立ち読みコーナー
目次
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登場人物紹介

グレース(グレーシー)・リラ・デンバーズ 裕福な実業家の娘
ジャック(ジョン)・バイロン       クライボーン公爵家の三男
エズラ・デンバーズ            グレースの父。裕福な実業家
テレンス・クック             グレースの友人。出版社の経営者
ミセス・ジェーン・グラント        グレースの伯母
クライボーン公爵未亡人(アヴァ)     ジャックの母
エドワード(ネッド)           クライボーン公爵。ジャックの長兄
ケイド                  ジャックの兄
メグ                   ケイドの妻
ドレーク                 ジャックの弟。数学者
レオ                   ジャックの双子の弟
ローレンス                ジャックの双子の弟
マロリー                 ジャックの妹
エズメ                  ジャックの末妹
アダム・グレシャム            ジャックの友人
(13ページ)

新郎新婦の誓いの言葉を聞きながら、ジャックはさっき指先に触れた手紙のことを考えていた。急に胸ポケットが熱くなり、焦げているような気がした。

今日の午後四時に<ハチャーズ書店>へ行けば、グレースに会えるでしょう。長身の赤毛の娘です。おそらく眼鏡をかけているはずです。どうぞ遅れずにお出かけください。
E・G・デンバーズ

 長身で赤毛の眼鏡をかけた女性か。兄が花嫁と生涯の誓いを立てるのを見守りながら、ジャックはひそかにため息をついた。せめてもの救いは、本人を見つけるのに苦労しなくてもすみそうなことだ。あとはただ、ミス・デンバーズがふた目と見られない醜女でないことを天に祈るしかない。

 <ハチャーズ書店>の書棚の前に立ったグレース・リラ・デンバーズは、ふいに誰かの視線を感じた。さっとふりかえったが、そこには誰もいなかった。
 やはり気のせいだわ。グレースは前を向きながら思った。いったい誰がわたしを見つめたりするというの。
 自分が人目を集めるたぐいの容姿でないことは、とうの昔からわかっている。少なくとも、称賛のまなざしで見つめられることはない。感じのいい顔立ちをしていると褒められることもたまにはあるし、なかには肌が美しくて歯並びがよく、きれいだとさえ言ってくれる人もいるが、世間の多くの人からは“のっぽのメグ”(英国にあるストーンサークルで、背の高いスタンディングストーンのこと)にたとえられている。
 身長が五フィート十インチもあれば、そう呼ばれるのもしかたのないことだろう。知り合いの中に自分より長身の女性はひとりもいないし、男性でもそう多くはない。おまけに、ほっそりした華奢な体形でもない。父からはよく“理想的な体格”だと言われている。細すぎず太すぎず、父の所有する商船のように“じょうぶで強い”のだそうだ。体に女らしい丸みがないわけではないが、最近は胸のすぐ下からスカートが広がるデザインのドレスが流行しているため、せっかくの曲線もあまり目立たない。おまけに眼鏡までかけている。せめてこれさえなければと思うが、視力が弱いのだからしかたがない。
 グレースはもう一度後ろをふりかえった。誰もいないことがわかり、やれやれと首をふりながら手に持った本に視線を戻した。ページをめくって一、二行ざっと読むと、慎重な手つきで書棚に戻し、次の本を選びはじめた。
 ふと気がつくと、通路のすぐ先にだれかの足が見えた。グレースははっとして反射的に体の向きを変えたが、そのはずみで本が手からすべり落ちてしまった。革装丁の本がワックスのかかった木の床を打って大きな音をたて、数フィート先に転がっていった。
 そのとき別の男性が角を曲がって現われたかと思うと、丁寧に磨かれたヘシアンブーツのつま先の手前で本が止まった。男性は立ち止まり、腰をかがめて本を拾いあげた。それからグレースに歩み寄った。
「あなたの本ですか?」なめらかで深みのあるその声に、グレースは寒い冬の日にバター入りの熱いラム酒を飲んだような、柔らかなシーツにくるまれているような心地になり、ひそかに身震いした。返事をしようとしたが、言葉がのどにつかえて出てこず、男性の目を見てますますどぎまぎした。
 力強さをたたえた知的な瞳は、美しい宝石のように輝いている。混じりけのない見事な青で、サファイアとラピスラズリの中間ぐらいの色合いだ。上品なあごの線にまっすぐな高い鼻、女性を誘惑するために作られたような唇を持ち、罪深いほど整った顔立ちをしている。マホガニー色の髪は短く切られているが、毛先がかすかに波打っているのが見て取れる。
 だがなんといっても一番魅力的なのは、その背の高さだろう。思わず目を瞠るほど男らしく大きな体をしている。少なくとも六フィート三インチか四インチはあるにちがいない。肩幅が広く、がっしりした体形のその男性を前にすると、グレースでさえも自分が小柄になったように感じられた。
 震える息を吸い、視線を床に落とした。いったいどうしたというの? 世間知らずの女学生みたいにそわそわしたりするなんて。この人のような男性は、わたしの手の届かない世界に住んでいる。わたしにとっては夜空の星と同じくらい遠い存在だ。それに、とても危険なタイプの男性でもある。そのことをけっして忘れてはならない。
「ジョンソン博士ですね」男性は本の題名を見た。「個人的にはもっと辛辣な作家のほうが好きです。たとえばスウィフトとか」
 グレースはようやく落ち着きを取り戻して言った。「どちらもそれぞれのよさがある優れた作家だと思います。本を拾ってくださってありがとうございました」
 さあ、これでもう会話は終わりだわ。あとは彼がわたしに本を手渡し、無難な挨拶の言葉を口にして立ち去るだけ。
 ところがグレースの予想に反し、男性は丁寧なお辞儀をした。女性なら誰でも魅了されるにちがいない、優雅で洗練された動作だった。実際のところ、その言葉のひとつひとつ、仕草のひとつひとつが、彼が貴族であることを物語っている。だったらなおのこと、早く別れたほうがいい、とグレースは思った。
「自己紹介させてください」そのとき男性が言い、グレースを驚かせた。「わたしはジョン・バイロン卿と申します。親しい人からは“ジャック”と呼ばれています。失礼ですが、あなたは……?」
 グレースがかすかに眉根を寄せると、鼻に乗せた眼鏡がほんの少し下にずれた。「ミス・グレース・デンバーズです。では閣下、わたしはこれで失礼いたします」
「そんなに急がなくてもいいではありませんか。まだ本をお決めになってないでしょう」
「もう何冊も選んで店員に預けてありますし、自宅にもたくさん持っています。それで充分ですわ」
 男性は一瞬間を置いてから言った。「そうですか。ではご機嫌よう。お話しできて楽しかった、ミス・デンバーズ」
「あの、こちらこそ。さようなら、閣下」グレースは後ろを向き、なんとか足を前に進めた。もう二度とジャック・バイロン卿のような男性と会う機会はないだろうと思いながら、彼のことを頭から追いだそうとした。