立ち読みコーナー
目次
344ページ
登場人物紹介
ジョセフィン・グラント    娼館<眠る鳩>のピアノ弾き
イライアス・アディソン    レノックス公爵
ニコラス・サッカレー     ブリストル侯爵の推定相続人。イライアスの友人
サリー・ホープウェル     娼館<眠る鳩>の娼婦。ジョセフィンの友人
マザー・スーペリア      娼館<眠る鳩>の女性主人
ディグビー          娼館<眠る鳩>のバーテンダー
ソフィア・アディソン     イライアスの母
アレッサンドラ・アディソン  イライアスの妹
セバスチャン・フロスト    ハリントン伯爵の後継者。イライアスのいとこ
ドライデン          イライアスの近侍
ミス・フランシス       イライアスの花嫁候補
(106ページ〜)
ジョセフィンは振り向けなかった。けれど体中の神経が振り返りたがって飛び跳ねていた。
「レノックス、お願い。やめて」
「きみは質問を避けている」公爵が懐中時計をたしかめた。「まだ九時だ。そして早くとも十時までは、きみはわたしのものだ」
「質問って?」
「きみが振り向いてわたしを見てくれないのが残念だ。質問は――覚えているに違いないが――わたしにキスをしてほしいか?」
「そんなことを望むなんて、わたしには許されないわ」
「それでは答えにならない。なにかを許されないのと望まないのとは同じではない」
 ジョセフィンは最後にもう一度だけ反撃して、彼を追い払おうとした。
「閣下、わたしの人生を掘り起こしておられたようだけど、あなたはなにもご存知ないのよ。お気遣いはありがたく思うし、失礼な態度をとったことは謝ります。ただ、わたしにはあなたの好奇心も欲望も満たすことはできないの」
 返事がないので、ジョセフィンは振り向いた。公爵はまじめな顔で彼女を観察していた。
「きみは自分に厳しすぎるようだ」彼が言う。「人生における楽しみを味わおうとしない。これはじつによくわかる。なぜならわたしにも同じことが言えるからだ。少しの時間だけでいいから、わたしが公爵だということを忘れられないか? きみがここだけでなく書店でも大きな責任を抱えていることを忘れられないか?」
 ジョセフィンは心を固くして、彼の琥珀色の瞳を見つめた。いまでは奇妙な熱でうるんでいる。ジョセフィンは体の前で両手を組み、それからほどいた。公爵が言った少しの時間がほしかった。彼が自分の世界に戻ってふさわしい女性と結婚する前に。公爵は未婚でわたしも独身なのだから、一度のキスのなにがいけないの? 一瞬でいいから、この世を思い悩むのを忘れて、彼の唇という現実だけに触れていたい。
「紳士であろうと努力しているが、きみのおかげで難しい。イエスと言ってくれ。イエスと言って、一瞬でいいから考えるのをやめてくれ」
 ジョセフィンは、自分がうなずいたことが信じられなかった。けれど本当にうなずいた。一度、ゆっくりと、首をさげて戻した。
「イエスよ」ほとんど聞こえない声で言った。「イエスよ、イライアス」

 ジョセフィンがその甘い答えをささやくやいなや、イライアスは彼女を腕のなかに引き寄せていた。そうではないと自分に言い訳しつづけていたものの、彼の今宵の目的はこれだった。慎重を心がけつつ、唇を重ねて彼女のウエストに腕を回した。この女性を抱きしめるのはじつにたやすいことだった。まるで生まれつきやり方を知っているかのようだった。驚いたことに、ジョセフィンのほうからキスを深め、彼の髪に両手をもぐらせてきた。イライアスの両腕に震えが走った。
 イライアスは唇を重ねたままうめき、感じた痛みに眉をひそめた。飢えた妄想に支配されないよう、用心しなくては。まさか自分がこれほど彼女に揺さぶりをかけるとは思ってもいなかった。これ以上進めて、怖気づかせてはならない。問題は、彼女のせいで自制心を保つのが至難の業になっていることだった。
「一度のキスよ」ジョセフィンが重々しく言った。
「いや」イライアスは彼女の耳元でささやき、耳たぶにもキスをした。腕のなかでジョセフィンが震える感触は、いとも甘美だった。「いくつかのキスだ」
 ジョセフィンが彼の唇を自分の唇に引き戻し、もっといい角度を作ろうと首を傾けた。それから彼のクラヴァットの端を両手でつかんで、絶望的なほどしわくちゃにした。ふたりの舌の上でワインの味が交じり合う。ジョセフィンの反応に欲求をあおられて、イライアスは彼女を壁際に追い詰めた。ジョセフィンの体をなでまわしてしまわないよう両手のひらを壁に当て、彼女の首からあのすばらしい鎖骨まで、キスで伝いおりていった。
「どうでもいい」ジョセフィンがかすれた声で言った。ひとりごとのように。「なにも変わらない」
「シーッ」イライアスは言い、彼女ののどのくぼみに鼻を押しつけた。感覚が満たされた。
 次に唇を奪ったときは、ささやかな実験として下唇を噛んでみた。するとジョセフィンの唇が開いたので、イライアスはそれが錨であるかのように、さっと両手で彼女の顔を包んだ。彼女の両手が上着の背中をわしづかみにするのを感じた。体をこすりつけ、くねらせはじめるのを。イライアスはもうだめかもしれないと思った。拷問に思えたが、どうにか身を引くと、途端に魔法がとけた。
「わたしたち……」ジョセフィンの言葉は途中で消えた。
 ふたりとも息を切らしていて、顔はまだすぐそばにあった。イライアスは彼女から目を逸らせなかった。髪をとめていたピンはほとんど落ちていて、その光景は、彼女から離れていた一週間のあいだずっと見ていた白日夢を現実にしたものだった。
「あなたはもう行かなくちゃ」ジョセフィンが言い、ひたいを彼のひたいに当てた。つややかでかぐわしい彼女の髪の房がイライアスの頬にかかる。言葉とは裏腹に、彼女の両腕はいまもしっかりと彼の背中に回されていた。
「きみも行かなくては」イライアスは返し、もう一度ゆっくりと唇を重ねた。彼女が二度とキスを許してくれるかどうかわからなかったので、しっかり記憶にとどめようと、時間をかけて味わった。やがてジョセフィンの手が彼の襟を押し、ふたりの唇は離れた。さよならのしるしに、彼女の唇が頬に触れた。そのやさしい行為のせいで、いっそう別れがつらくなった。
 イライアスの仮説は正しかった。実験するとくり返し同じ結果が出たので間違いない。彼はこの厄介な女性に愛情を抱いている。彼女の好き勝手にさせてはおけない。勇敢なのは認めるが、このままでは破滅かニューゲート監獄へまっしぐらだ。この女性に愛情を抱いている。通称で出会い、偽名で見つけ、その本名はいまだわからない女性に。