立ち読みコーナー
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登場人物紹介

マロリー(マル)・バイロン  公爵令嬢
アダム・グレシャム      伯爵
エドワード(ネッド)     クライボーン公爵。マロリーの兄
クレア            公爵夫人
ケイド            マロリーの次兄
メグ             ケイドの妻
ジャック           マロリーの三兄。アダムの友人
グレース           ジャックの妻
ドレーク           マロリーの末兄。数学者
レオ             マロリーの双子の弟
ローレンス          マロリーの双子の弟
エズメ            マロリーの妹
公爵未亡人(アヴァ)     マロリーの母
マイケル・ハーグリーブス   少佐。マロリーの元婚約者
ペニー            マロリーの侍女
シャルルマーニュ       マロリーの愛猫
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「いらっしゃいませ、閣下。またこうしてお越しいただき、光栄に存じます」執事が言った。アダムこと第三代グレシャム伯爵が、ブラエボーン邸の広い玄関ホールにはいってくる。
「ありがとう、クロフト」アダムは言い、長年にわたり公爵家の執事を務めているクロフトに帽子と手袋を渡した。「こちらこそ、また会えてうれしいよ」
 ブラエボーンをおとずれるたびにそうしているように、しばし足を止め、壮麗で洗練された内装に見とれた。十八歳のとき、大学で友だちになったジャック・バイロンに誘われ、オックスフォードからはじめてここを訪ねてきた日のことをいまでもよく覚えている。
 あのときもやはり夏で、高い円蓋の窓から今日と同じように明るい太陽の光がふりそそいでいた。そのまわりの天井には何ヤードにもわたり、それは見事なローマ帝国の盛衰の物語が描かれている。フレスコ画法による傑作だ。玄関ホールの向こう側にはゆるやかな曲線を描いた大きな大理石の階段があり、美しいコリント式の円柱がその両脇に堂々と立っている。床も同じ大理石でできており、その濃淡の入り交じった色調を見ると、アダムはいつも冷たいクリームと温かいクローバーの蜂蜜の組み合わせを連想した。
 そのとき右手のほうからスカートの衣擦れの音がした。ふりかえると、桃色のシルクのドレスを着た美しい金髪の女性が、玄関ホールに隣接した応接室のひとつから出てくるのが見えた。
「アダム、やっと着いたのね!」クレアことクライボーン公爵夫人が鈴を転がすような声で言い、心からうれしそうな笑みを浮かべた。
 アダムは磨きこまれた黒いヘシアンブーツでタイルの床をかすかに鳴らしながら、そちらに向かって歩きだした。公爵夫人が差しだした手を取って優雅にお辞儀をし、左右の手の甲に軽くくちづけてから放した。「やあ、奥方様。幹線道路がところどころ荒れていて困ったが、なんとか到着したよ」
「バイロン家の領地の道には問題はなかったわよね?」
 アダムは微笑んだ。「ああ、まったく。きみも知ってのとおり、閣下は通りをいつも最高の状態に保っている。でもそんなつまらない話はよそう。今日のきみはいつにもましてきれいだよ。前回会ったときよりもきれいになったようだ」
 クレアは苦笑いした。「前よりやせたと言いたいんでしょう。クリスマスに会ったとき、わたしはワインの樽みたいに丸くて、いまの倍ほども体重があったんですもの」
「そんなことはないさ」アダムは言った。「あのときのきみは、もうすぐ母親になる女性ならではの輝きを放っていた」
 クレアは笑い声をあげ、アダムの腕に手をかけて主階段へ向かった。「冗談はやめてちょうだい、閣下。でもあなたの手にかかったら、どんなレディもぼうっとしてしまうでしょうね。相変わらず歯の浮くようなせりふばかり言ってるんだから。世の女性がみんなあなたに夢中になるのも無理はないわ」
 アダムはにっこり笑い、瞳をいたずらっぽく輝かせた。「ありがたいことに、世の女性みんなというわけじゃないさ。もしそうだったら、歩くたびに人混みをかきわけて進まなくちゃならなくなる」
 クレアはふたたび笑った。
「母としても妻としても幸せなんだね」アダムはクレアとならんでゆっくり階段をのぼりながら、まじめな口調で言った。
 クレアはうっとりした表情になり、青い瞳を輝かせた。「ええ、幸せすぎて怖いぐらい」
「バイロン家に新しく仲間入りしたレディ・ハンナは元気かい?」
 クレアは誇らしげな笑みを浮かべた。「とても元気よ。あの子は本物の天使だわ。いつも明るくてご機嫌で、めったに泣いたりぐずったりしないの。髪の毛は褐色だけれど、エドワードに言わせたら、わたしに瓜ふたつなんですって。でも目もとや口もとはエドワードにそっくりなの。それにしかめ面をしたときも……見分けがつかないくらい似ているわ」
 エドワードの渋面が頭に浮かび、アダムはにやりとした。もっとも、昨年レディ・クレアと結婚して以来、エドワード・バイロンがそうした表情を浮かべることはほとんどなくなっている。「ところで、クライボーン公爵はどこだろう。書斎かな?」
「いいえ、今日は使用人と一緒に出かけているの。小作人の家の井戸で水の味がおかしくなってるらしくて、それを調べに行ったのよ。だからこうしてわたしが、お客様ひとりひとりに歓迎のご挨拶をしているわけ」
「きみにとっては朝飯前だろう」
 クレアは小さく微笑んだ。
「それで、ほかには誰がいるんだい?」
「もちろん家族は全員そろっているし、親戚も何人か来ているわ。友人たちも招いてあるから、テーブルががらがらで困るということはないでしょう。マロリーの古いお友だちのミス・ミルバンクと、最近レディ・ダムソンになったミス・スロックリーもご招待したの。マロリーが喜ぶだろうと思って。でもそれがほんとうにいい考えだったのかどうか、よくわからないわ」
 マロリーの名前に、アダムはそれまでの愉快な気分が吹き飛んだ。「最近の様子は?」
「今日はみんなと一緒に夕食をとりたくないそうよ。ついさっき、マロリーは自分の部屋で食事をすると言ってると、侍女が伝えてきたの。考えなおすように説得しようかとも思ったけど、どうせ耳を貸してくれないでしょうから」クレアはため息をつき、階段をのぼりきったところで足を止めた。「お母様もわたしも、気心の知れた人たちに囲まれて過ごせば、きっとマロリーも元気になるだろうと思ったのよ。でも本人が部屋から出てきてくれないことには、どうしようもないわ」
 アダムは眉をひそめた。「ああ、そうだな」
 マロリーがいまなお立ちなおれずにいることを知り、胸が苦しくなった。もちろんまだ喪に服していることはわかっていたし、婚約者の死を嘆くのも当然のことだろう。だからこそ、これまでマロリーをそっとしておいたのだ。本人が自分なりに、ゆっくり時間をかけて悲しみに向きあうことが必要だと思った。あれから何度か手紙のやりとりをしたが、マロリーは日常のできごとを淡々とつづるだけで、自分の内面を吐露するようなことはなかった。誰にも自分の気持ちを言いたくなかったのだろうし、アダムもそれをうながそうとはしなかった。
 だが、あれからもう一年以上がたつのに、いまだに心を閉ざしているというのか。マロリーはまだ二十二歳で、年老いた未亡人のように引きこもって暮らすべきではない。そもそも彼女は未亡人ですらないのだ。ハーグリーブス少佐とは結婚していなかったのだから。婚約してすぐに、少佐はイベリア半島の戦いに参加するために故国を離れた。そろそろ過去と決別し、前へ進むべきときだ。マロリーが自分で一歩を踏みだせないのなら、まわりが後押ししてやることが必要だろう。
 アダムの頭のなかを読んだように、クレアが腕にかけた手にぐっと力を入れた。「来てくれてよかった。あなたとマロリーはずっと仲良しだったものね。あなたの顔を見れば、きっと元気になるでしょう。マロリーを励ましてあげて、アダム」クレアは言った。「あなたならできるでしょう?」
 アダムは自分にまっすぐ向けられたクレアの目を見た。「ああ、できるさ」きっぱり言った。「すぐに昔のマロリーに戻してみせるよ」
 かならずそうしてみせる。アダムは心に誓った。
 たとえどんなことをしてでも、マロリー・バイロンの笑顔を取り戻すのだ。