立ち読みコーナー
目次
256ページ
登場人物紹介

キアラ・ルビノフ          タムロヴィア王国の王女。国王の妹
ザック・デーモン          アメリカ人実業家
ステファン             タムロヴィア国王。キアラの兄
マーナ・デバック          キアラの乳母。ジプシー部族出身
シャンド・アントン・カーパータン  リムタナ公爵。ステファンの相談役
マーク・ナルドーナ         タムロヴィアの労働組合の元リーダー
ペリー・ベントリー         ザックのアシスタント
ジャンセン             ザックに雇われている警護員
パウロ・デバック          マーナのきょうだい
(17ページ)
 ロッジにはいるのは簡単すぎるほどだった。アメリカインディアンの家政婦が図書室のドアを閉めて出ていくと、キアラはそう思った。億万長者というものはセキュリティをしっかりと固めている。だから、いくら称号のある者であろうと、見知らぬ人間がその家にすんなりとはいることなどできないはずだ。それなのに、キアラはできた。なんと、身分証明書を見せてくださいとすら言われなかった! 詰め所の警備員も、玄関のドアを開けたアメリカインディアンの使用人も、まるでキアラが来るのを待っていたかのような態度だった。ひょっとしたら、本当にわたしを待っていたのかもしれない。わたしのためにすべてのドアが開くようにと、マーナがおまじないをかけてくれたのかもしれないわ。だけど、そんなことはありそうにない。マーナのおまじないはごく短い距離でも届きにくいのだから、タムロヴィアからアリゾナまでの長距離におまじないを飛ばすなんて無理だ。やはりここの人たちはわたしが来ることを知っていたのだわ。
 というよりも、“女性”が来ることを知っていたと言うべきかしら。図書館で彼のことが書かれた数少ない記事を読んでわかったが、ザック・デーモンの家やベッドに女性がいることは珍しくもなんともないらしい。有名な何人もの美女たちが、長年のさまざまな時点で彼の恋人だったと噂されている。彼を実際に目にしたいま、そういった噂のどれひとつを取っても疑う気になれなかった。彼は権力のオーラとともに強烈にセクシーな魅力を放っていた。激しいそのふたつの魅力を感じて、わたしはうろたえてしまった。どうしよう。恋人たちの逢い引きを邪魔することになって、話を聞いてもらう前にザックに追い出されてしまうかもしれない。いいえ、恋人がマロリーでも誰でもいいけど、彼にはその人をベッドに連れて行くのを少し待ってもらわなければ。だって、彼がすぐに性的な満足を得ることよりも、こちらの問題のほうが重大なのだから。
 ザック・デーモンを待っているあいだ、くつろがせてもらうことにしよう。彼が来るまでどれぐらい時間がかかるかわからない。キアラはビロードの黒いマントを脱いで、自然石造りの暖炉の前に置かれた長いカウチにぽんと放った。琥珀色のシフォンのドレスを震える手でさっと撫でつけてから、いまの仕草が不安な気持ちを表わしていることに気づいて両手の動きを止めた。
 なんてこと。これではまるで、あのゴージャスな女優の代わりにわたしがザック・デーモンのデートのお相手になったみたいじゃないの。どうしてこんなドレスを着てきたのかしら? 落ち着いたビジネス風の装いのほうがよかったかもしれない。でも、来るべき彼との対面に備え、本能的に自分の知っている唯一の鎧に身を固めていた。できるだけ魅力的に見せるように。少なくない数の男たちから魅力的だと言われてきたので、まったく魅力がないわけじゃないのは本当のことなのだろうと思う。なかには、そう言ったところで得るものが何もない男性もいたのだから……。だとしても、どうだっていいでしょう? 何かのコンテストに出ているわけでもあるまいし。ザックがわたしの願いを叶えてくれるかくれないか、ふたつにひとつなんだから。
 キアラはカウチに座ってくつろぎ、この部屋の様子から持ち主の個性だとか性格がわからないかとあたりを見回した。現代的な家具はどれも茶系でカーキ、ベージュ、赤茶色。家具の流れるようなラインのデザインで、シンプルでいて居心地がいい。これでは何もわからない。壁にかけられた絵画からも情報はほとんど得られなかった。エル・グレコ、ドラクロワ、ティツィアーノ、ラッセル、それにレミントンの作品が並んでいる。どうやらデーモンの好みははっきりしているようだ。一番目立つ暖炉の上に飾られているのが、おそらくは彼のお気に入りなのだろう。その画から彼の人となりがわかるかもしれない。
 キアラは立ち上がり、額のタイトルを読んだ。ヘンリー・ファニー作《トーキング・ワイヤーの歌》。わびしげな西部の風景のなかで電柱の横に立っている、もう若くはないアメリカインディアンの力強くて孤独な画だった。猟のあとらしく、彼と同じように威厳たっぷりに立っている馬の背には、仕留めた獲物がだらりと乗せられている。年老いたアメリカインディアンからは力強さとともに倦怠感も漂っていた。倦怠感は、猟のせいかもしれないし、彼がもたれている電柱に象徴される白人文化に侵略されて当惑しているせいかもしれない。
 ふたつの文化世界に住んでいるザック・デーモンも同じ軋轢を感じたのだろうか? もしそうなら、彼は見事にその軋轢を解決したことになる。今夜ロールスロイスから降り立った彼には、落胆の色も当惑の色もなかったのだから。ザックはキアラがいままで出会ったなかで、もっとも自信に満ち、洗練された男性だ。キアラはため息をついた。ザック・デーモンという謎は、この画をじっくり見たところで解けはしない。失望のうずきを感じながら再びカウチに腰を下ろし、隅にうずくまる。相手を理解すれば、どんなに威圧的な人でも近づきやすくなるとずっと思ってきたけれど、ザックの周囲には人間的な弱さを反映しているものが何ひとつない。この部屋は彼自身と同じくらい不可解だ。ザック・デーモンの登場を待つしかないのだろう。それから、直感だけを頼りに出たとこ勝負だ。
 キアラはうなじの凝った筋肉をけだるげに揉んだ。この数日は移動続きだったうえ、ほとんど眠っていなかった。いつもなら元気がみなぎっているので、飛行機での移動は苦にならない。時差を克服できずにいるのは、神経がずっと極限まで張りつめていたせいだ。いまも神経は張りつめているし、刻一刻と緊張の度合いは増していく。リラックスするようにしなければ、ザック・デーモンが到着したときに対面できる状態ではなくなってしまう。キアラは目を閉じ、安定した深い息をするように努めた。ほら、よくなった。ほんの少しだけ緊張感が緩むのを感じる。このまま深呼吸を続けていれば、ザックと顔を合わせるときにはリラックスしてすっきりした気分になっているかもしれない。

 キアラは眠っていた。彼女と会うときの場面をあれこれ想像していたが、眠っていることはザックの想像のなかにはなかった。彼女は体を丸くして、カウチの肘掛けに頭を休ませており、ベージュのビロードのクッションには髪が炎のように広がっている。
 立ったままキアラを見下ろしていたザックは、どういうわけか胸が締め付けられるように感じた。いまこの瞬間、彼女はとても小さくはかなげに見えた。目覚めているときのキアラは光り輝く活力と生命力を発散しており、実際以上に大きく強く見える。だが、いま疲れのにじむピンク色の唇はかすかに開いていて、そのせいでいっそうはかなげに見えた。小ぶりな鼻、高い頬骨。卵形の顔は端整というよりも魅力的だ。起きているとき、彼女の表情はよく変わり、いつも笑いと生きる喜び(ルビ・ジヨワ・ド・ヴイーヴル)で輝いているが、眠っているいまは繊細さを感じさせる。いまのうちに彼女の無防備な魅力を楽しんでおいたほうがよさそうだ。ザックは苦笑混じりにそう思った。キアラがあの長いまつげを上げたら、サファイアのような青い色の瞳にはか弱さではなく挑戦的な色が宿っているだろうし、力の抜けた優雅な体はやわらかな曲線美を出現させてアリゾナ州の夏の暑さにも匹敵する反応を男にもたらすだろう。
 キアラを起こさないでおこう。急ぐことはない。この部屋で、自分の家ですっかりくつろいでいる彼女の姿を見て、ザックは深い満足を感じた。彼はすばやくカウチの向かい側にある安楽椅子へと行き、腰を下ろした。もう自制心と忍耐を呼び寄せる必要性を感じなかった。キアラがここにいる。椅子に座ったまま、眠っている彼女を見つめていよう。待つ段階はもう終わりに近づいている。