは、ここに置きざりにしていって」
「用がすむ?  きみに何をするっていうんだ?  やっぱり、頭を打ったんだな?  自分の名前を言えるかい?」
「もう勘弁して!  ああ、あなたにはぞっとする!」
 ラファエルはのろのろと立ちあがり、ベルトにピストルを戻した。そして彼女にというより、自分に向かって言った。「ご婦人の命を救ってやったのに、怒鳴り散らされるとはね。あのね、お嬢さん、いくらぼくにぞっとしても、ここに置きざりにされたくても、そんなことをするほど、ぼくは悪党じゃない。いい加減、ヒステリーを起こすのはやめてくれ。アクスマウスに連れていってやろう。ぼくたちふたりが泊まれる宿がある」
「冗談はやめて。ほかの女の人をそこに連れこんだことがあるんでしょ」
「ほかの女――」その先は繰り返さなかった。よほど強く頭を打ったのだろう。脈絡のないことばかり並べたてている。「名前を教えてくれるとありがたいんだが」
「そうはいかないわ、ダミアン。あなたとは、ぜったいに、どこにも行きません」
 ダミアン。
「そういうことか」と、彼は低い声で言った。ふいに真実を突きつけられ、驚愕した。兄さんがこの娘を追いまわしていたのか?  彼はおもむろに断固とした口調で言った。「だまって聞くんだ、いいかい?  やれやれ、ぼくのことをダミアン・カーステアズだと思ったんだね?  ドラゴ男爵だと?」
「きまってるでしょ。からかわないで」
「そうじゃないんだよ。いや、つまり、からかってないってことさ。あのね、ぼくは双子の弟のほうなんだよ。ラファエル・カーステアズ。で、きみの名は?」
「双子の弟?」彼女は呆気にとられ、彼の顔をまじまじと見た。ダミアンに双子の弟がいるのは知っていたが、子どもの頃の肖像画しか見たことがなかった。そのうえ、彼女が〈ドラゴ・ホール〉で暮らすようになってから五年がたつというのに、いちども彼の顔を見たことがなかったのだ。
「ああ、双子だ。どうやら、兄がきみのあとを追いまわしていたようだね。そしてきみは、兄から逃れようとしていた」
 ヴィクトリアは大きく息を吐き、呼吸を整えた。「ええ。そうしたら、突然、あなたがやってきたの。てっきりダミアンだと思ったわ。瓜二つなんですもの」
「だから、外見で人を判断しちゃいけないのさ。で、きみの名は?」
「ヴィクトリア・アバーマール。エレインのいとこよ。五年前から〈ドラゴ・ホール〉で暮らしているの」
 ラファエルはにっこりと彼女に微笑みかけ、膝をつき、片手を差しだした。おずおずと、彼女がその手をとった。「はじめまして、ヴィクトリア。なんだか厄介事に首を突っこんだようだな。仕方ない、いちどにひとつずつ、問題に対処していこう。ぼくと一緒にくるかい?  足首を診てもらわないと。捻挫したんだろう?」