立ち読みコーナー
目次
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登場人物紹介

アンジー・パウエル    ハンティング・ツアーのガイド
デア・キャラハン     ハンティング・ツアーのガイド。アンジーの商売敵
ハーラン・フォ−ブズ   不動産仲介人、アンジーの亡父の親友
チャド・クラグマン    会計士
ミッチェル・デイヴィス  チャドの顧客
レイ・ラティモア     駐車場経営者
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 彼はつかつかとやって来ると、たがいの帽子のつばが擦れ合う寸前で立ち止り、彼女を睨みおろした。間近にいるので、彼の深いブルーの瞳の白い筋まで見えた。思わず息を吸い込み、そうしたことを後悔した。吸った息は彼そのものだった。革とコーヒーと、肌の熱であたためられたデニムの匂い。本能的に危険を察知してうなじがチクチクし、背筋が寒くなった。距離をとれ、彼の存在は脅威だ、自分を守り切れ、と本能が叫んだ。でも、あとに引きたくはなかった。この土地からの撤退を決めたきょうという日だからこそ、これ以上さがるのはごめんだ。彼のせいでズタズタになったプライドが、それを許さなかった。
 歯を食いしばって背筋を伸ばし、足を踏ん張る。「なにか用?」そっけなく言った。ああ、声だけは震えていなかった。
「いったいどうしたんだ」彼ががなる。耳障りなその声に顔を擦られたような気がして、怯みそうになった。こんなにしゃがれ声だっただろうか。つい喉に目をやった。筋肉質の喉を淡い色の傷跡がやや斜めに区切っていた。このせいで声が潰れたのか、それとも、怒っているので砕いたガラスを呑み込んだみたいな声になったのか。怒っていてほしい。彼が怒るあまり言葉に詰まるようなことを、こっちがうっかりやっていたのなら愉快だ。なにが彼を怒らせたのかがわかれば、何度だってやってやれる。
「べつになにも」彼女は言った。歯を食いしばりすぎて顎が痛い。喉の傷跡を見たせいか、顔の傷痕にも目がいった。右の頬骨の上の抉られた痕、口の横の傷痕はえくぼに見えないこともないが、榴散弾でできた傷だ。もうひとつ、鼻梁にも矢の形の傷跡があった。どの傷跡も彼の魅力を損なうものではなかった。むろん彼は気にしていないようだ。だったらこっちも気にすることはないのに、胸がキュンとなった。なぜだかわからないけど、悲しくなった。
 なに考えてるんだろう。個人的な感情を抱いてどうするの。彼はイラクで榴散弾にやられた。そして生きて帰った。魅力を失わず、五体満足のままだ。戦争で負傷したことには同情しても、それ以外の感情を抱いてはならない。
 彼の息が臭ければよかったのに、コーヒーのような心地よい匂いではなく……生理的に受け付けないところがあればよかったのに。気持ちがふっと弱くなったとき、もし彼の誘いを受けてデートしていたらどうなっていただろうなんて考えことがあった。馬鹿じゃない。でも、そこで我に返る。彼はデートの誘いを断わられた腹いせに、彼女の仕事を潰しにかかったのかもしれない。もしそうなら、正真正銘のげす野郎だ。デートしたってろくなことはなかったはずだ。困ったことに、真相は突き止められない。わかっているのは、自分には男を見る目がないということだけ。それから、デア・キャラハンに仕事を潰されたこと。このふたつは疑いようがない。
 目の前には彼が立っていて、うしろにはトラックがあって身動きがとれなかった。いいかげんにしてよ。あと一秒だって我慢できない。じりっと横に動いてトラックから離れる。頑固なプライドが後退を許さなかった。
 それに合わせて彼も動いたので、向かい合ったままだ。
「おれを見るたび、おまえなんかクソ食らえって顔をするのはいったいどういう料簡なんだ?」彼は噛みつきそうな勢いだ。「いまだって、おれを見たとたん回れ右して駆け出した。いいかげんにしてくれ。おれに文句があるなら、面と向かって言やあいいじゃないか」
「駆け出してない」彼女も負けていない。とっさに数センチ横に移動していた。「たぶん、用事を思い出したのよ」自分でも誠意のない言い方だと思うけれど、かまうものか。良識はどこかに行ってしまった。まるでなじるような言い方だった。雄牛に赤い旗を振るような真似はしたくなかった。これでは全面戦争に突入だ。トラックに乗って去りたかっただけなのに。踏み留まったばかりに、思ってもいないことが口から出てゆく。「あなたに会ったり、あなたと話をしたりすることは、あたしの“やるべきことリスト”の上位には入ってないから」