立ち読みコーナー
目次
608ページ
登場人物紹介
ニコラス(ニック)・ドラモンド    ロンドン警視庁の警部
マイケラ(マイク)・ケイン      FBI特別捜査官
フォックス(キツネ)         美術品窃盗犯
サリーム・シング・ラナイハン     美術品収集家
マルベイニー             フォックスの師
イレイン・ヨーク           ロンドン警視庁の警部補
ディロン・サビッチ          FBI特別捜査官
レーシー・シャーロック        FBI特別捜査官。サビッチの妻
ボー・ホーズリー           ニコラスのおじ。警備会社勤務
アンドレイ・アナトリー        美術品収集家。ロシアン・マフィアのボス
ビクトリア・ブラウニング       メトロポリタン美術館の展覧会のキュレーター
グラント・ソーントン         ロンドン塔の衛兵
ピエール・メナール          スイス連邦警察官
(56ページ〜)
 ニコラスはおじを凝視した。「盗まれた? コ・イ・ヌールが? そんなはずがあるわけない。あの呪われた宝石を盗むのは不可能です。それに美術館のセキュリティは絶対に破られないはずなのに。何があったんですか?」
 ボーがお手上げだとばかりに首を横に振った。「あのダイヤモンドを盗むのは不可能だとわたしも思ってた。ところが、実際に消えたんだ。偽物にすり替えられてた。十年ほど前に英国王室の許可を得て、キュービックジルコニアでコ・イ・ヌールの模造ダイヤが二個制作されている。美術館にあるダイヤモンドはそのうちのひとつとすり替えられていたんだ。朗報は、いつすり替えられたかの見当はついてることだ――昨日、停電があった。すべてのコンピュータに監視カメラと通信手段が丸々五分間ダウンして、その後同じように突然復旧した。館内の貴重な美術品はひとつひとつ確認されて、〈ジュエル・オブ・ザ・ライオン〉展の展示室はわたしが直接調べた。しかし、王冠のダイヤモンドに触れられた形跡はなかったんだ。館内のものはすべてあるべきところにあった。それで停電は電気系統の問題が原因で、意図的に仕組まれたものではないという判断をくだした。
 そこに展覧会のキュレーターのドクター・ブラウニングに、アリゾナのピーター・グリズリーという名の男から連絡が入って、彼が所有するコ・イ・ヌールの模造ダイヤふたつが盗まれたと知らせてきた。ドクター・ブラウニングは事を荒立てずにすぐさまわたしのもとへ来た。何かがおかしいと心配してね。彼女の意見でダイヤモンドを鑑定すると、果たして、コ・イ・ヌールは偽物だと判明した。
 いきなり顔面に頭突きを食らったようなものだ。できる限り手を尽くしている。だが一世一代の展覧会が開催される直前に、われわれアメリカ側の管理下でこんなことが起こるだと? 災難どころの話じゃない。第三次米英戦争が勃発しかねない事態だ」
 おじの言葉は大げさとは言えない。
「ボーおじさん、アメリカ政府にとって戦争よりも始末が悪いのは、世界中のメディアからの総攻撃です。外部の者の犯行ではありえないことはわかっているでしょう。停電のあいだの居場所が判明しないスタッフはもう突きとめたんですか?」
「真っ先にやった。どこにいたかは全員把握できている。かかわってるスタッフは多くない――クラウン・ジュエルの展示室に出入りできるのは、美術館の担当職員と、保険会社の代理人だけだ。言うまでもないが、担当者だけでなく、職員全員、そのペットに至るまで徹底的に調査した」言葉を切ってから、重い声で静かに告げる。「停電中、どこにいたかわからない者がひとりだけいた。イレインだ。そして、今や彼女は死んでいる」
 この会話が向かっている方向を察し、ニコラスは慎重に言った。「ダイヤモンドは美術館から盗まれたとは限りません。イングランドを出発する前か、輸送中にすり替えられた可能性もある」
「そうであればよかったんだが。ドクター・ブラウニングとイレイン、それに保険会社から派遣された専門家が、コ・イ・ヌールがメトロポリタン美術館に到着した際に本物であることを確認してる。盗難が到着後なのは間違いない」
 サビッチが言った。「ダイヤモンドをすり替えたのが誰であれ、巧妙な早業だ。侵入された形跡はまるでなし。展示室に人がいた痕跡すら残ってなかった。つまり盗難が発覚する予定ではなかったんだろう。ピーター・グリズリーがドクター・ブラウニングに模造ダイヤが紛失したと連絡しなければ、危うく盗まれたことに気づかないところだったわけだ。そして今はそのひとつが、王太后の王冠の真ん中に堂々と飾られてる」
 ニコラスは尋ねた。「停電は実際単なる事故で、すり替えられたのはその五分以外のあいだとは考えられないんですか?」
 ボーが応じる。「ニック、どうやればそんなことができるのか、わたしには想像もつかないよ」
「ロンドン塔にある宝物館のセキュリティの厳重さはご存じですよね。衛兵は長い軍歴を有する者ばかりで、恐ろしく屈強だ。あそこでダイヤモンドがすり替えられることは万にひとつもありえません」
「わたしが率いる美術館の警備員も、警察の部隊と同等だ。全員が武器を携帯し、宝石が到着してからはさらに警備を固めてる。よく油を差してある機械と同じで、何かあればたちどころに反応する。ニック、警備員のことならこのわたしがきわめてよく知ってる。ダイヤモンドのすり替えに関与してる者はいないと断言しよう。それでも、改めて調査は行う。さらに丹念に調べて――これ以上丹念に調べるのが可能ならだが、まずはわが社の警備員から始めて、次はその恋人や友人関係、そして美術館の残りのスタッフと、考えられる限りの者に当たろう。全員が捜査対象だ。しかし結論から言えば、これは天才的な盗みの腕を持つ怪盗の犯行ということだ」
 ニコラスは言った。「美術館のセキュリティについて聞かせてください、ボーおじさん」
 答えたのはサビッチだ。「ここに導入されている生体認証システムはおれが薦めたものだ。展示室に入るのにも、指紋認証と二種類のカードキーを必要とする。それに展示ケースには暗証番号がシャッフルされるシステムを採用してある」
 シャーロックが言った。「館内のセキュリティが万全であったのに加えて、停電中、誰がどこにいたかについては全員の居場所がわかってる。それにボーが知ってる関係者のなかに、こんな芸当ができる者はいない。このダイヤモンドのすり替えが可能だとしたら、ほとんど魔法よ。だけど――」
 ボーがうなずく。「ああ、だけど――いいか、ニック、これほど大胆な盗みをやってのけるだけの能力がイレインにあったかどうか知らないが、停電中、館内のどこにいたかわからないのは彼女だけだ」
「ぼくはイレインをよく知っています」ニコラスは言った。「彼女が得意とすることも、苦手なことも、その実力も。ぼくが知る限り、イレインにはこんな離れ業をやりおおせるだけの実力はありません」
 サビッチが言った。「ニコラス、ダイヤモンドをすり替えるのにどれほどの知識がいるっていうんだ? イレインは館内とダイヤモンドに関して熟知してた。すり替えに必要な道具ぐらい見当がついただろう」
 ニコラスは首を横に振りながらさらに続けた。「アリゾナまで飛んで模造ダイヤを盗んだのも彼女だと? 航空会社には確認したんですか、ボーおじさん?」
「ああ、イレインはニューヨーク市の外へは出ていない。少なくとも、民間の航空機では」
 シャーロックが言った。「わたしたちがまだ見つけてない方法でひそかにアリゾナまで飛んだのかもしれない。もしくは美術館内の誰かが関与してたか。ニック、悪いけど、そうとしか考えられないのよ。もっとも、わたしの頭に引っかかっている大きな疑問は、なぜヨーク警部補が殺されたかということだわ。犯行グループの内輪もめ? ほかに何か考えられる? あなたは言ったわよね。イレイン・ヨークをよく知っていて、彼女がこんなことをやり遂げるのは不可能だと。どれぐらいの確信を持ってそう言えるの?」
「イレインはハロッズで万引きすることさえできなかったでしょうね。いいですか、ぼくは優秀な警察官でなければ彼女を自分のチームに入れはしなかった。イレインはコ・イ・ヌールの監視役としてアメリカに渡った。何事も起こらないようダイヤモンドを守るためにです。盗むためじゃない。イレインに容疑をかけること自体がばかげている」ニコラスは沈黙を挟んでからきっぱりと断言した。「ぼくはこの命にかけて彼女を信用します」
 誰も反論しなかった。
 ニコラスは言った。「イレインはダイヤモンドの盗難に関する何かを知ったために殺されたんじゃないんでしょうか」
「そうだとしたら、彼女はすぐさまわたしに知らせたはずだ」ボーが言った。「窃盗には関与しておらず、何かを発見しただと? ニック、考えてみろ。イレインはわたしには何ひとつ報告してない」
 悔しいが、おじたちの言うことはもっともだ。イレインは関係ないと、どうすれば説得できるだろう。画面を見つめると、おじは急に老けこんで疲れたように見えた。誰の責任であれ、おじが責任を負わされることは皆がわかっていた。ダイヤモンドが無傷で発見されたとしても、ボーの警備会社は万全の警備のなかでコ・イ・ヌールを盗まれたとして、歴史に汚名を刻むだろう。イレインとおじの名前は泥にまみれる。
 ボーが言った。「わかってくれ、ニック。死んだ者に罪をなすりつけるのはわたしも気が重い。しかし、ほかにも怪しい点があるんだ。昨日の午前中、停電から十五分ほどして、イレインはわたしのオフィスに来て体調不良で早退すると言ったんだ。普段の彼女らしくないことだ」
 だめでもともとだと思い、ニコラスは言った。「ボーおじさん、われわれがまだ思いついていない別のシナリオがあるはずです。かかわっている者がきっとほかにいます」
「ニック、絶対にありえないと思えることでも必ずすべて検証すると約束しよう。わたしはおまえほどイレインとのつきあいは長くないが、彼女がダイヤモンドを盗んだと信じられない気持ちはよくわかる。残念ながら、自分を弁護できないのはイレインだけだ。保険会社はそこに飛びつくだろうし、それはわたしには止められない。加えて、おまえもわたし同様知ってるだろう。他人の本心まではわからないものだ」
 ニコラスは打ちのめされた思いでうなずいた。「ニューヨークのFBIはイレインの死とダイヤモンドの盗難の両方を捜査しているんですか?」
 ボーはにやりとした。それはニコラスが子どもの頃から知っている、いたずらをするときの顔だった。
「何を企(たくら)んでいるんですか、ボーおじさん?」
「いいか、ニック。これはここだけの話だ。ダイヤモンドが盗まれたことはまだ通報していない」