立ち読みコーナー
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登場人物紹介

リリー・マスターズ         ロンドン下町の貧しい娘
ギデオン・コール          法廷弁護士
ローリー(ローレンス・モウブリー) キルマーティン卿。ギデオンの親友
コンスタンス・クレアリー      ギデオンが結婚を望む侯爵令嬢
リンゼイ卿             ギデオンの伯父エドワード。男爵
アリス               リリーの妹
アン・クラッパム          ローリーの恋人
ジャーヴィス卿           コンスタンスに求愛する貴族青年
グレッグソン            コール家の老執事
ヘレン               ギデオンの妹
マクブライド            リリーの友人。薬剤師
ダッジ               事務弁護士
ミセス・スマイス          下宿屋の女主人
(p65)
ギデオンはリリー・マスターズをつぶさに観察した。たぐいまれな美しいアクアマリンの瞳、可憐なピンク色のハート形の唇……思いもよらないことに、薄汚れたぼろの下のリリー・マスターズはまれに見る美しい容貌をしていた。無造作にピンでまとめた髪は豊かで、ぼろぼろのドレスの上からでは体つきまではわからないが、明らかにほっそりしている。それに例の声。いやはや。天使のような顔立ちと高級娼婦のようなあの声の組み合わせには、まったくくらくらさせられる。社交界広しといえど、こんな女性はどこにもいないだろう。貴婦人のような言葉遣いで、フランス語の教養もあり、機知に富み、プライドが高く――
 いや。こんなことは狂気の沙汰だ。うまくいくはずがない。彼女は人の隙を狙って盗みを働くすりなんだぞ。自分でもそれを認めている。めんどりの群れに狐を放すようなものじゃないか。
 だが見こみはある。うまくいくかもしれない。もはや失うものはなくなった今、賭けてみる価値はある。ひょっとしたら三十ポンドの埋めあわせができるのではないか。ギデオンは自分のなかで久しく眠っていたなにかが頭をもたげるのを感じた。
 危険を追い求める衝動。
それは南洋で兵士がかかる熱病に似て、体の奥にひそみ、危険が近づくとふたたび現われる。
どうやらあの父の息子である以上、血は争えないようだ。
「ローリー」ギデオンは澄まして言った。「コンスタンスにはライバルが必要だって言っていたよな? 彼女を負かせるほどエキゾチックなライバルがいれば、ぼくにとっては有利に働くかもしれないってさ」
キルマーティンのいぶかしげな顔に、やがてひらめきの光が差した。
そのとたん、パニックが広がった。
「まずいよ、ギデオン。絶対にだめだ。気はたしかなのか。うまくいくはずないって」
「でも彼女を見てみろよ、ローリー」ギデオンは興奮して言った。「あの声を聞いたろう。うまくいくかもしれない。ちょっと磨きをかければ、田舎から来たきみのいとこってことで通るさ。ところで、コンスタンスの関心をかきたてるのに、きみがぼくに田舎のいとこを紹介したがっているってもう話してあるんだ。ぼくらで彼女にダンスや歩き方やなんかを教えよう。コンスタンスがいないあいだ、エドワード伯父さんの屋敷に彼女を連れていって――」
 キルマーティンはぎょっとして言った。「銀器を盗んで、従者と乳繰りあうぞ」
 ギデオンはリリーの頬が真紅に染まるのを興味深く見守った。彼女はさっと顔をそらし、ごくりと固唾をのんだ。“乳繰りあう”の意味を知っているんだな?
「伯父の従者は乳繰りあいに興味を持つ年はとうに過ぎているよ」ギデオンはキルマーティンに言った。「それに彼女にはすべきことを山ほど与えるから、盗みやほかのことをするひまも気力もなくなるさ。楽しみになってきたぞ、ローリー。最近のぼくはつまらないって、きみも言ってたじゃないか。ほんの一カ月かそこら、社交界で通る程度の作法を教えればいいんだ。ぼくらは彼女に慎重に目を光らせている。そしてコンスタンスが降参してぼくと無事婚約したら、彼女を野生に返してやろう」
「よっぽどせっぱつまっているんだな、ギデオン」キルマーティンは哀れむように言った。
「ああ、せっぱつまっているとも、ローリー。これがぼくにとってどんなに重要なことか、わかっているだろう。あと一歩なんだよ。ぼくの――」
「わかってるよ。きみの人生設計、だろう? はっきりさせておこう。つまり、コンスタンスがロンドンを留守にしているあいだ、このすりの娘を伯父さんの屋敷にかくまい、矯正して、ぼくのいとことして社交界に紹介し、コンスタンスにやきもちを焼かせてきみに結婚を迫らせ、そしたらミス・リリー・マスターズの尻を叩いて解放してやる。それがきみの人生設計の新しい骨子なんだな?」
「簡単に言えばそうだ」
「いやよ」ふたたび息を荒らげはじめたリリーが言った。
「素直にしたがうか、ニューゲートへ行くかだ」ギデオンは明るく言った。「オーストラリア送りという手もあるな。楽しい選択肢がたくさんあるぞ」
「だめよ……できないわ……お願い……妹がいるの」プライドも生意気さも影をひそめ、リリーはパニックに震えていた。驚くばかりの変わりようだった。
 ギデオンは黙りこんだ。ぼくにも妹がいる。だから気持ちはわかった。ヘレンのことを思うたび、罪悪感と後悔の念に襲われる。
 キルマーティンがため息をついた。「同じような娘がもうひとりいるわけか」
「妹はいくつだい、リリー?」ギデオンは声をやわらげた。
 一瞬、間があった。「十歳よ、ミスター・コール」リリーはギデオンの目を見つめ、しぶしぶと答えた。妹にかかわることは明らかに言いたくなさそうだ。守りたいのだろう。
「では、きみの妹も連れてこよう。それから今日の午後にも伯父の屋敷へ向けて発つ」
 リリーはキルマーティンの屋敷から逃れる道を探すかのように、部屋を見まわした。
「ぼくならそれはやめておくね、ミス・マスターズ。きみはぼくに三十ポンドの借りがある」
「助けてくれとあなたに頼んだ覚えはないわ。ご自分で勝手に損をしたんでしょう」
 ギデオンはにっこり微笑んだ。「だがきみを助けたことは事実だ。だからきみはぼくに恩がある。それとも泥棒は誇りなど持ちあわせていないのかな? 前々から疑問に思っていたんだ」
 そのひと言が効いた。ギデオンも心得ていたようだ。リリーの顎が持ちあがって、ほっそりした背中がのびた。「あなたは誇りについて微塵も理解しているとは思えないわ」
「ぼくが誇りについてどれだけ理解しているか、喜んで示させてもらうよ、ミス・マスターズ」
 キルマーティンが首をふる。「きみはどうかしてるよ、ギデオン。およそまともじゃない」
「だが手を貸してくれるよな、ローリー?」
「もちろんさ」キルマーティンは陽気に言った。「なんだかおもしろいことになりそうだ」