立ち読みコーナー
目次
448ページ
登場人物紹介
クラリンダ・カーデュウ         資産家令嬢
アシュトン(アッシュ)・バーク     冒険家
ジン・アル=ファルーク         エル・ジャディダ王国のスルタン
マクシミリアン(マックス)・バーク   ドレイヴンウッド伯爵。東インド会社取締役。アッシュの兄
ペネロピ(ポピー)・モントモレンシー  クラリンダの友人
ルカ・ダルカンジェロ          アッシュの友人
ソロモン                宦官
ヤスミン                ファルークの側室
タリク                 ファルークの叔父
(72ページ)
 この人、わたしを救いに来たのね。クラリンダは胸の内でつぶやいた。ほぼ、十年振りにアシュトン・バークと目が合い、意思に反して心臓は期待のあまり胸から飛び出そうになっていた。
 夢を追う彼に置き去りにされたあの暗い日々、恨みのあまり何時間も想像力を働かせ、次に顔を合わせたときの情景を無数に思い描いたものだった。
 そのなかにはこんな情景もあった。六頭の雪のように白い馬に引かせた金箔の馬車からおりてみると、メイフェアにある父のタウンハウスの前の溝に、おちぶれた姿の彼がうずくまっているのだ。自分は同情するような笑みを浮かべながら、財布から硬貨を一枚取り出して投げてやり、ぼろをまとった彼を無頓着にまたいで家の中に入る(とくに意地悪したい気分のときは、外は雪が降っていて、彼の上をまたぐときにまちがって指を踏んづけてしまうのだった)。
 ロンドンのきらびやかな舞踏場でダンスを踊っているときに、ターンして彼と鉢合わせをするという空想もあった。彼が物ほしそうに見つめてきているのに対し、自分は彼の顔を思い出せないというように目を細める。「ああ、そうね! あなたのこと、覚えているわ」しばらくしてようやくそう言い、扇でいたずらっぽく腕をたたいてやる。「あなた、わたしが小さいころ、犬のようにあとをついてまわっていた、あのぞっとするような若者じゃない?」それから、彼がなすすべもなく見守るなか、ターンして彼から離れ、ダンスの次のパートナーに腕をさしだす。彼の心は胸から飛びだし、粉々に壊れて足もとのダンスフロアに散らばるのだ。
 しかし、もっとも気に入っていたのは、梅毒の恐ろしい病魔に屈した彼の最後にひと目会いたいとの願いで、病院に呼びだされる空想だった。真っ白な装いの自分が彼のベッドのそばに現われるのだが、ランプの明かりに照らされた自分の顔と髪は後光が射しているように見える。そっと彼の手をとると――もちろん自分の手には白い手袋をはめている――彼は後悔の言葉をつぶやき、赦しを乞うのだ。そしてその瞬間、彼は最後の息を吐いて息を引きとる。自分は身を乗りだして耳もとでこうやさしくささやく。「悪魔によろしくね、バーク大尉」
 こういう復讐の空想は若い少女の傷ついた心の産物だった。成熟した大人となった自分にはそぐわない。くだらない感情を抑制して何年も過ごしてきた大人の女性には。
 そうだとしたら、ヴェールを寄せ集めただけのような色っぽい服を着て、恐ろしくハンサムなモロッコのスルタンのたくましい腕に抱かれ、アシュトン・バークと顔を合わせたときに、どうしてわずかに意地の悪い満足感を覚えたのか、理由は説明できない。想像力豊かな自分にも、ここまであり得ない――すばらしい――情景を思い描くことはできなかった。
 目が合うと、帽子のつばで影になっているアッシュの見慣れた目が細められた。そのところどころ金色に光る目には、後悔や切望の思いなど、かけらも表われていなかった。それどころか、汚い溝に彼女が息絶え絶えでうずくまっていても、その体の上をまたいで行きそうな様子に見えた。もしくは、混みあった舞踏場で出会ったら、ぽかんとして見つめる人たちの前で、と思いきり無視してやりたいという様子に。
 クラリンダは若いころ記憶に刻みつけた美しい若者の姿を心から追い払うのに、一度ならず目をしばたたかずにいられなかった。目の前に立っているうんざりした顔の見知らぬ男は、どこをどう見ても大人の男だった。優美な応接間よりも、みすぼらしい酒場のほうが居心地いいだろうと思われる男。風と砂と時間に、若さや傷つきやすさをすべて削りとられ、すらりと引き締まった体の、何年も前に自分の前から姿を消した若者よりもずっと危険そうな男。日に焼けた肌には砂が貼りつき、あごと上唇の上には伸びかけたひげが官能的な影を作っていたが、そこにも金粉のように砂がこびりついていた。
 ゴシップ紙の似顔絵描きは実物よりもよく描いているにちがいないとポピーに信じさせようとしたクラリンダだったが、内心恐れていたとおり、似顔絵描きが少し誇張して描いていたのはたしかだった。彼女に見覚えはなかったが、彼にとっては古傷にちがいない薄い傷痕があごに斜めに走っていて、とがってもなければ、えらが張っているわけでもない完璧な形のあごを損なっていた。鼻梁ももはや完全にまっすぐではなく、ほんのわずかに右に曲がっていた。指でも記憶の中でも、彼の顔立ちの隅々までをうっとりとなぞって何時間も過ごした人間にしかわからないほどではあったが。口のまわりに刻まれた皺は深くなり、かつて頬に浮かんでいたいたずらっ子のようなえくぼは、イギリスとモロッコのあいだのどこかの戦場に置き去りにされ、永遠に失われてしまったのだろうかと思わずにいられなかった。
 妙なことに、そんな新たに加わった欠点が、彼の荒っぽい魅力を高めていた。その顔は辛い人生を生き、辛い戦いを戦ってきた男の顔だった。何よりもそのせいで、あごの下の傷にやさしく口を押しあて、それを唇に覚えさせたくなる。
 クラリンダは大きく息を吸い、それによって耳の奥を奔流となって流れ、喉で荒々しく脈打つものを鎮めたいと思った。別の男と婚約しているいま、そんな恥知らずなことを思い描いていいはずはない。相手が婚約者の弟である場合はとくに。
 声が震えないよう必死でこらえているときに、その声に軽蔑しきった響きをこめるのは不可能に近かった。「閣下、悪党と言えば――」彼女はファルークにきいた。「いったいこの人はここで何をしているんです?」
「この男を知っているのか?」
 その瞬間、クラリンダには首をそらしてファルークの顔を見あげる勇気はなかったが、彼の声に嫉妬するような刺々しい響きがあるのは聞きとれた。「名前は知っています。刺激的な記事の載っているゴシップ紙を多少でも目にしたことのあるイギリスの女なら、みんなそうでしょうけど」
 ファルークの花崗岩のように硬い筋肉が手の下でゆるむのがわかった。彼の胸の奥から忍び笑いが湧き起こる。「ああ、弟のバーク君、きみの評判は行く先々についてまわっているようだな」
「そうらしいですね」アッシュはなめらかな口調で言った。「ただ、ぼくの業績は、自分ではほとんど冒険しないくせに、時間――とインク――を持てあましているような人間のせいで多分に誇張されている。そういう連中の書いたものを信用するのは、なんともつまらない、頭の空っぽな人間だけですよ」
 わざとらしく愛想のよい口調だったが、クラリンダは思わず眉根を寄せた。