立ち読みコーナー
目次
456ページ
登場人物紹介
クロエ・メイスン        二十八歳の女性
マイケル(マイク)・キーラー  セキュリティ会社の経営者。サンディエゴ市警察の元警官
ハリー・ボルト         マイクの“兄弟”。セキュリティ会社の共同経営者
エレン             ハリーの妻     
サム・レストン         マイクの“兄弟”。セキュリティ会社の共同経営者 
ニコール            サムの妻
ビル・ケリー          サンディエゴ市警察の警官。マイクの元同僚  
フランクリン・サンズ      <メテオ・クラブ>の経営者
アナトリー・ニキーチン     <メテオ・クラブ>の共同経営者
コンシュエロ          娼婦
イワン             ニキーチンの部下 
マリサ             セキュリティ会社の受付係
バーニー・カーター       セキュリティ会社の社員
(82ページ〜)
 マイク・キーラーを兄だと考えるのには、少し無理があった。
 サムとハリーという、いまや兄弟となったふたりの男性と、その妻たちとの抱擁は、短くて温かみに満ちたものだった。興奮のうちにいっきに行われ、誰にいつ抱擁されたのか区別がつかなかった。温かな海に浸かったようなもので、たくさんの波が押し寄せてきた。
 だが、マイクに抱擁されたときは、どういうわけか、時間が止まったようだった。瞬時にすべてを察知し、その衝撃のひとつずつを個別に感じ取った。そのどれもが特別で、ぞくぞくとした。
 マイクの感触。それにひどく心を動かされた。ハリーとサムはとても背が高いので、無理して伸びあがらないと肩に手を置けなかった。つま先立ちになって、一瞬抱擁して、すぐにかかとをつけた。ぎこちなくしか抱擁できないので、はじまったと思ったら、終わっていた。
 それがマイクだと、まず、背の高さがちょうどよかった。クロエよりは長身で、でも高すぎなかった。それにあの力強さ。あんなにたくましい人には触れたことがない。まるで鋼鉄製の男性に抱かれているようだった。レオタードを着ていないだけで、スーパーマンのようだった。そう、スーパーマンよりは背が低くて、より屈強で、けれど、そう、射貫くような青い瞳と、そう、それに額にかかった黒い髪。手を伸ばして髪を後ろに撫でつけたくなり、手を握りしめないと、ほんとうにそうしてしまいそうだった。
 それにいいにおいがした。清潔で、いかにも男性らしいにおい。
 ほんの一瞬だけれど、ただのハグではなく抱きしめられた。腕をまわされて、胸のなかに抱き入れられた。
 すごくよかった。思いもよらないことだった。誰となにをするにも理由付けがいるのに、そんなものがまったく必要なかった。これをするべきだろうかとか、こう言うべきだろうかとか、これをしたらどうなるだろうかとか、考えなくてよかった。これはふつうなのかとか、どう感じるべきかとか、そんなことをしたら奇異な目で見られるだろうかとか、そんな心配が吹き飛んでいた。
 ふだん人とつきあうときは、そんな疲れることで頭がいっぱいになる。そういうことを自然にこなすのが苦手だった。
 寂しかった入院生活のせいか、はたまた相手をしてくれなかった両親のせいかわからないが、どんな理由にしろ、みんなには人生のはじまりの段階で指示書が渡されて筋書きがわかっているのに、自分だけは暗闇に置かれているように感じてきた。
 そんな感覚も、女学校に入り、そのあと大学に進んで、世の中に仕事に出ると、薄らいだ。それでも、自分には社会的な本能が欠落していて、厳しい学校で苦労して学ばなければならないことのように感じていた。
それなのに、マイクとのひととき――あのひとときだけは――本能のままだった。ふたりが申し分なくしっくりきて、十分の一秒のぎこちなさもなかった。一瞬、彼にもたれかかると、背中に腕をまわして、頭を寄せてくれた。
 そのとき、クロエのなかのなにかが静まった。絶え間なく続いていた内なる独白がぴたりとやんだのだ。思考が停止したところに、感覚が流れこんでいて、それに圧倒された。
 力強さ。熱。守られている感覚。欲望。
 びっくり。
 マイクのほうが身を引いた。自分では身動きできなくなっていたので、助かった。けれど、彼が下がると、置いてきぼりを食ったような気分になった。生気にあふれたものが奪われたように、体の前面が冷たくなった。クロエは身じろぎもせずに彼の目を、鮮やかな青い瞳をのぞいて、自分のなかで重大ななにかが起きたことを示す手がかりを探した。
 彼は深刻な顔をしていた。ふだんはどんな表情なのか知らないが、あのときはクロエの目をじっと見つめて、頭のなかを歩きまわっているようだった。顔の皮膚がぴんと張って、右目のまぶたがひくついていた。そんな彼から目が離せなかった。
 時間が引き延ばされた……。