立ち読みコーナー
目次
464ページ
登場人物紹介
セバスチャン・デュモン(アン・グリーンウェイ)  未亡人
ドレーク・バイロン                クライボーン公爵家の四男。数学者。発明家
エドワード(ネッド)               クライボーン公爵。ドレークの長兄
クレア                      クライボーン公爵夫人
アヴァ                      ドレークの母
ケイド                      ドレークの次兄
メグ                       ケイドの妻
マロリー                     ドレークの妹
アダム                      マロリーの夫。グレシャム伯爵
レオポルド(レオ)                ドレークの双子の弟
ローレンス                    ドレークの双子の弟
ティエリー                    セバスチャンの亡夫
オーギュスト・カルヴィエール           セバスチャンの父
ジュリアン                    セバスチャンの弟
リュック                     セバスチャンの末弟
ラウル・バシュー                 フランス軍のスパイ
リチャード・マニング               サクソン子爵
ヴェリティ                    リチャードの娘
ヴァネッサ                    ドレークの愛人
トレンブル                    ドレークの料理人
(162ページ)
今度は手も震えず、汗もにじんでいない。心臓もふつうの速さで打っている。ドレークの上に身をかがめ、慎重に鎖を首にかけた。鍵がそっと胸に乗り、あるべき場所におさまった。留め金をとめて、上体を起こそうとしたそのとき、ドレークが動いてセバスチャンの手首をさっとつかんだ。
 セバスチャンは顔をあげ、若草のような緑色の目を見つめた。悲鳴がのどの奥でつかえ、罠にかかったウサギのように脈が激しく打った。口もからからに渇いている。
 どうしよう、いつから起きていたの? どこまで気づかれてしまっただろうか?
 セバスチャンはドレークが口を開くのを待った。きっとこちらを質問攻めにして、答えを迫るだろう。
 ところがドレークはなにも言わず、ただ黙ってセバスチャンを見ていた。
 そのとき相手の目に奇妙な光が宿っていることに、セバスチャンは気がついた。どこか焦点が合わず、ぼうっとしているように見える。まさかとは思うが、ほんとうは目覚めていないのではないだろうか。
 セバスチャンは相手が放してくれることを期待して、手をそっと引いてみた。だがドレークはセバスチャンの手首を握る手に、ぐっと力を入れた。痛いほどではないが、これでは逃れるのは無理だ。
 ドレークは状況を呑みこもうとしているように、セバスチャンの顔をしげしげと見た。「きみだったのか」低くかすれた声で言う。
 セバスチャンはぞくりとし、動揺と不安を覚えた。「いいえ、ちがうわ」愚にもつかない返事をした。「さあ、その手を放して、もう一度お眠りなさい」悪夢にうなされた弟たちをなだめるときのように、優しくささやいた。
 ドレークはセバスチャンのことばに、きつく眉根を寄せた。
 つかまれた手首で脈が激しく打ち、さまざまな思いが頭を駆けめぐった。眠り薬の効き目はもう切れたのだろうか。この窮地を脱するには、いったいどうすればいいのだろう。
 ドレーク卿にこれはただの幻だと思わせるしかない。自分がここにいたことを、なんとしても忘れてもらわなければ。
 それ以外に方法はない!
「あなたは夢を見ているのよ、閣下」セバスチャンは低い声でささやいた。「これは夢なの。安心して眠ってちょうだい。そしてわたし以外の女性の夢を見るといいわ」
 だがドレークは目を閉じる代わりに、唇にゆっくりといたずらっぽい笑みを浮かべた。そしていきなり手を引き、セバスチャンを温かくたくましい胸に抱き寄せた。「ほかの女性の夢なんか見たくない」かすれた声で言った。「ぼくが欲しいのはきみだ。こうしてきみをベッドで抱く夢を、前にも見たことがある。また一緒に熱いひとときを過ごそう。ぼくの美しいアン」
 わたしの夢を見たことがある?
 その驚くべき告白についてセバスチャンに考える暇を与えず、ドレークは大きな手のひらで頭の後ろを支えて唇を重ねた。セバスチャンははっと息を呑み、官能的な長いキスを受けながら体を震わせた。
 なにもかもが頭から吹き飛び、大波のように押し寄せる快感だけが全身を満たしている。どういうわけか、まるですでに恋人どうしであったかのように、ふたりは甘く情熱的なくちづけを交わした。
 数週間前にはじめて会ってからというもの、セバスチャンはドレークとキスをし、使用人としての抑制を捨てて抱きあったらどういう気持ちになるだろうと、ずっと考えてきた。だがこれほど情熱的なキスをする場面は、想像したことすらなかった。ただ唇を重ねているだけなのに、つま先までしびれたようになっている。これほどの悦びは味わったことがない。
 心から愛していたティエリーとですら、こんな気持ちになったことはなかった。夫と抱きあっていると、おだやかで満ち足りた気持ちになったが、体の奥から突きあげてくるような欲望を覚えたことはない。もちろんティエリーの優しい愛撫で、欲望がどういうものであるかは教えられた。でも自分を抱いている男性のこと以外、なにもかも忘れてしまうほどの激しい情熱に身を焦がしたことはない。ドレーク卿はティエリーとはまるで似ていないが、こんなに狂おしい気持ちになったのは生まれてはじめてだ。
 セバスチャンははっとわれに返り、自分の置かれた状況を思いだした。ああ、わたしはいったいなにをしているのだろう。取りかえしのつかないことになる前に、早くやめなければ。
 あえぎながら顔を引き離そうとした。唇がしっとりと濡れ、太もものあいだに熱いものがあふれている。できることならなにもかも忘れ、このめくるめくひとときに溺れたい。
 でもそんなことができるはずがない。セバスチャンは自分がここに来た理由を胸に言い聞かせた。それは断じて、彼と愛しあうためではない。
 だがドレークはセバスチャンがキスをやめようとしていることを、まったく意に介していないようだった。むしろその体をさらに自分のほうへ引き寄せ、大きな手で背中をなでおろしている。彼の手が背骨のつけ根のくぼみに触れると、セバスチャンはぞくりとし、全身の肌が燃えあがるのを感じた。ドレークが薄い生地でできたガウンとネグリジェのすそを少しずつたくしあげ、脚をあらわにしていく。
 セバスチャンは身をよじったが、そのせいでかえって事態を悪化させていることに気づいた。腹部に硬く大きなものが押し当てられている。自分たちを隔てているものは、薄いシルクのシーツと、綿のガウンとネグリジェだけだ。
「閣下、やめて」セバスチャンは息を切らして言った。
「どうしてだ?」ドレークはゆっくり尋ねた。まぶたが隠しきれない欲望で重くなっている。顔を傾け、セバスチャンの首筋にくちづけた。そして円を描くように舌の先をはわせはじめた。
 セバスチャンは身震いし、恍惚としてまぶたを閉じた。
 そうよ、どうして? ぼんやりした頭で考えた。これではまるで、自分のほうが薬を飲まされたようだ。セバスチャンは手足から力が抜けていくのにあらがおうとした。
 思いだすのよ。必死で自分に言い聞かせた。
 でもなにを思いだすの?
 そのときなんの前触れもなく、ドレーク卿がセバスチャンを仰向けにして、のどや鎖骨にキスの雨を降らせた。その首にかかった鍵が揺れ、ろうそくの黄色い光を受けて一瞬きらりと輝いた。
 セバスチャンは鍵に視線を据えた。
 そう、鍵だ。ここへ来たのは、鍵の型をとるためだった。
 いますぐベッドを離れ、この部屋から出ていかなければ。でもドレーク卿はまったく愛撫をやめるつもりがないらしい。なんとかして彼の気をそらさなくてはならない。
 セバスチャンは手を伸ばしてドレークの頬に触れた。「す――少し待っててちょうだい。さっぱりしてくるから」甘い声で言う。「すぐに戻るわ」
 ドレークはセバスチャンの太ももをなであげ、眉根を寄せた。「さっぱりしてくる?」
「そう、体を洗ってくるの。さっと行って、さっと戻ってくるわ。わたしがいないことに気がつく暇もないくらいよ」
 自分がここを出て自室に戻ったら、ドレーク卿はじきに待ちくたびれてふたたび眠りに落ち、今夜のことをすっかり忘れてくれるかもしれない。
「ぼくも一緒に行く」ドレークは言い、ベッドからおりようとした。