立ち読みコーナー
目次
440ページ
登場人物紹介

エレン・パーマー(イブ)   会計士。歌手
ハリー・ボルト        セキュリティ会社の経営者。元軍人
サム・レストン        ハリーの“兄弟”。セキュリティ会社の共同経営者
ニコール           サムの妻
マイク・キーラー       ハリーの“兄弟”。セキュリティ会社の共同経営者。サンディエゴ市警察の元刑事
ジェラルド・モンテス     エレンの元勤務先の経営者
ケリー・ロビンソン      エレンの友人
ロディ・フィッシャー     エレンのエージェント
ピート・バン・デル・ブーケ  南アフリカの傭兵
クリスティン(クリッシー)  ハリーの妹
(30ページ)
 ハリーはリビングに戻り、カウチに腰かけた。このリビング、いや家全体が、ハリーの人生の映し鏡――ハイテク仕様で空疎――だった。ジムの設備も、ワークステーションも、AV機器も最新仕様。あとは空っぽ。ベッドとデスクとカウチしかない。
 ステレオセットはボーズの最高級品だ。ハリーはそのスロットに最新の?ドラッグ?を挿入して、ヘッドホンをつけると、カウチに寝そべった。美しい歌声の最初の一節が耳に届く。ジャンキーがヘロインを打った直後は、ちょうどこんな感じなのだろう。
 ああ……。
 イブ。この三カ月ですっかり有名になったが、ハリーは彼女の曲をはじめて聴いたときからの熱烈なファンだった。当時の彼女はまだ無名で、『スタンド・バイ・ミー』をジャズ風にアレンジした一曲だった。
 この世のものとは思えない歌声だった。のっけから心を奪われ、いまいる場所ではないどこか、もっといい場所に連れていってくれた。そこは幼い女の子が男から殺されずにすむ場所、女が足音を立てたからといって男から鞭で打ち殺されない場所、RPGで人が吹き飛ばされない場所、いっそ死んで楽になりたいと願わずにすむ場所だった。
 イブは鼻にかかったベルベットボイスの持ち主で、正確に音程をたどりつつ、歌詞を明瞭に発音した。彼女はどんな歌でも歌いこなした。騒々しいロックから、内側をのぞきこむようなジャズ、感情に訴えるバラードまで、どんな歌でも完璧に歌えたので、ひとたび彼女の歌を聴いてしまうと、それ以外の歌い方が想像できなくなった。過去にたくさんの歌い手が歌っているのを何千回と聴いてきたにもかかわらずだ。
 彼女の歌の半分はカバーだった。彼女がそれを録音して世に出せば、それが決定版となって、ほかの歌い手の出る幕はなくなった。驚いたことにCDジャケットの宣伝文句によると、ほかの半分は本人の作詞作曲だった。そしてどこにも書いてないけれど、控えめなバラードの何曲かは彼女が自分でキーボードを弾いているのではないかとハリーは思っていた。
 すべてが謎に包まれていた。これがマーケティング戦略なら、大成功だ。ネットには彼女の正体を問う声があふれ、ファンたちはCDを買いに走った。ユーチューブでは夕日や海原や風に揺らぐ木の映像しかないのに、数千万回単位の再生回数をほこった。
 誰も彼女の正体を知らないからだ。
 写真はないし、インタビューを受けたことも、コンサートを開いたこともなかった。彼女の正体は極秘扱いだった。
 ネット上には彼女のことを取りあげる記事があふれた。
 やれ黒人だ、白人だ、美人だ、目もあてられないほど不細工だ、年寄りだ、いや若い……ハリーにはどうでもよかった。体重百五十キロのカバだろうと、顎が七つに割れていようと、関係なかった。ひとたび彼女のCDを挿入して、ヘッドホンをつければ、世界は――そのなかに住むハリーもろとも――どこかに吹っ飛んでしまう。
 大衆紙はイブの正体を取り沙汰する記事を目玉とし、ピープル誌やUSウィークリー誌は彼女の正体を暴きだそうと特集を組んだ。ナショナルエンクワイアラー紙は、彼女がビル・クリントンの隠し子だとの説を展開した。ジョージ・クルーニーや教皇を父親とする説もあり、そのへんは週がわりだった。ハリーはイブを宇宙人とする説が飛びだすのを待っていた。
 なんだっていいさ。
 ハリーは横になったまま目をつぶり、彼女の歌声に身をゆだねた。いつしかリビングの窓の外に広がる暗い夜空が白んで、真珠色に輝きだした。
 七時になると、しぶしぶヘッドホンを外してシャワーに向かった。
 ふたたび新たな一日に向きあわなければならない時間がめぐってきた。