立ち読みコーナー
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登場人物紹介

ジュリア・ランサム           サンフランシスコに住む未亡人
オーガスト・ランサム          ジュリアの亡夫。霊能者
チェイニー・ストーン          FBIサンフランシスコ支局特別捜査官
ディロン・サビッチ           FBI犯罪分析課チーフ
レーシー・シャーロック         FBI犯罪分析課特別捜査官。ディロンの妻
ディクソン(ディックス)・ノーブル   バージニア州マエストロの保安官
クリスティ・ノーブル          失踪したディクソンの妻
ルース・ワーネッキ           FBI犯罪分析課特別捜査官
チャップマン(チャッピー)・ホルコム  ディクソンの義父
トマス・パラック            サンフランシスコの実業家
シャーロット・パラック         トマスの妻
デビッド・カルディコット        シャーロットの弟。バイオリニスト
コールマン・シャーロック        レーシーの父。サンフランシスコの連邦判事
フランク・ポーレット          サンフランシスコ市警察本部の警部
ウォーレス・タマーレイン        霊能者          
ベブリン・ワグナー           霊能者
キャサリン・ゴールデン         霊能者
ソルダン・マイセン           霊能者
コートニー・ジェームズ         アッティカの刑務所に服役する囚人
 強くリズミカルに胸を押されている。けれど、馬乗りにはされていない。と、誰かの唇が唇におおいかぶさってきて、暖かな空気が吹き入れられ、その空気に満たされた。奇妙な感覚だけれど、ふいにどうでもよくなった。意識が遠のいていく。
 鋭い男の声が顔に浴びせかけられた。「気を失うな! 聞こえるか? いますぐ戻ってこい! 湾から助けだすだけでもひと苦労だったんだぞ。梯子ひとつ近くになかった。ふたりして溺れてもおかしくなかったんだから、いまさらひとりで行くな!」
 一度、二度と頬を平手打ちされて、痛烈な痛みが走る。続いてふたたび胸を押されると、意識が戻ってきた。ただでさえ強い圧迫感がさらに強くなり、そのたびに激しい衝撃が背骨にまで響いた。
「さあ、戻ってこい! 頼むから、息をしてくれ!」
 また唇が重ねられて息が吹きこまれ、歓迎すべき熱が体の奥まで届いた。体は凍えるほど冷えきっているけれど、ふいごを使ったように熱い吐息が入ってくる。そして突然、ジュリアはその熱を求めた。夢中で熱を吸いこんだ。
 さっきの男の声がして、こんどは頬に吐息を感じる。男はくり返した。「そうだ、それでいい、さあ戻ってこい。きみならできる! あきらめるな!」
「もっと」ジュリアはささやいた。声が出ているかどうかわからなかった。うつぶせにされて、男からこぶしで背中を叩かれた。口から水が吹きだすと、すかさず横向きにされた。肩を上下させて必死に息をした。泣きたいほど寒いけれど、男から手首で背中を強打され、ごぼっと水を吐きだした。やがて水はいきおいを失い、顎を伝った。
 苦しげに息をしながら、かすれ声で言った。「アシカの鳴き声はもうやんだのね」
 背中を叩いていた手が止まった。男が言った。「ああ。今日は連中もそろそろ店じまいだ。もう少し我慢しろよ」リズムをつけて背中をさすられると、また大きく激しい咳が出て、さらに水を吐きだした。いったいどこにこれほどの水が入っていたのだろう?
 水が出てこなくなると、男に上体を起こされ、膝のあいだに頭を伏せさせられた。必死に息をした。どうにも震えが止まらなかった。
「よし、いいぞ、そのまま呼吸するんだ」男は言うと、彼女の革のジャケットを脱がせ、代わりに厚地のスポーツコートでくるんでくれた。
 ジュリアはしゃっくりをしながら言った。「わたしのジャケット。かわいそうなことになっちゃったわ。ボストン大学の二年生のときから、ずっと愛用してたのに」
「どうせぼろぼろだから、どうってことないさ。多少の水ぐらいなんだ。それより、聞いてくれ。おれが〈クラブハウス〉から出てきたら、男がきみの顎を殴るのが見えた――そのあとナイフを持ってるのに気づいて、おれは大声をあげた。男は時間がないと察して、きみを手すりから海に落とした。そうしておけば追われないですむ、おれがすぐにきみの救出にあたり、きみを海から助けださなきゃならないとわかっていたからだ。実際、おれは発砲すらできなかった。その時間がなかったんだ」
「あなたが発砲? どういうことなの?」
 闇のなかから別の男の声がした。「おい、チェイニー、ぼくは一瞬たりときみたちから目を離せないのか? ジューンはどこだ? 彼女は一服するため、きみは彼女を連れ戻すために外に出たはずだろ? いったいどうしたんだ? この人は?」
 男は駆け寄ってくると、ふたりの傍らにしゃがみこみ、彼女の顔をのぞきこんだ。呆気にとられたような顔をしている。「なにがあったんだ? 自殺未遂か?」
 彼が尋ねている相手は、彼女を助けてくれたチェイニーとかいう男だが、さいわい命のあったジュリアが代わりに質問に答えた。「いいえ、わたしが男に殴られたんです。その男はわたしを片付ける時間がないと判断すると、手すりからわたしを海に投げ入れたんです。あっという間の出来事で、どうすることもできませんでした。彼、チェイニーがその男を止めてくれたおかげで、命拾いしました」言葉を切り、いたずらっぽい笑みを浮かべて彼を見た。「変わった名前だけれど、変わった名前には慣れてるわ。わたしの名前は変わってなくて、ありふれてるけど」
「きみの名は?」
「ジュリア」
 チェイニーはにこりとして、背中をさすりつづけた。「ありふれてるってほどじゃないさ」